アルコール消毒液の「1ミリ残し」と次世代へのバトン
ポンプを押すと、空気だけが出た。
ボトルを持ち上げると、底にうっすら液体が光っている。1ミリ、あるかないか。使えない量だ。隣で相沢がカルテを眺めていた。
「お前、これ気づいてたな」
「気づいてた」
「なんで替えなかった」
「替えるほどでもなかった」
僕はボトルを手に取り、相沢の顔の前に差し出した。
「1ミリだぞ。誰も使えない。これはもう終わってる」
「終わってへん。可能性が残ってる」
「何の可能性だ」
相沢がカルテから目を上げた。本気の顔だった。
「後輩の成長や」
「は?」
「考えてみい。このボトルに誰かが気づく。気づいて、自分で新しいボトルを出して、交換する。その瞬間、その人間は『環境を自ら整えた』という成功体験を得る。自己効力感が生まれる。僕が今すぐ替えたら、その体験を奪うことになる」
「それは怠慢を教育と呼んでいるだけだ」
「ちゃう。意図的な余白や」
「1ミリの余白で人は育たない」
「器の小さい話をするな。教育は積み重ねや。この1ミリが、後輩の中の何かに火をつけるかもしれん」
「火をつけるのはお前の怠慢だ」
「怠慢と委任は違う」
「どう違う」
「怠慢は無意識、委任は意図や。僕は意図を持ってこのボトルを残した」
「意図を持って1ミリ残すのは怠慢より悪い。確信犯だ」
相沢は少し考えた。
「確信犯という言葉は、誤用されやすい。本来の意味は──」
「今それを論じる気はない」
僕は新しいボトルを棚から出して、自分で交換した。所要時間、20秒だった。
「僕が替えた」
「後輩の成長機会を奪ったな」
「お前の言う後輩は、この20秒で潰れるほど繊細じゃない」
相沢は黙って、カルテに戻った。
正しいのは僕だと思う。でも相沢が3年間、一度もボトル交換をせず、一度も怒られていないのも事実だ。この病棟では、1ミリを残し続けた者が生き延びているのかもしれない。それが悔しくて、少しだけ、虚しかった。
