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『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 第九章◆観測外へと踏み出す二人 クアルトゲームの盤 【1】

第九章 観測外へと踏み出す二人 クアルトゲームの盤 【1】

  
 既に太陽は真上まで昇ってきていた。
 数日間閉め切られていたカーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃を浮かび上がらせている。

 現実感が、少しだけ遅れて戻ってくる。

「……行くぞ」

 そう言うと、ベッドに座り腐っていた橘が顔を上げた。

「どこに? 」
「飯だ」

 橘はわずかに眉を寄せる。

「……外か? 」
「嫌ならやめるが、部屋を見てみろ。ここの所まともなものを喰ってないだろ? 」

 食べたジャンクのゴミが部屋に溜まっているこの惨状に耐えられず、灰瀬も嫌気がさしてきていた。
 右足の痛みはまだ残っている。

それでも――

「いや、行く」

 明確な理由はこれといってない。だが、閉じこもっている方が危険な気がしたからだ。
 それが直感なのか、刷り込まれた何かなのかは分からない。
 灰瀬は小さく頷いた。

「フード、深く被っとけ」
「言われなくても」

 ドアを開けて一歩踏み出す……それだけのことに尻込みしてしまう程の恐ろしさを感じたが、橘は意を決して踏み出す。
 足がほんの一瞬だけ止まった。
 外の空気は存外冷たく、乾いていた。
 昼だというのに、この日の人通りはまばらだった。
 住宅街の狭い路地は生活音が遠くで鳴っている。

 橘は無意識に周囲を見回す。視線、足音、車の気配……。

(……いない)

 安堵の溜息を吐く。少なくとも今は問題ない――。
だが、その事実が逆に不安感を呼び込んだ。

(おかしい……)

 ここまで追われていたのに……。あの夜、あれだけの人数が動いていたのに。

(どうして、こんなに静かなんだ……)

 橘は足を止めかける。これ以上歩みを進めてもいいのだろうか?想定外の事態に対応できるよう、身構えながら歩く。
 その時ふいに灰瀬が橘に声をかけた。

「気付いてるか? 」

 前を向いたまま歩き続ける灰瀬は振り向かずに橘に問いかける。

「……何がだ? 」
「静かすぎる」

 橘の呼吸が、わずかに止まる。

「追われている人間の環境じゃない」

 橘は目深に被ったフードから少しだけ視線を上げる。

(いま同じことを考えていた……)

「……ああ」

 短く低い声で返す。
 護るように橘の横に付くと、歩きながら灰瀬がぽつりと付け加えた。

「泳がされてるな」

 その言葉は、やけに無造作で味気なかった。が、橘にとってはそれが重くのしかかる。
 橘は黙ったまま、前を向いた。そして灰瀬はそれ以上何も言わなかった。言える事が何もなかったから。
 灰瀬はいつも利用している小さな飲食店に入った。カロンカロンと懐かし気な音が店内に響く。
 既に昼時を少し過ぎているせいか、客は少ない。
 二人は奥側の入り口を見渡せる窓際の席を陣取った。

 窓の外では何も知らない通行人たちが行き交っている。プライベートな話し、他人の悪口、子供連れの母親、サラリーマン――。そして携帯電話。彼らは常に見えない場所から監視されていることも知らずに……。

 橘はおもむろにメニュー表を開くが、内容が頭に入ってこない。この異常とも言える不穏な動きすらない普通の状況が、逆に恐怖を誘う。

 その時、橘は店の奥にいた親子が目に入った。
 子供が一人、テーブルで何かを並べている。
 小さな木の駒でできたボードゲーム。形は同じだが、色や高さが微妙に違う。
 子供の前の駒は四つ、キレイに並んでいた。更に横にも揃っている。

「……揃ったっ! 」

 子供が嬉しそうな顔で笑いながら手を挙げた。
 向かいにいた母親が笑う。

「はい、負けー」
「えー!? なんでー? 」
 
 そのやり取りが、やけに引っかかった。橘は何かを考えるようにボードを凝視している。
 灰瀬がその視線に気付き橘に聞いた。

「どうした? 」
「……あれ」

 顎で示す。
 促された灰瀬もそちらを見る。
 子供が駒を一つ手に取り、母親に差し出す。

「次これー」

 母親は少し困った顔で受け取る。
 そして、置く場所を選ぶがその一手で全ての盤面が変わる。
 橘はそのやり取りから目を離せなかった。

(選ばせてる……? )

