演技の研修をうけました
数日間、演技の研修を受けました。興味深い気づきを得られました。
ぼくは漫談しかしませんが、ネタ作りではコントがときどき出来上がりまして、やっぱり捨てるのが惜しいので、遅からぬうちにコントもやりたいと夢みています。ただ、脚本と台詞に手ごたえはあっても身体表現は自分だけだとどうしても楽をしてしまうのがダメですね。楽をする=練習をしない=見ていただくように仕上がらない。
コントをするにあたり演技を学ぶことは必須でないと思います。すばらしいコント芸人さんたちはお笑いでない演劇経験がなくても素晴らしい舞台を見せてくださいます。それは理解しているので、受講は自分にとって象徴イベントのような踏み出すためのきっかけ作りであり、また持ち前の、なんでも見てやろう精神とか、いろんな人と接したいお話ししたいという子どもっぽい行動でもあります。
お笑い好きでたくさんお笑いを見てきた方々が、たとえご自分でネタなどをやったことがなくとも、芸や芸人を見る目が鋭く説得力のある深い理解をされていることが分かるように、ぼくは文学と演劇や脚本を長く愛して触れてきて、演劇が文学的関心の範疇で語られて差し支えなく、分かることがしっかりあると思っています。同時に社会面もありますね、人とのコミュニケーションや人間への理解に費やされた時間も効いてきますよね。でこれらは実践力というより鑑賞力ですね、鑑賞力において肩書や立場は本質的には関係ありません。
まとまらぬ断片的な感想がいつか自分の何かと結びついて、何かを生みだせたらいいなと期待します;
●どの道においてもそうですがやはり専門のプロのかたの話は的確でいいな、と思います。相互に対話する機会はありませんでしたが一方的に聞いているだけでも、うんうん、と思わされることが多かったです。情報処理とサービス精神。
●いつの時代も変わらない印象ですが、役者志望者のかたや芝居に自信のあるかたは、間をたっぷりとって自分にスポットライトをずっと当てさせようとするアプローチに遠慮が無い。この傾向が堅持されているなと感じます。「私は当然のようにヒーロー/ヒロインなのだ、あるいは当然のように重い役割を持っていて人々に息をのませる人物なのだ」、というパフォーマンスについて、いろいろと考えさせられます。
少なくとも、そのやり口が客側にばれているという前提があってもなおそうするのかという問いへの答えがあれば良いなと思います。
様式美がなじんだり許容されたりするのは古典にほぼ限られるような気がしています。現代に現代的様式を押し込んでくるというリアルな世俗の手法を、芝居では歓迎したくない気もします。映像でなく舞台の場合はまあちょっと事情はあるかなと思いますが。
●この道を目指す方々のパフォーマンスですから、決していい加減ではないわけで、それを拝見して感じたのは、役者には、誰もやっていないことを自分からやるぞという考えは求められないんだろうか、やってはいけないんだろうかと気になります。それは演出家等々の方々が専ら行うものということなのでしょうか。
大衆メディア露出で人気を得ている、メインキャスト級の、若い世代の俳優さんが実践している形式を、いかにお手本として体現するか、ただしインパクトだけは強く、というところに主眼をもたれている印象です。あるいは声優さんのその分野での素晴らしい声の演技に顔面と身体を合わせにいったような。必要とされる人材として選考を勝ち抜く戦略なのかなと思います。
独自性を意識するとひとまずは破天荒寄りになると思われ、それは望ましくない破綻になりやすいので、仕方がないのかもしれません。原作の尊重という立場もあるのかしら。脚本家が書く登場人物だって、例のない人物を描くことも少なそう(筋書きや展開のほうを際立たせたいのに雑音になる等)ですし。
台本を身体で具現化することは自分で演技を作って実践することと直ちに等しいとは思いませんが、具現化するだけで自分だけの個性が出る場合というのは、結局、何の外連味も出さず日常生活で普通にしていて滲み出る顔、雰囲気、声などの特徴で目を引く人間である、ということでしょうか。たしかに、そんな役者さんを拝見したい気がします・・・!
●たとえば芸人さんが、またはおふざけ好きな人が、役者さんがよくやる芝居っぽさを茶化そうとして、「どうせこんな感じなんでしょ?」みたいな特徴の芝居的振る舞いをしたとします。それが絶妙にばっちり上手に再現できていた場合、それはそのまんま多くの役者さんにとっての上手な芝居に該当してしまうように見える。それが残念だなと思います。そういう役者さんではない役者さんを見られたときドキドキします。
