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『法の外の生命線 探偵、柊雪人(ひいらぎゆきと)の受難』【終幕】奪われた看板と、残された傷痕 【1】・【2】

【終幕】奪われた看板と、残された傷痕【1】


 
 半年に及ぶ警察の執拗な家宅捜索と、電波法違反および不法侵入幇助ふほうしんにゅうほうじょでの取り調べがすべて終わった時、柊の手元には何も残っていなかった。
 十数年かけて築き上げた探偵事務所の営業許可は取り消され、慣れ親しんだ雑居ビルの一室は引き払われた。
 長年、数々の修羅場を共にしてきたカメラや特殊機材は二束三文で叩き売り、残ったのはほんのわずかな貯金と、「前科一犯」の重い肩書きだけだった。

「――お疲れさん、柊」

 かつて裏ルートの情報屋として繋がっていた男が、都心の片隅にある古びた雑居ビルの鍵を柊に放り投げた。

「元探偵の面倒を見てくれる物好きな大家おおやなんて、そうそういねえぞ。ただの夜間管理人だ。給料は安いが、住み込みの四畳半がついてる。……もう、余計な首は突っ込むなよ。無駄な正義感は身を滅ぼすからな」
 
 今のひいらぎは、そのビルの管理人室に収まっていた。
 かつての鋭い眼光はすっかり影を潜め、背中を少し丸めて、住人のゴミ出しを黙々と手伝う。脚立を抱えて薄暗い廊下の電球を替え、詰まった排水口を泥にまみれて掃除する。それが、探偵の看板を剥がされた柊の、新しい日常だった。
 雨の降る日は、今でも右の脇腹と拳が疼く。
 あの日、ビジネスホテルの床で現役警官の暴力に、肉体一つで抗った記憶は、消えない鈍痛として身体に深く刻まれている。

 法の手が届かない暗闇で、一人の女性の命を救うために、自分という人間のすべてを差し出した。悔いはなかったが、ふとした瞬間に襲ってくる圧倒的な孤独と虚脱感だけは、どうしても拭い去ることができなかった。「自分は本当に、正しいことをしたのだろうか? ただの自己満足のために、自分の人生を壊しただけではないのか――」、と。

 冷めきった珈琲をすすりながら、柊は曇った空を見上げた。

◇ ◇ ◇
 
 事件から一年が経ち、季節が再び冬へと向かう頃、管理人室の年季の入ったテレビが、どこかの地方で初雪が観測されたというニュースを淡々と報じていた。
 柊がいつものように管理人室のデスクで新聞に目を落としていると、手元のスマートフォンが微かに震えた。
 画面に表示されたのは、差出人の名前もアドレスもない、暗号化された海外サーバーを経由した一通のメッセージだった。探偵を辞めてから、誰からも連絡など来ないはずの端末だ。
 柊は、震える指先で画面をタップした。

『こちらは、今朝から雪が降り始めました。
 新しく見つけた北国の小さなオフィスで、今日もデザインの仕事をしています。自分の名前で働き、自分の名前で家を借り、自分の足で、ちゃんと街を歩いています。もう、夜のコインランドリーに行く必要はありません。
……ありがとうございました、柊さん。私、生きていきます』

 メッセージの最後には、一面の銀世界の中に、ぽつんと温かい明かりを灯す小さなオフィスの写真が添付されていた。
 美咲からの、最初で最後の連絡だった。
 あの坚牢で歪んだ国家のシステムからも、葛西という怪物の執着からも完全に脱出した彼女は、今、誰の死角を縫うこともなく、堂々と社会の光の中で自分の人生を歩んでいる。
 
 写真に写る小さなオフィスの明かりを見つめているうちに、ひいらぎの目元が微かに熱くなった。
 自分がすべてを失って支払った代償。それは、一人の女性が「普通に生きる」という、あまりにも美しく尊い光に変わっていたのだ。

「……元気でな。今度こそ平穏を」
 
 柊は短く呟くと、メッセージを完全に消去した。彼女の『足跡』は、これでこの世から完全に消えた。元探偵の自分の頭の中にだけあればいい。
 柊はスマートフォンをポケットに仕舞い、管理人室の窓を開けた。
 都心のビルの隙間から、冷たい、しかしどこか澄んだ冬の風が吹き込んでくる。
 探偵の看板を失い、ただの管理人となった男の横顔には、かつてないほど穏やかで……そして、確かで静かないだ時間が流れていた。

【終幕】奪われた看板と、残された傷痕【2】


 探偵業法第3条、営業廃止処分による「5年の欠格期間」。
 それは柊にとって、単なる法律の罰則ではなく、牙を抜かれ、過去を剥ぎ取られるのに十分な歳月だった。
 雑居ビルの管理人室。
 テレビのノイズだけが響く狭い部屋で、柊は机の引き出しの奥から、一枚の封筒を取り出した。今日届いたばかりの、東京都公安委員会からの「探偵業開始届出」の受理通知。
 法的には、今日から再び探偵を名乗れる。だが、十数年かけて築いた機材も人脈も、あの日すべて叩き売った。いま手元にあるのは、錆びついた勘だけだ。

