師長が来た時の「電子カルテ凝視」という名の擬態
師長の足音は、なぜかわかる。
廊下の向こうから、あの独特のリズムが聞こえた瞬間、相沢の姿勢が変わった。背筋が伸び、眉間にシワが寄り、画面を食い入るように見つめ始めた。
僕はその画面をちらりと見た。3時間前から開いたままの、更新されていないバイタルサインの一覧だった。
「お前、今何も考えてないだろ」
「考えてる」
「何を」
「……数値の推移」
「3時間動いてない数値の推移を今考えるのか」
「異常がないことの確認も、立派な医療行為や」
師長が入ってきた。
「ちょっと、誰かシーツ交換の残り手伝える?」
僕が口を開こうとした瞬間、相沢の眉間のシワが2ミリ深くなった。画面との距離が1センチ縮まった。
「あ、じゃあ僕行きます」と言ったのは、結局僕だった。
15分後、戻ると相沢はお茶を飲んでいた。
「擬態、成功したな」
「ステルス迷彩や」
「同じだ」
「全然ちゃう。擬態は本能、ステルス迷彩は戦略や」
「どちらも逃げだ」
相沢が、少しだけ真剣な顔をした。
「いいか。師長があの雑務を振れる人間は、病棟に何人いる。真面目に顔を上げてる人間だけや。逆に言えば、顔を上げてる人間に仕事は集まる。それは個人の問題やなくて、構造の問題や」
「だから構造に乗っかって逃げるのか」
「構造を理解して、最適に動いてるんや」
「それを逃げと言う」
「それを賢さと言う」
僕はシーツ交換で少し痛めた腰を伸ばした。
相沢は間違っている。でも、師長はまた明日も来る。あの足音のたびに、正直に顔を上げ続けた先に何があるのか、僕にはまだわからなかった。
