~人間は完璧でなければ認められないのだろうか?~
人間は完璧でなければ認められないのだろうか?
私が長い年月をかけて胸の奥に抱え続けてきた疑問があります。「人間は、完璧でなければ、世の中に居場所すら与えられないのだろうか?」という、重たく、深く、影のようにまとわりつく疑問です。これは、単なる心のつぶやきではなく、社会の構造そのものから投影された巨大な問いです。そして同時に、私自身の人生がこの問いに何度も打ちのめされながら歩んできた道のりそのものでもあります。
私は、偉い地位にあった医師の息子として生まれました。しかし、幼少期に両親が離婚し、母方に引き取られました。家柄の優位性——一般の人が想像するような“特権”や“保障”のようなものは、実際には何ひとつとして、私の人生の土台には存在しませんでした。むしろ、バラバラになった家庭の中で、静かに、しかし強い圧力として、「お前は完璧でなければダメなんだ」という無言のメッセージが、幼い心に植え付けられていたように思います。
それは家族だけに限ったことではありません。社会に出た瞬間、私はそのメッセージが“家庭外でも完全に共有されている”ことを痛感しました。
大企業の社長面接まで進んだことがあります。しかし不採用。
偏差値がつかない大学の編入学面接で落ちました。
専門学校ですら面接で落ち続けました。
予備校では門前払いを食らいました。
普通なら「不採用が続くことなんて誰でもある」と思うでしょう。私だってそう思いたかった。しかし、私が直面してきた数々の面接官たちの態度、表情、言葉、そのすべてから感じたのは、「この国は、完璧でない人間に対し、かくも容赦なく冷たく、かくも苛烈なのか」という残酷な事実でした。
あなたは完璧ではない。
だから採らない。
だからダメだ。
だから生きる価値がない。
そんな空気が、全身にまとわりついてくるのです。
しかし、ここで私は断言します。
完璧な人間など、この世に一人もいません。
これは慰めではなく、誰もが本当は知っている事実です。
人間は、必ずどこかが欠けています。
必ずどこかが不完全です。
必ず誰にも言えない秘密を抱えています。
私は以前、精神科医が守秘義務を破った件について書いたことがありますが、あれは“特別に悪質な医師がいた”という話ではありません。どんな立派に見える人の裏にも、人間的な弱さがあります。それが公になっていないだけです。組織の構造上、隠されているだけです。“完全無欠の立派な人間像”など、国家レベルの幻想にすぎません。
誠実な人でも、間違いをします。
努力家でも、判断を誤ります。
優しい人でも、時に誰かを傷つけてしまいます。
逆に、不器用だったり天然だったりする人が、深い愛情や温かさを持っていることもあります。
それでも社会は、「完璧であること」を求め続けるのです。
私が完璧主義の暴力性をはっきり理解したのは、2010年代の初め、まだ新卒の年齢だった頃です。未熟なのは当たり前。何も知らないのは当然。それなのに、世の中が求めてきたのは、即戦力・完全無欠・隙のなさ・100%の成果でした。
新人に「完璧」を要求する社会です。
失敗は許されず、ミスは人格否定に直結します。
つまずけば“価値なし”と判断されます。
そして、もっと恐ろしいことに、この傾向は今、加速度的に悪化しています。
この社会は今、極端なまでの二極化を加速させています。
40〜50歳でスーパーマンのように働くか、生活保護に回るか。
中間が消えつつあります。
しかも、生活保護ですら誰もが受けられるものではありません。
「完璧でなかった人」が、その責任をすべて個人に押し付けられ、社会から脱落させられていく未来が、すでに現実に起きています。
そして恐ろしいのは、その未来を“今の子どもたち”が確実に迎えるということです。
今10歳の子が20歳になる頃、さらに極端な完璧主義社会の中に放り込まれるでしょう。
わずかなミスで全人格を否定され、道を失い、声を上げる余裕もなく、消えていってしまう。
私は、この現象に名前を付けるなら、こう呼びます。
静かに進行する社会的ジェノサイド
です。
そして、この「完璧でなければ生きていけない社会」をさらに強化したものがあります。
それが AIの誕生 です。
人間は完璧ではありません。
だからこそ、人間は自らの代替となる“完璧なロボット”を作り始めました。
皮肉なことに、これは人間自身が作り出した自己否定です。
人間は、忘れます。
ミスをします。
疲れます。
怒り、嫉妬し、不安定になります。
ときに病み、壊れ、立ち上がるまで時間を要します。
AIはそれらを一切持たない存在としてつくられました。
・24時間稼働
・失敗しない計算
・感情によるミスなし