(5年も現場を離れた俺が、今更何をする……)

 自嘲気味に呟き、通知書を引き出しに戻そうとした、その時だった。
 管理人室のドアが、ノックもなしに静かに開いた。
 隙間から滑り込んできたのは、濡れた雨の匂い。そして、細い肩を震わせた若い女だった。年齢は二十代半ば。ひどく上質な、しかし泥で汚れたトレンチコートを着ている。

「……ひいらぎ、さんですか? 」

 その声を聞いた瞬間、柊の背筋を、かつての「プロの違和感」が駆け上がった。
 女の怯え方は異常だった。ストーカーに怯える一般人のそれではない。何より、彼女の視線は柊ではなく、管理人室の窓の「ブラインドの隙間」に向けられていた。完全に『狙撃や監視』を警戒するプロの視線だ。

「看板は五年前に下ろした。人違いだ」

 柊は声を低くし、わざと冷たく突き放した。厄介事に関わる気は毛頭ない。
特に、この人物のような目つきの人間には。

 しかし、女はデスクに一歩近づき、握りしめていたスマートフォンの画面を柊に押し付けた。
 液晶に映っていたのは、ある『特殊なコマンドライン』。そして、GPSの追跡ログ。

「昨日、私の部屋のスマート家電●●●●●●がすべてハッキングされました。スマートロックが勝手に解錠され、ログに残ったIPアドレスを辿ったら……ここに突き当たったんです」
 
 女が画面をスワイプする。そこに表示された発信元(サーバー)の名称を見た瞬間、柊の息が止まった。

――【MPD_SYS_CORE】――警視庁、基幹情報システム。

「私は元・警視庁公安部、サイバー犯罪情報分析官の長谷川はせがわです」
 
 女は身分を明かした。その瞳には、かつての美咲と同じ、深い絶望の光が宿っていた。

「五年前、あなたが潰したはずの『合法ストーカー・システム』……あれは葛西個人の暴走なんかじゃない。警察組織が裏で運用している、未公認の【国民監視バグ】です。葛西はその末端にすぎなかった」

 長谷川は、自身のコートのポケットから、厳重に遮断バッグに包まれた1本のUSBメモリを取り出し、デスクに叩きつけた。

「組織がシステムの『バグ』を隠蔽するために、開発者である私を消そうとしています。……柊さん。あなただけが、あのシステム(国家)を相手に、唯一『勝ち逃げ』した探偵です。お願いです、私を逃がしてください」
 
 遠くから、深夜の街を切り裂くサイレンの音が近づいてくる。
 1台ではない。複数だ。このビルを取り囲むように、明らかに速度を上げている。
 ひいらぎは、手元の公安委員会の通知書を見た。
 五年――。牙を抜くには十分な時間だった。だが、目の前の理不尽を前にして、胸の奥で眠っていたはずの「正義感」が、信じられないほどの熱量で火を噴いた。
 自分のどうしようもない性分しょうぶんに、ほとほと呆れる。

「……長谷川さん。探偵の基本料金は、1日5万だ。経費は別途もらう」

 柊は立ち上がり、引き出しからバールではなく、五年間一度も電源を入れなかった古い暗号化ノートPCを引きずり出した。

「ただし、五年ぶりの復帰戦だ。……相手が国家なら、少し値上げさせてもらうぞ」
 
 サイレンの音が、ビルの真下で止まった。
 探偵・柊雪人ひいらぎゆきと。欠格期間五年を過ぎたその日に、彼は再び、国という名の巨大な怪物と踊るために、暗闇へと足を踏み入れた。



【完】

【あとがき】:読んでくださいました皆様。お疲れさまでした!
今回、書かせていただきました『法の外の生命線 探偵、柊雪人(ひいらぎゆきと)の受難』は、約7割が事実ベース、そして残り3割が創作でした。
たまたま縁がありました「探偵」さんから直接聞かせて頂きました内容なのですが、実際の被害者となった女性の最後は、残念ながら作品とは真逆の最悪の結果となってしまいました。ですので、この作品では結末の違う終わりを迎えることは、意味があるのではと考えました。(当時のニュースにもなっていました)

これを期に皆様も年齢・性別関係なく防犯のための基礎知識を身に着け、できればある程度の護身術も身に着けていただくのも良いかもしれません。
注意喚起も併せて、★探偵業法マメ知識集+自己防衛のための防犯グッズ、キャラクター装備等を書きました記事も公開します。是非お読みください。
自分の身は自分で護れるようにしていきましょう!

※因みにですが、東京都が作品の舞台に登場しますが、実際の現場とは異なります

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