『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆最終章~後編~ 名前のつかない場所へ
最終章 ~後編~ 名前のつかない場所へ
【1】
陽の光は、変わっていなかった。
ただ、それを受け取る側が変わっていた。
人の流れの中を、灰瀬は歩いている。立ち止まらない、そして振り返らない、ただ前を向いて進み続ける。
隣には、もう誰もいない。
あの分かれ道から、橘とは別れた。
交わした言葉は最後まで少なかったが、それでも良かった。縁があればまたいつかどこかで出会うだろう、と。
そして、もうこれ以上何かに使われることもない。
その確信だけが、残っている。乾いた空気が風になって頬をかすめる。街は変わらない。
人も、音も、流れも。何一つ、終わっていない。
あの日の橘の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
《俺は、やったのか? 》
灰瀬は、あの時と同じ答えを思い出す。
(やってないわけじゃない……)
だが、それだけでもない。
(だからと言って全部、自分で選んだわけでもない)
その曖昧さを、もう否定する気はなかった。正しさも、間違いも、簡単には分けられない。
それでも――
(選ぶことはできる)
ただそれだけが、残った。
足を止める。交差点の信号が赤に変わる。それに倣って行き交う人たちが次々に並んでいく。
皆誰もが前を見ている。そしてその中に、紛れ込んでいたとしても、誰も見ていない。誰も気に留めない。
あの場所とは違う。「観測されていない」その感覚だけが、確かにあった。
その時ポケットの中で、携帯が震えた。
表示された名前を見て、ほんの一瞬だけ、目を細める。
発信者は佐伯だった。
「……なんだ? 」
「冷たいな」
いつも通りの調子のいい軽い口調が聴こえてくる。
だが、その奥にわずかな間があった。
「無事か? 」
「まあな」
短い返しに少しの沈黙が訪れる。
「約束、覚えてるか? 」
佐伯のその問いに、灰瀬は気まずそうな顔をする。自分で言ったこととは言え、記憶からすっかり抜け落ちていたからだ。
「……寿司か」
「そう、奢りっ。しかも回らない寿司だぞー」
軽い口調にどことなく、わざとらしさを感じる。
灰瀬は周囲を見た。人、信号、風。どれも何も変わらない。
だが――、自分はもう違う場所にいる。
「行かない」
一線を引いたようなその返事に、佐伯は少しだけ黙る。
「そっか……」
少し寂し気な声で答える。
灰瀬が離れていこうとしている……。
それを理解しているからこそ引き止めるようなことはしない。
声が聞けた。それだけで十分だった。
だが、灰瀬は電話越しに顔をほころばせながら、穏やかな声で佐伯に言った。
「今はな――」
ほんのわずかな間の後、佐伯が、小さく笑った。
「じゃあ、そのうちなっ」
その瞬間。信号の色が一瞬だけ変わる。まだ赤のはずだった。人の流れが……姿が、わずかにブレる。灰瀬以外、その事に気付かない。灰瀬はただ一人それを目撃したのだった。
その時、あの時に佐伯が言った言葉を完全に理解した。
誘われ、そして迷って、決断を口にしたその瞬間が、未来が変わった瞬間だった。
(……これが佐伯の言う「因果」なのか)
そう、これが選択。未来は自分の行動一つで如何様にもその姿を変化させていく。
だからこそ灰瀬は何も聞かない。そして佐伯も、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあな。また会おう」
携帯が内ポケットの奥で、ほんのわずかな温度を残す。
それは消えない。
だが、これは自分を縛るものでもなかった。
今度こそ信号が青になる。人々がまた動き出す。その流れに紛れて、灰瀬も同じように歩き出した。
【2】
あれから季節は、少しだけ進んでいた。
空気は柔らかく、風の匂いも変わっている。
ここは海に囲まれた閑静な場所だった。雑踏の多い都会とは比べ物にならない程、人も少なく、そして両親が眠る場所。
灰瀬は、舗装されていない路をゆっくりと自分のペースで歩いていた。
その調子のまま小さな商店の前を通り過ぎようとした時、外にまで聴こえる音量のラジオ放送が流れてきた。
「——警察庁では、次期人事についての調整が進んでおり……」
何気ないニュース。
「一ノ瀬参事官(52)を警視長に昇任させ、刑事部長に充てられることが有力視されているとの見方も――」
その内容に、足がほんの一瞬だけ止まる。
そして、少しだけ視線を落とした。
「……そうか。多分、決まりだな。おめでとう叔父さん」
口元には微笑みを湛え、それだけ呟くと灰瀬は家路へと向かう。
世界は続いている。
あの場所も、あの人間たちも、きっと今まで通り何も変わらずに……。
ただ一つ違うのは――
そこに「自分がいない」こと。それだけだった。
陽が西に沈むと、日差しが少しだけ柔らかくなる。
灰瀬は海辺から街の方へと人の流れに乗って歩いていく。
その中で、灰瀬は立ち止まった。
あの日、「観測外」に出たあの時と時間を重ねる。
周囲を見回しても、誰も自分を見ていない。
誰も、何も、気にしていない。そしてここでは記録も、残らない。
今はどこにも属していない。
灰瀬は、静かに息を吐く。
胸の奥に残っているものは、消えてはいない。
だが、それでいいと思えた。
誰にも見られず、そして誰にも選ばれない。それでも、前を向いて歩いていく。
その場所はきっと、『名前のつかない領域』だ。
その選択が、どこへ至るのかは――まだ、誰も知らない。そして自分自身も知らない。
ただ一つ、それを“見ている者”がいるとすれば、それはきっと、
結末ではなく――
その『過程に興味を持つ人間』だろう。
【完】
【あとがき】:
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
いかがだったでしょうか?
わたしの中の灰瀬という存在は、人の過去、そして心を知ってしまう能力があるからこそ、他人に対して心を開かない……開けないキャラクターでした。
それでも唯一心を許したのが相棒の佐伯でした。佐伯は最後まで自分の能力を灰瀬に教える事をしませんでしたが、それは灰瀬のためでもありました。
彼自身が選択し、信じる道を進むことで成長していく事を願ったからです。そして灰瀬は最後に自分自身が信じる未来を、自ら選択することができたのです。
この物語の核心はタイトルの通り、初めから最後まで「観測外」という名の「自己選択」の話しでした。
助けを求める者に対して、シュレディンガーの箱でもあった「国家」の命令をとるのか、それとも自分の「意志」に従い「観測外」へ向かうのか……。
これを書きながら、灰瀬の心と苦悩、そして佐伯の寄り添う気持ちと一緒に答えを探し、完結へと繋げていきました。迷いながらの原点回帰へと。
もし読者様も何か信じる道があるのならば、諦めず突き進んで行ってくださいね。応援しています。
それでは!
本当にありがとうございました!!
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