『スティール・ボール・ラン』はなぜ2004年に生まれたのか 価値観が変わった時代にしか読めないジョジョ第7部
ー『スティール・ボール・ラン』は、
価値観が変わった時代にしか生まれないー
作品は、作者の頭の中だけで
生まれるものではない。
時代という巨大な背景が、
ある作品を必要とするときがある。
2004年、
週刊少年ジャンプ8号から連載が始まった
『ジョジョの奇妙な冒険 第7部
スティール・ボール・ラン』は、
単なるシリーズの新章ではない。
第6部の連載終了からわずか9か月後に始まったこの作品は、
2004年という時代に描かれた必然を持ち、
読者自身が体験していた価値観の断絶を物語として可視化した稀有な例である。
まず物語の表層を確認しておく。
舞台は19世紀末のアメリカ大陸だ。
サンディエゴからニューヨークまでを横断する
レース「スティール・ボール・ラン」を中心に、
落ちぶれた元天才ジョッキーの
ジョニィ・ジョースターが、
失われた両足の自由を取り戻すために走り出す。
ジョニィはかつて将来を嘱望された天才ジョッキーだった。
成功によって傲慢さを身につけたが、
兄と比較され続け、
兄の死後も父親から存在を否定されるような扱いを受けた
複雑な家庭環境を抱えていた。
やがて騎手を引退した後、
恋人を連れて劇場を訪れた際、
自らの名声を頼りに順番を無視しようとしたことがきっかけで口論となり、
一般人に銃撃されて下半身不随となる。
騎手としての未来だけでなく、
人生そのものを断ち切られた彼は、
失われたものを取り戻すために旅へ出る。
歴代のジョジョたちが敵を打ち倒す勝利の物語を歩んできたのに対し、ジョニィの物語はまず
失われたものを取り戻すところから始まる点で、
シリーズの中でも異質だ。
彼の旅路を導くのは、
制度の外側から独自の技術と思想を持ち込む男、ジャイロ・ツェペリだ。
ジャイロが体現するのは、教会や国家といった
既存の権威に頼らず、自らの経験と師の教えだけを根拠に世界と対峙する思想である。
彼が操る鉄球は単なる武器ではなく、
制度の内側からではなく外側から世界を変える
力の象徴として描かれる。
さらに、
レースの後援者であるアメリカ大統領
ファニー・ヴァレンタインは、
単なる独裁者としては描かれない。
彼自身は国家を守るという使命感を本気で信じており、その正義が他者の人生を踏みにじる瞬間に、英雄と侵略者の境界が崩れていくという構造を体現している。
旧来の分かりやすい悪役ではなく、
正義と正義がぶつかり合うという、より現代的な対立の型をこの大統領は先取りしている。
旧作に登場した名前や顔立ちを持つ人物が、
まったくの別人として再登場する構造も、
この作品の大きな特徴だ。
これはシリーズのリブートではない。
読者が前作までの記憶を保持したまま、
まったく別の世界を読むという体験そのものを、意図的に仕組んだ仕掛けである。
ここで見落としてはならないのは、
このシリーズが「世界観を維持すること」よりも
「価値観が変わった後の世界を選ぶこと」を、
明確に優先したという事実だ。
第6部のラストで宇宙そのものが一度リセットされ、
物語の連続性はそこで一度断ち切られている。
続く第7部で、
同じ名前と同じ顔を持ちながら中身のまったく違う人物たちが動き出すという構造は、
連載を続けるうえで最も無難な選択ではない。
むしろ、これまで積み上げてきた世界観への
甘えを自ら断ち切る選択であり、
描き手自身が古い前提との訣別を、
物語の構造そのものに刻み込んだと見るべきだ。
だからこそ、
この転換が「第6部の次」という
単なる番号の連なりとして起きたのではなく、
2004年という
特定の年に起きたことに意味がある。
ここまでは、
この作品を理解するための
最低限の前提に過ぎない。
本質はここから先にある。
なぜ舞台は突然、19世紀にまで巻き戻されたのか。
なぜキャラクターは別人なのに似ているのか。
なぜジョニィの物語は、勝利ではなく再生として描かれるのか。
これらは作者ひとりの意図だけでは説明がつかない。
2004年という時代そのものが、
荒木飛呂彦にこの物語を描かせたのではないか。
私はそう考えている。
2004年、
日本人は価値観の地殻変動のただ中にいた。
それは単なる年号の移り変わりではない。
会社や家族といった所属先との結びつきが人間の安定を支える大きな柱だった昭和的な社会のあり方から、何を選び、何に自分の責任を持つかを
一人ひとりが引き受けていく社会のあり方へと、緩やかに、しかし後戻りのできない形で移行していく途上にあった。
この変化は、テレビの前で家族全員が同じ番組を見ていた時代から、各自が別々の画面を見る時代への移行とも重なっている。
会社に骨を埋める前提で就職していた世代と、
転職や独立を当たり前の選択肢として育った世代とでは、そもそも「安定」という言葉の意味からして違う。
同じ日本語を話していても、言葉に込められている前提がすでに別物になっている。
数年前のドラマやCMを見返したときに感じる
あの違和感、当時は当たり前だったはずのものが今見るとまるで別世界のものに見えるという感覚は、単なる懐かしさではなく、
価値観そのものが入れ替わった証拠だと言える。
人間自身も同じように変わる。
誰の中にも
「昔の自分とは違う」と感じる瞬間があるはずだ。
逆に、価値観の更新を拒み続ける人間もいる。
問題なのは、
過去を大切にすることそのものではない。
過去だけを唯一の正解として、
新しい価値観との接続そのものを拒むことだ。