・膨大な情報の正確な処理
・休息不要
・機嫌の波もなし
つまり、**人間に欠けている部分を埋めるためにつくられた“完璧な他者”**であり、社会が求めている“理想的労働者像”そのものです。
しかしここで生まれる矛盾は、非常に深刻です。
人間は完璧ではない。
だから完璧なAIを生んだ。
そして社会は、「人間にもAIのような完璧さ」を求め始めた。
本来、人間の弱さや不完全さを補うための技術のはずが、逆に「人間に完璧を強要する圧力」に変わってしまったのです。
この構造が続く限り、人間はどんどん追い詰められます。
弱さを見せれば淘汰され、欠点があれば叩かれ、ミスをすればアウト。
AIのように働け、と無言の圧力をかけられ、しかし当然できるはずがない。
なぜなら、私たちはAIではなく、
弱さを抱えた、人間だからです。
人間の弱さは恥ではありません。
不完全さは欠陥ではありません。
むしろ、そこにこそ人間らしさがあります。
完璧でないから努力する。
不器用だから人の痛みを理解できる。
弱いから助け合える。
苦しいから寄り添える。
そうした「人間性」が、社会からどんどん剥ぎ取られていく今、私たちは声を上げる必要があります。
「完璧でなくていい」
「弱さは罪ではない」
「失敗しても、生きていていい」
「スーパーマンになれなくても、人間には価値がある」
これを言わなければ、若い世代は確実に押しつぶされます。
完璧ではないから、私たちは生きられる。
完璧ではないから、手を伸ばし、つまずき、それでも前に進めるのです。
だからこそ、私は強く言いたい。
人間は、完璧でなくていい。完璧でなくても、生きていていい。完璧でなくても、認められていい。
この社会がどれほど完璧主義に染まっていこうとも、私はこの信念を曲げません。
あなたもそうであってほしい。
そして、同じ痛みを抱えた人の声として、この文章が届けば幸いです。
私の人生を振り返ると、「完璧」という言葉が、いつもどこかで黒い影のようにまとわりついていました。それは、誰かに直接押し付けられたものというより、社会全体の空気として、じわじわと染み込んでくるものでした。
幼い頃から、「失敗すると怒られる」「完璧でないと嫌われる」という恐怖が、生活の細部にまで入り込んでいました。学校の作文コンクールに出せば、「こんなのでは賞は取れない」と言われ、体育で遅れれば「もっと頑張れ」と責められ、テストで点が悪ければ「やる気がないのか」と叱られる。子ども時代に求められる“普通の失敗”が、当時の私には「許されない欠陥」のように感じられました。
そんな経験が積み重なると、人間は自分の弱さを隠すようになります。
泣かない。
困ったと言わない。
助けてと言えない。
怖くても怖いと言えない。
間違っても間違えたと言えない。
「傷を隠す癖」は、そういう場所から育つのだと思います。
そして大人になると、その“隠していた傷”に、社会の鋭い視線が直接触れてくるのです。
私は面接で落ち続けたとき、こんな言葉を面接官に言われたことがあります。
「あなたには“芯”がないですね」
「もう少し自信を持てないんですか?」
「なんでそんなに覇気がないんですか?」
しかし、こう言いたかった。
——芯を削ったのは、社会でしょう。
——自信を奪ったのは、あなたたちでしょう。
——覇気がなくなったのは、何度も踏みつけられてきたからです。
面接官は、ほんの数分間だけの会話で、全人生を査定します。
彼らは、私が生きてきた“背景”を知りません。
幼い頃の不安や、家庭の事情や、努力してきた道や、耐えてきた心の痛みなんて知りもしない。
しかし彼らは、「不合格」と書くペンを持っています。
人生の扉を、軽く閉める力を持っています。
たった一枚の紙、たった一言の面接官の印象が、私の未来を左右する。
その理不尽さを前にすると、完璧でなければ扉が開かない社会の残酷さを、いやと言うほど理解させられるのです。
私は専門学校に何度も落ちた時期がありました。
「専門学校なんて誰でも入れる」と世間では言われています。
しかし、私はそこでさえ拒絶されました。
受付で書類を提出した瞬間、「あ、ちょっと…」と顔を曇らせる職員もいました。
その時の私は、自分の存在そのものが否定されているように感じました。
「あなたは、入口に立つ資格すらありませんよ」
そう言われた気がしました。
予備校で門前払いを受けたときは、もっと露骨でした。
入り口で名前と年齢を確認されたあと、冷たい目で言われました。
「うちはちょっと…向いていないと思います」
私は聞きました。
「何が向いていないんですか?」
すると返ってきたのは曖昧な答えでした。
「まあ…いろいろと、ね」
“いろいろ”とは何でしょうか?
