2004年『華氏911』が映した戦争と熱狂──情報が社会を動かした時代の記録
2004年という年は、
世界中が一つの空気に包まれていた。
その空気の正体を最も鋭く切り取った映画が、
5月にカンヌで最高賞を受賞し、
6月にアメリカ全土で公開された
『華氏911』である。
原題はFahrenheit 9/11、
監督はマイケル・ムーア。
2001年9月11日、
アメリカ同時多発テロで世界貿易センタービルが崩壊し、アメリカ社会は恐怖と怒り、
そして愛国心という強い感情に包まれた。
多くの国民は目の前の衝撃に強く影響され、
政治指導部はその空気を背景に
アフガニスタン侵攻からイラク戦争へと突き進んでいった。
タイトルの「華氏」は温度の単位であり、
レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』が
「本が燃える温度」すなわち言論が焼かれる温度を意味することに由来する。
ムーアはこの構造を転用し、
テロと、
それに突き動かされた社会そのものが燃え上がる温度として
「華氏911」と名付けた。
マイケル・ムーアは、
アメリカで最も著名な
リベラル系ドキュメンタリー監督の一人だ。
デビュー作『ロジャー&ミー』で
ゼネラルモーターズの工場閉鎖を追い、
『ボウリング・フォー・コロンバイン』で
銃社会の病理を告発して
アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞するなど、
巨大な権力構造に対して市民の側から異議を
唱える作風を貫いてきた監督であり、
『華氏911』はその集大成として
2004年5月17日、
第57回カンヌ国際映画祭の
コンペティション部門で上映され、
5月22日夜に最高賞パルム・ドールを受賞、
上映直後には20分前後もの
スタンディング・オベーションが続いたという。
当時の審査員の間でも評価は割れたと伝えられるが、
この映画がそれ以上に異様だったのは、
賞の権威よりも公開後に社会そのものを巻き込んでいったうねりの方だった。
ドキュメンタリー映画がカンヌの最高賞を受賞するのは、
1956年のジャック=イヴ・クストーと
ルイ・マル共同監督
『沈黙の世界』以来48年ぶりのことでもあり、
受賞そのものがまず一つの事件として世界中で
報じられた。
当時のアメリカは、
2000年の大統領選挙をめぐる集計疑惑の禍根を引きずったまま911を経験し、
その延長でイラク戦争に突入し、
現職大統領を批判すること自体が愛国心を疑われかねない空気の中にあった。
そこへ、現職大統領を名指しで問う
長編ドキュメンタリーが劇場公開されるという
ニュース自体が、それまで政治的発言を控えていた層まで劇場に足を運ばせる出来事になった。
テレビや新聞では踏み込みきれない領域に、
映画という娯楽の形式で切り込んだこと自体が、
賛否どちらの立場の観客にとっても見過ごせない一本という受け止め方を生んだ。
公開初週末の興行成績は
ドキュメンタリー映画史上最高記録を更新し、
全米868館というドキュメンタリーとしては
異例の規模で公開され、
その週の全米興行成績で首位に立つという前例のない現象を引き起こした。
劇場前には開場前から行列ができ、
ニュース番組が行列そのものを取材するという
逆転現象まで起き、
映画館は一つの政治的な集会場のような様相を
帯びた。
公開週末に全米13都市で行われた出口調査では、
鑑賞者の九割以上が本作を高く評価し、
九割以上が周囲に鑑賞を勧めると回答したと
伝えられている。
内容は、
ブッシュ大統領とビンラディン家を含む
サウジアラビア有力一族との資金的関係、
9月11日当日に
ブッシュが小学校で悲報を受けながら数分間
ほとんど反応できなかった映像、
そしてイラク戦争の大義とされた大量破壊兵器が結局見つからなかった経緯を、
独特のアポなし突撃取材とコメディタッチの編集で追っていく。
フリントの寂れたショッピングモールで、
二人の海兵隊員が若者たちに入隊を勧誘する
場面も印象的に描かれる。
経済的な選択肢の乏しい地域の若者ほど軍への
入隊に傾きやすいという構造を、
演説ではなく等身大の会話だけで見せる場面で
あり、
議員の子弟のうちイラク戦線に実際に送られたのはただ一人だけだったという指摘とあわせて、
権力者が愛国という美名の下に
社会の下層の人々を戦場へ送り出す構造を
象徴するエピソードとして扱われている。
イラク戦争を支えた「有志連合」についても、
名を連ねた国の多くが小規模な国だったことを
列挙する形で皮肉る場面があり、
世界最大の軍事大国と肩を並べる名分の危うさを、
説教ではなく列挙という手法だけで浮かび上がらせている。
とりわけ映画の白眉とされるのが、
