エレベーターの「閉」ボタンと冷徹な医療的トリアージ
エレベーターのドアが閉まる直前、廊下の向こうから声がした。
「あ、待って──」
東棟の田所さんだった。小走りで駆けてくる。相沢と目が合っていた。完全に合っていた。
相沢は無表情で「閉」ボタンを押した。
ドアが閉まった。
「……今、目が合ってたぞ」
「合ってた」
「なんで閉めた」
「医療的判断や」
僕は相沢を見た。冗談の顔ではなかった。
「夜勤明けに全力疾走させたら心拍数がどうなる。脈拍140は超える。血圧も上がる。場合によっては迷走神経反射が起きる。廊下で倒れたら誰が責任取るんや」
「それはお前が待ってあげれば解決する話だ」
「違う。根本的な解決は『走らせないこと』や。ドアを閉めることで、田所さんは次のエレベーターを待つという安全な選択肢を与えられた」
「与えてない。奪ってる」
「見方の問題や」
「見方じゃなくて事実の問題だ。お前は面倒だから閉めた」
「それは結果論や。動機は医療安全にある」
「動機は怠惰にある」
「僕の内面を断言するな。それはハラスメントに近い」
「話を広げるな」
エレベーターが6階に着いた。ドアが開くと、階段から上がってきた田所さんが立っていた。息が少し上がっている。相沢が言った。
「田所さん、階段使ったんですか。夜勤明けに無理しないでくださいよ」
田所さんが「エレベーター来なくて」と笑った。
相沢は「体、大事にしてくださいね」と言った。本当に心配そうな顔で。
僕は何も言えなかった。
罪悪感と心配りが、相沢の中で完全に同居している。それが恐ろしいのか、あるいは人間として正しい姿なのか、夜勤明けの頭では判断できなかった。