家庭環境?
経済状況?
学歴?
見た目?
雰囲気?
態度?
育ち?
心の傷?
努力では変えられない部分?
そうした“言葉にできない偏見”こそ、社会を最も残酷にする刃だと思います。
私はその頃、よく夜にひとりで歩きながら考えていました。
「どうしてこんなに頑張っても、誰も認めてくれないんだろう」
「どうして完璧でないだけで、こんなにも人生の扉が閉じていくんだろう」
「どうして誰も、弱さを許してくれないんだろう」
でも、それでも私は生きていました。
生きていた理由は単純で、「終わりにする勇気すらなかった」からです。
しかし、今では思います。
それでも生きていたという事実そのものが、私の“強さ”だったのだと。
そんな中で私は、精神科医との衝突を経験しました。
心を守るはずの人間が、平気で秘密を漏らす。
人間は肩書きではありません。
立場でもありません。
社会的地位でもありません。
どんなに立派な肩書きを持っていても、その人が“完璧”とは限りません。
人間は誰でも弱い。
誰でも欠けている。
誰でも過ちを犯す。
それなのに、完璧を求められるのはいつも弱い側です。
失敗が許されないのも、弱い側です。
ミスを責められるのも、弱い側です。
完璧であることを要求されるのも、弱い側です。
強い側は自由にミスをします。
権力を持つ側は好きにズルをします。
高学歴は不祥事を隠し、エリートは失敗しても守られます。
完璧を求められるのは、いつでも“守られていない人間”です。
そして、その“完璧圧力”を最大化させているのがAIです。
AIは弱点がありません。
疲れません。
“間”も“沈黙”も“心の揺れ”もない。
AIは、弱さを抱える人間にとって最悪の比較対象です。
社会は言うのです。
「AIはできるのに、なぜあなたにはできないんですか?」
「AIはミスしないのに、人間はなぜミスするんですか?」
「AIの方が優秀ですね」
「AIの方が速いですね」
しかし、それは逆です。
AIが優秀なのではなく、人間が弱いことが当たり前なのです。
AIが完璧であるのは、人間を超えるために作られたからです。
人間が完璧でないから、AIを作りました。
しかし今、社会はそのAIを基準にして、人間に完璧を求めはじめています。
これは、人間性そのものの否定です。
AI化された社会は、人間の弱さに価値を感じなくなってしまう。
弱い者、欠けた者、苦しむ者、不器用な者が“淘汰対象”にされてしまう。
私は人生の中で、何度も“淘汰対象”側に立たされてきました。
完璧でないという理由だけで、拒絶され続けた人生でした。
それでも生き続けています。
生き続けるという行為そのものが、この社会に対する反逆になっていると、最近では感じています。
そして、こう思うようになりました。
完璧でないからこそ、生きている。
完璧でないからこそ、人間だ。
完璧でないからこそ、優しくなれる。
完璧でないからこそ、痛みが分かる。
完璧でないからこそ、誰かの苦しみに共感できる。
もし完璧だったら——
私たちは、ここまで必死に生きていないのだと思います。
弱さを抱えながらも生き続ける人こそ、本当の意味で強いのです。
完璧ではないあなたも、完璧ではなかった私も、そのままでいい。
そのままで、存在していい。
完璧でないから排除される社会のほうが間違っている。
私はそう思います。
そして、その“声”をあげられる人がひとりでも増えれば、社会は少しずつ変わるはずです。
じゃあ、何で変えれば良いのか?政治です。選挙です。
これしかないんです。選挙にお越しください。
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