フリント出身のある母親のエピソードだ。
当初は息子の従軍を誇りに思い星条旗を掲げていたこの母親は、
息子の戦死を知らされたのち、
彼が残した最後の手紙を読み上げながら号泣する。
国家の大義が語られる一方で、
名もなき一家庭がその空気によって焼かれていく様子は、
映画のどの政治的主張よりも強く観客の心を揺さぶる場面として、
公開当時のレビューでも繰り返し名指しされてきた。
それは、遠く離れた場所で下された政治判断が、
どれほど具体的な誰かの生活を破壊しうるかを、
統計でも演説でもなく一人の表情だけで語り切ってしまう瞬間でもあった。
そこにはブッシュもラムズフェルドも
ビンラディンもいない。
ただ息子を失った母親だけがいる。
その一枚の映像の前では、
映画がそれまで積み上げてきたどんな告発も、
一度すべて無音になる。
もっとも、映画が提示した論点のすべてが、
その後の検証によって一致した評価を得たわけではない。
とりわけ「ブッシュ政権は大量破壊兵器がイラクにないと知りながら
国民に嘘をついて開戦した」という映画の中心的な見立てについては、
その後の政府調査や各種検証でも一致した結論には至っておらず、
公開当時から現在に至るまで評価が分かれ続けている論点であり、
この映画を単なる事実の記録ではなく、
ムーアという映画作家による強い問題提起として受け止める必要もある。
配給を予定していた
ミラマックスの親会社ディズニーが、
政治的な影響を懸念して配給を拒否するという
事件も起きた。
結局ディズニーは配給権をミラマックス創業者のワインスタイン兄弟に売却し、
その後ライオンズゲートとIFCフィルムズが
配給を引き受ける形で決着している。
ムーアはエンドロールにザ・フーの楽曲を使う
予定だったが、
作者のピート・タウンゼントから使用を拒まれ、
最終的にニール・ヤングの楽曲に差し替えられたという逸話も残っており、
公開前からいかに多くの摩擦をはらんだ企画だったかを物語っている。
全米公開は2004年6月25日、
日本公開は同年8月14日にギャガ配給で行われた。
保守派からは扇動的だという批判が噴出し、
対抗ドキュメンタリー映画まで別に
制作される一種の社会現象となった一方、
興行的には全世界で2億2千万ドルを超える
興行収入を記録し、
ドキュメンタリー映画として当時異例の大ヒットとなった。
ムーアがこの映画を大統領選挙の年に合わせて
公開した理由は明確だった。
戦争開始直後の高揚が冷めないうちにそれを記録し、
選挙という最大の政治的瞬間にぶつけることで、
ブッシュ再選を阻止するという意図である。
しかし11月の大統領選挙ではブッシュが再選を
果たし、
社会を包んでいた空気は一本の映画では冷めなかった。
記録することはできても、熱そのものを消すことはできない。
これが『華氏911』がもう一つ突きつけた現実だったといえる。
日本での公開は東京の恵比寿ガーデンシネマなど全国の劇場で行われ、
自衛隊のイラク派遣が現実に進行していた最中の公開だったこともあり、
自国とも無縁ではない映画として受け止められた。
イギリスでも公開初週の興行成績がそれまでの
ドキュメンタリー映画の記録を塗り替えるなど、
各国で公開記録を更新していったことは、
この映画が対テロ戦争という同時代の共通体験に触れる作品として
世界中で受け止められたことを示している。
イランでは同年9月、
ブッシュ政権への当てつけとも受け取れる形で
本作が公開されており、
アメリカ国内の一政治批判にとどまらない広がりを持っていたことがうかがえる。
その後ムーアは『シッコ』『キャピタリズム』へと矛先を
医療制度や金融危機という個別の社会問題に
移していったが、
2018年には『華氏11/9』としてトランプ政権を
主題にした
続編的な作品を発表しており、
一人の指導者と社会の空気を名指しで問うという手法そのものが、
時代が変わっても繰り返されていることがわかる。
SNS以前、テレビと新聞が言論空間の中心にあった時代に、
一本のドキュメンタリー映画が社会全体を分断するほどの影響力を持ちえたという事実は、
無数の情報源が同時に人々の感情を煽る現代のありようを、
すでに先取りしていたようにも見える。
『華氏911』は、
戦争そのものではなく、
人々が一つの空気に飲み込まれるとき社会は何を見失うのかを記録した映画だった。
その問いは、
情報が瞬時に拡散し、
熱狂が日々生まれては消える現代において、
むしろ公開当時以上の重みを持って
私たちへ返ってきている。
一本の映画が国を二つに割るほどの力を持ちえた最後の時代を、
私たちは知らないうちに通り過ぎていたのかもしれない。
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