無自覚なルール違反と「共有スペース」の悲劇
休憩室に入ると、コーヒーメーカーの前に空のポットが置かれていた。相沢が隣でマグカップを持っていた。
「最後のコーヒー、飲んだな」
「うん」
「補充は?」
「してへん」
僕は一秒、間を置いた。整理するための一秒だ。
「次に使う人間のことを考えなかったのか」
「考えた」
「補充してないじゃないか」
「考えた上で、しなかった」
「どういう理屈だ」
相沢がマグカップを置いて、こちらを向いた。本気の目だった。
「いいか。共有スペースっていうのは、そこに関わる全員が当事者意識を持つことで初めて機能する。もし僕が毎回補充したら、他の人間は『誰かがやってくれる』と思い込む。依存の構造が生まれる。僕がやらないことで、次に来た人間が自分でやる。主体性が育つ。これは教育的介入や」
「それは放置の言い訳だ」
「ちゃう。意図的な不作為や」
「同じだ」
「全然ちゃう。事故は不作為、教育は意図や」
「お前が教育者を名乗るなら、まず補充の仕方を見せてからにしろ」
相沢は少し考えた。
「最初のレクチャーはせんでいい。見て盗むのが本来の学習や」
「それは江戸時代の職人の話だ」
「本質は変わらへん」
僕はコーヒーの粉を補充しながら、静かに怒りを処理した。トイレの芯も、一週間前に相沢は「残すことで危機管理能力を養える」と言っていた。共有スペースに対して、相沢は一貫して「教育的放置」という謎の信念を持っている。
問題は、その理屈が一瞬だけ、妙に筋が通って聞こえることだ。
そこが一番、質が悪い。