 また違和感が、形を持ち始める。霧が凝り固まるように……。

――視界が、ぐにゃりと音を立てて揺れた。

 それはほんの一瞬だった。瞬く間に消えていった映像だったが、別の光景が脳裏に差し込んでいた。
 白い部屋。無機質な照明。そして誰かが、こちらを見ていた。歪に嗤っていた口元だけがやけに記憶に残る。

いや――こちら●●●ではなく、自分を通して、何かを見ている視線。
呼吸が苦しくなる。橘の指先が白くなるほどテーブルを強く掴んだ。

「……っ」

 灰瀬がすぐに異変に気付き、周囲に聴こえない程度の声色で橘に問いかける。

「どうした? 」
「今……」

 言葉が続かない。割れるような痛みに頭の奥が軋む。

(これは記憶じゃない。でも、確かに“見た”――いや……)

「……見られていたっ」

 かすれた声で小さく答えた。灰瀬の目がわずかに細くなる。
 橘は額に手を当てる。

「俺じゃない……視点が……」

 その言葉で、灰瀬の中で何かが繋がる。
 ずっと感じていた違和感がこの言葉で確実なものとなった。

「……やっぱりか」

 ボソリと小さく呟く。
 橘が顔を上げる。

「何がだ? 」

 言うべきかどうかを灰瀬は一瞬迷ったが、できるだけ言葉を選び冷静に伝える。

「お前、自分の意思で動いてない時があった」

 沈黙と共に、橘の周りだけ空気が止まった。
 橘の目が揺れ動く。

 否定しようとしても――できない。
 思い当たる節はあった。あの違和感。あの記憶の空白は……。

「……」

 それ以上は、言う必要がなかった。
 もう分かっている。
 橘の中で何かが寄生●●し、操っている。

そしてそれは――

(あの爆発の記憶がないのも――)

 思考が止まらない。
 制御不能だと思われていた能力は――意図的に、動かされていたのだ。

いや――

(操り人形のように制御されていた)

 『城崎』、あの男の顔が浮かぶ。
 そして、また思い出す。あの男が必ずだした単語。
 「観測」
 「記録」
 「評価」
 人間としての扱いではなく、自分の興味を満たす為の道具。
 灰瀬はなかば諦めたような吐息を吐く。

「……同じか」

 小さく、しかしはっきりと。
 橘が顔を上げる。

「何が」

 灰瀬はすぐには答えなかった。代わりに、テーブルの上を指先でなぞる。
 見えない線を描くように。

「事件も……お前も。そして全部が……」

 グッと視線を上げる。

「同じ作りだ」

 橘の喉がわずかに鳴る。
 灰瀬が言った「同じ作り」が何を意味しているのか完全には分からない。だが、直感が理解している。それは、良くない答えだと。
 
 灰瀬は窓の外を歩く人々に視線を移す。法を守りながら生きる人々。

 これが普通の世界――
 
「俺たちはな」

 噛みしめるように深く静かに言った。

「見られてるんじゃない。――使われてるんだ」

 灰瀬は自分が言った言葉の重さを、誰よりも知っていた。
 その言葉は、あまりにも静かで重く……そして残酷だった。
店の奥で、子供がまた声を上げる。

「また揃った! 」

 駒が並び条件が満たされる。その時、勝敗が決まる。
「クアルトゲーム」――。
 
 誰が選んだのか。
 誰が置いたのか。
 その意味を理解しているのは、誰なのか。

 灰瀬はその親子の光景を静かに見つめた。
 そしてそれは、わずかに憂いを含んでいた。

(きれいに配置された俺たちは、ヤツにとっての芸術作品なのかもしれない)

 自分も、橘も、過去も全部が誰かの盤の上にあるのかもしれない。

 だが――その時、ほんのわずかだけ思考の境界線を越える。

(……それなら)

 長い間囚われていた檻に、桜の鎖で繋がれていた自分が初めて試みる初めての反発。限界の外側へ、踏み出す一歩だった。

(盤から外れたら、どうなる? )

 その問いに対する答えはまだない。だが確かに、自分の内側に存在している。
  外を眺めながら一人思考を巡らしていた灰瀬たちの元に料理が目の前に置かれる。
 肉の焼けた旨そうな香りが空腹を刺激する。
 
「……って、お、おま。なにステーキ頼んでるんだっ! 」
「えっ!? 出世払いだからっ」
 
(はぁ、こいつといると調子が狂う。弱いんだか強いんだか……まったく)
 
 場の空気がほんのわずかだけ和らぐ。そして溜息交じりに灰瀬は微笑んだ。
 
「いまのうちにシャバの空気も、存分に味わっておけよ」


 
次回火曜日21時(数分誤差有)更新:


『因果は終わらない。――だが、初めて自分の足で歩き始めた』

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