見出し画像

52hzの鯨 — 紛い物の切子グラス —

「あー、まただ」
そう言って男は酷い嫌悪感で目を開けた。
男はすぐに目を閉じる。
「あーーー、消えたい」
そう叫びながら、ソファーの上の毛布に潜り込んだ。
時計の針は10時を過ぎていた。
外は明るく晴れている。
時折、車の音が聞こえてくる。
男は携帯電話の位置を確認した。
近くにないとわかって、少しだけホッとする。
今の男は世界の全てから透明になりたかった。
生物だけではない。
目の前の、去年買った80インチのTVでさえ気に触れる。
男はTVから隠れるように目を閉じ、恐る恐る昨夜の記憶を辿った。
確か飲み始めたのは18時頃だった気がする。

きっかけは、一曲の音楽だった。
仕事から帰宅し、ソファーに腰をかける。
TVでYouTubeを流す。
男のいつものルーティンだ。
考えるわけでもなく、今日一日が音楽と一緒に頭の中をタラタラと流れていく。
そして、ある曲が流れた。
だけど、その曲が流れた瞬間、酒のペースが変わった。

曲に引きずられるように、二十代前半の、寂しくて、無力で、惨めだった頃へと連れ戻される。
泥の底に沈んでいた記憶が、次々と泡を立てて浮かび上がってきた。
友情に理想を抱いていた高校時代。
寂しさから逃げられると信じ、夜の街をバイクで走っていた。
両親からの否定に耐えきれず、衝動的に家出を繰り返した中学時代。
常に殴られ、自分の存在そのものを否定され続けた小学時代。
そして、どれだけ思い出そうとしても、泣いている自分しか出てこない幼少期。

行き着く思い出も、そこから導き出される結論も、いつも同じだった。
寂しい。そして、その寂しさを表現する方法が不器用すぎるせいで、さらに周囲との溝を深めてしまう。
どこにいても、男は常に「余って」いた。家でも。学校でも。そして、大人になった今でも。
どこにいても、男は常に少し余る。

気がつくと男はワイン一本を開けていた。
おつまみにゴルゴンゾーラを小さく切り分ける。
そして当時を確かめるように、夢中で当時の曲を探している。
男は毎回、傷つくとわかっている場所へ、
自分から帰っていく。

新品のグレンリベット12年に手を伸ばす。
傷が魅力の江戸切子に酒を注ぎ、一気に喉へ流し込んだ。
飲むペースが上がっていく。
次に携帯電話へ手を伸ばした。
誰彼構わず適当に電話をかける。
適当に話して切る。
切ったと思ったら、またかける。
覚えているのは、かろうじて三人目まで。
そのまま寝てしまったのか。
他の誰かにもかけたのか。
記憶がない。
今は思い出したくもない。

「また、やってる」

そう思った瞬間、
男の心は暴れながら沈んでいく。

散らかったテーブルの上の江戸切子に手を伸ばす。
既に炭酸水はない。
氷を入れ、ロックで大きめの一口。
やっと座る覚悟ができた。
ようやくTVの前にも座れた。
しかし男は、逃げるように続けてウィスキーを口へ運ぶ。
昨夜の飲みかけのウィスキーがなくなった頃、
ようやくYouTubeから流れる音楽が耳に届き始めた。
新しいグレンリベットを開け終えると、
ようやく携帯電話を探し出す。
携帯を探しながら、「アル中かよ」自分にツッコミを入れて苦笑している。
「何も変わらない。変えられない」
今はわかっていても、飲む事しかできない。

そこには携帯電話に怯えていた男はもういない。
昨夜の通話履歴に目をやる。
「あー、どうしようもねーな」
一言ぼやきながら、また電話帳で誰かを探している。

男は切子グラスを眺める。

深い群青色のガラスに刻まれた、繊細な伝統の幾何学模様。

「お前も同じ傷だらけなのに」
そう呟いて、しばらく目を逸らせなかった。

いいなと思ったら応援しよう!