小さなミス報告における「未来への投資」
相沢が確認モレをやらかした。
内服薬の指示変更、見落とし一歩手前。患者への実害はなかったが、発覚した経緯が最悪だった。怖い先輩、木村さんの目の前でカルテを開いたときに、相沢自身が気づいたのだ。
僕は3メートル離れたところで、固唾を呑んだ。
相沢は、背筋を伸ばした。
「木村さん、報告があります」
「なに」
「今回の確認モレにより、当病棟のダブルチェック体制における構造的な脆弱性が明らかになりました。私はその脆弱性を、自らの身をもって発見しました」
木村さんが眉を動かした。
「……何それ」
「属人的な確認フローへの過度な依存が、今回のリスクを生みました。これを機に、チェックリストの見直しを提案したいと考えています」
「あなたがミスしたんじゃないの」
「ミスという枠組みで捉えるか、システム改善のトリガーと捉えるかで、この先の行動が変わります」
沈黙があった。
木村さんが「……チェックリスト、確かに古いのよね」と言った。
僕は耳を疑った。
「次、気をつけなさい」で話が終わった。謝罪なし。怒号なし。なぜかチェックリスト見直しの話になっていた。
相沢が戻ってきた。
「謝らなかったな」
「謝罪は過去への執着や」
「お前がミスしたんだぞ」
「ミスは事実や。でも同じ時間を使うなら、過去を悔やむより未来を設計する方が病棟のためになる」
「それは逃げだ」
「投資や」
「謝罪を投資と呼ぶな」
「謝罪を、やない。謝罪をしないことを、投資と呼んでる」
「同じだ」
「全然ちゃう」
僕はカルテを閉じた。
間違っている、と思う。でも木村さんは怒らなかった。患者への実害もなかった。相沢のミスは、結果的に病棟のチェックリストを動かすかもしれない。
謝らずに、前に進む。その図太さが、この病棟では時に、正論より遠くまで届く。
それが悔しくて、少しだけ、笑えてしまった。
