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立ち止まることで、心が動き始めた

「これはもう、強制停止だ…」
10月後半から11月にかけて体調不良が長いこと続き、心からそう思う日々を過ごしていました。そしてその強制停止は、「やっぱり…」という感覚と「やっと止まれた」という安堵感にも似たような気持ちを同時に私にもたらしました。

もし、今同じように立ち止まっている誰かがいるのなら。
私がこの時間の中で気づいたことを、そっと綴ってみようと思いました。

仕事のこと、子どもたちのこと、ライフワークとしてやりたいこと、家のこと。多岐に渡る「やりたいこと」と「やらなくてはならないこと」が混在していて、その中で「やらなくてはならないと思っていること」をようやく本腰を入れて見直すサインだったのだと思います。

「余裕を持ちたい」と思っているのに、どこかで自分の意志以外のものに時間をコントロールされているような感覚がありました。仕事も、育児も、家のことも、いくらやってもタスクが完全になくなることはなくて、ずっとゴールのないマラソンを走っているような感覚。
タスクがなくならないから、本当にエネルギーを傾けたいと思うことに思うように時間が使えず、またそのストレスが積み重なっていく。

「もう動けない」と思う瞬間はこれまでもあったけれど、やっぱり無理をして頑張って何とかしてしまう。でも、その”何とかする”の積み重ねの中で、少しずつ、少しずつ、私の中に何かが削られていってしまっていたのだと思います。

そして、10月末からデトックスのような高熱が数日間続いたり、免疫が下がりその後インフルエンザに罹患し、ずっと倦怠感が抜けず、仕事の予定はずらし、家のこともほとんどできない日々が続きました。

3週間ほどにも及ぶ体調不良によって悟ったのは、
「持てないものは、もう手放そう」という観念にも似た想いでした。

私は手放すことがとても苦手です。始めることよりも本当に難しいと感じています。でもきっと、自分の心と身体を壊してまでやることなんて、きっとないんだと、今回ばかりは実感として思わざるを得ませんでした。
「もう、今の私には持てない」と思うものには、関わっている方々に想いと言葉を自分なりに尽くして手放すことをした数週間でした。これからまだ、時間をかけて少しずつ手放していくものもあります。

なぜ、こんなにも手放せなかったのだろう。
その理由に気づけたのは、今回の立ち止まりがあったからでした。

私はずっと、自分の気持ちを見つめて、自分の心の声に耳を傾けたいと願っていながらも、日々の生活の速いスピードに巻き込まれると、「本音を大切にしたい」という願いよりも、“やらなくちゃ”“急がなくちゃ”“応えなきゃ”という外側の声を拾って、そのまま自分に投げつけてしまうことがありました。

もし誰かに同じように「今回だけでいいから無理して頑張って」と何度も言われ続けたら、きっとその人のことを信じられなくなってしまうと思います。でも私は、その“無理を求める声”を、自分自身に対して繰り返していたのだと気づきました。

自分自身とコミュニケーションをとることを大切だと思いながらも、実際に自分にしていたことは「声をかけること」や「自分に相談すること」ではなく、自分に「声を一方的に投げていること」も多かったように思います。

心の中で自分が本当に大切にしたいことと、実際の自分にギャップがあると自己信頼感が揺らいでいきます。今回の強制的な立ち止まりは、日々自分にかけ続けていたプレッシャーや本音との心のギャップに実感を持って気づかせてくれるものでした。

最初は、長い間、方向性が違う努力をし続けて時間を無駄にしてしまったようなやるせなさが大きくて途方に暮れるような気持ちになりました。
「こんなに頑張ってきたのに」
「この数年は何だったんだろう」

そんな思いが強くて、高熱でぼーっとしながらしばらくは自分を責めてしまう気持ちがありました。でも、時間の経過とともにそれだけではない自分の気持ちにも目を向けられるようになってきました。

「自分の持っているもので、人の心にやわらかな光を灯せたら」

そんな原点が、確かに私の中にはあった。そしてそれは、今もちゃんと息づいている。

そして、「今いるこの場所で頑張ること」に執着をしてしまっている自分にも気づきました。それが私に苦しさをもたらしていたことも。最初は自分の想いから手段が生まれたはずなのに、進んでいくうちに、いつのまにか手段自体が目的になってしまっていた部分があったのだなあと。

そんな一つではない自分の中のさまざまな感情を、絡まった紐をほどいていくように辿ってみました。感情ひとつひとつにスペースを用意してあげる。すべての感情をすぐに受け入れられなくても、否定も肯定もせず、置いてあげて眺めてみる。答えなんて出さなくていい。そんな日々を送っていました。

そうしているうちに、身体が少し回復してきた頃、「何もできない時間」の奥にひっそりと息づいている豊かさがあることを感じ始めてきました。

お茶を淹れた時に立ち上る湯気に自然と心が緩んだり。
普段は料理をしない夫が試行錯誤しながら作ってくれた鯛茶漬けが本当に美味しくて優しい味がして心に染みたり。
子どもがそっと布団に置いてくれた「ママ大好き」のお手紙に胸がぎゅっとなったり。

動けない日々でも、社会に何も貢献できなくても。
そんな何気ない日常のかけらを“大切だ”と、心で身体で感じられた時間が、
自分の存在を薄くするどころか、逆にその輪郭をそっと浮かび上がらせてくれたように思います。多分それは、私が本当に大切にしたいことが見えたから。

時間や誰かの都合に追われ続けていた日々ではなく、小さな家の中で過ごした時間に、確かなものを感じた数週間でした。

私は何を感じながらこの人生を生きていきたいんだろう。
人生の最期の時に思い出したいのはどんな瞬間だろう。
私は、その「最期に持っていきたいと思えるもの」を残りの人生で大切に集めていきたい。そんな風に思いました。

立ち止まる時間がなければ、きっと気づけなかったこと。
立ち止まったことで、ようやく、何となくではなく、自分の本音と本当の意味で目線を合わせることができた。

でも、本当は強制停止じゃなくて、自分の意志で立ち止まれたらいいなと実感を持って思います。立ち止まる=停止ではなくて、”自分に立ち止まる時間を贈ってあげる”ようなイメージで、自分を大切に見つめてあげる時間を持とうと、今、そんな風に思っています。

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「立ち止まる時間を自分に贈ってあげたい。」
今回そう感じた私のように、必要な方にも、そんな時間がありますように。
もし今、あなたの中にも ほんの少し “立ち止まりたい気持ち” があったとしたら、自分に向けて書く手紙は そっと本音の声を連れてきてくれることがあるかもしれません。

voice seed では、 “見つめる・綴る・声で受けとる”
そんな小さな心の循環をお届けしています。
*11/30まで「年末ボイスレター」受付しています。





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