周囲がどこか萎えるのは、
その人が変化を認めないからであって、古いものを愛していること自体が悪いわけではない。
そしてこういう人間にとって、
スティール・ボール・ランは読んでいて居心地の悪い作品になる。
なぜなら、この作品は価値観が変わったことを
前提にしている人間だけが、素直に受け取れる
構造をしているからだ。
キャラクターが別人なのに似ているという設定は、読者自身が前の記憶を抱えたまま、
新しい現実を生きているという感覚を、
そのまま再現したものだ。
2004年の日本人は、
同じ街に住み、同じ店に入り、同じテレビ番組を見ているのに、なぜか空気が違う、価値観が違う、世界が違うという感覚を抱えていた。
この年の社会を振り返ると、
北朝鮮による拉致被害者家族の帰国という出来事が、この年の日本人に「取り戻す」というテーマを現実の側から突きつけ、
2001年の同時多発テロと2003年のイラク戦争後の世界秩序は、遠い国の出来事という感覚を薄れさせ、家族制度をめぐる価値観も静かに揺らぎ始めていた。
ネットの側では、
この年の3月に国内SNS「mixi」が正式オープンし、人間関係の結び方そのものが個人単位に組み替えられていくなど、情報の受け取り方そのものが変わりつつあった。
エンタメの側でも、
是枝裕和監督の映画『誰も知らない』が巣鴨の子供置き去り事件を題材に崩れていく家族像を静かな筆致で描き出し、
TBSの純愛ドラマ『世界の中心で、愛をさけぶ』が死というテーマを新しい語り口で描き直し、
漫画では『DEATH NOTE』のように倫理の輪郭が揺らぐ作品や、『銀魂』のように旧来の時代劇の型を笑いで解体する作品が支持を集め始め、
数年前から続く特撮やアニメの潮流もこの年に合流していた。前年までに一区切りを迎えた『仮面ライダー555』や『機動戦士ガンダムSEED』が積み重ねてきた、正義の主人公が悪を倒すという単純な図式ではなく、そもそも正義とは誰が決めるのかを問う手応えは、2004年に入っても色褪せることなく、後継作の『仮面ライダー剣』や『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』へと引き継がれていく。
国家を守るという正義を本気で信じながら他者を踏みにじっていくヴァレンタイン大統領は、まさにこの「正義の相対化」という時代の流れの中に位置づけられる存在だ。
映像作品全体に、饒舌な説明を避けて余白で語る静けさの美学が広がり始めていたのもこの時期だ。
スティール・ボール・ランは、
そうした社会・ネット・エンタメそれぞれの領域で同時多発的に起きていた違和感を、物語の構造そのものに落とし込んだ作品だと言える。
舞台が19世紀まで戻された理由も、
突き詰めれば同じところに行き着く。
価値観が入れ替わってしまったあと、
人はまず自分の起源を探そうとする。
自分はどこから来たのか、何を失ったのか、
何を取り戻すべきなのか。
2004年の日本人も同じ問いを抱えていたはずだ。
失われた未来、
失われた共同体、
失われた家族像、
失われた制度への信頼を前にして、多くの人が 原点に戻りたいという心理を無意識のうちに抱えていた。
旧作のキャラクターと同じ名前や顔を持ちながら中身がまったく違う人物たちが物語を動かしていくのも、この「起源への回帰」と表裏の関係にある。
見知った顔をしているからこそ、そこに宿る中身の違いが際立ち、読者は懐かしさと違和感を同時に味わうことになる。
作中の19世紀アメリカは、
日本人にとっての実際の起源ではない。
しかし、
新しい時代が自分自身の起源を必要としたときに置かれた、象徴としての原点だったと読むことができる。
ジョニィが足の自由を取り戻していく物語は、
価値観が入れ替わった時代を生きる人間の再生の物語でもある。
何かを新しく勝ち取るのではなく、
いったん失われたものへと再接続していく。
これは2004年の日本人が抱えていた心理と、
驚くほど重なり合う。
こうした出来事の一つひとつが、
これまでの延長線上にはない何かが起きている
という感覚を、社会全体に植え付けていった。
同じニュースを見ても賛否が真っ二つに割れるという光景が珍しくなくなっていったのも、
ちょうどこの時期からだ。
共通の前提が崩れ、それぞれが別々の正しさを
主張し始める、後に「分断」と呼ばれることになる兆しは、すでにこの2004年の空気の中に混じっていた。
つまりスティール・ボール・ランは、
荒木飛呂彦という作家個人の発想だけでなく、 時代そのものに描かされた作品だったのだ。
第6部で一度世界をリセットし、
第7部でまったく別の世界を描いたという構成は、作者の意図を超えて、時代の空気が物語に 流れ込んだ結果だと見るべきだろう。
なお、この作品自体もその後、掲載誌の移籍という形で一度断絶を経験している。
2004年8号から始まった連載は同年47号まで『週刊少年ジャンプ』に掲載され、
その後しばらく休載を挟んだのち、
2005年5月号から『ウルトラジャンプ』へ場を
移して本格的に再開された。
少年誌から青年誌へと居場所そのものを変えたこの経緯もまた、価値観の断絶を主題とする物語にふさわしい巡り合わせだったと言える。
そして現在、アニメ化という新たな形で、
この物語は
2004年を知らない世代にも届こうとしている。
2004年当時、
雑誌の紙面で毎週追いかけていたころの感覚と、
いま映像になった同じ物語を見返す感覚は、
明らかに違う。
当時はただレースの行方とジョニィの再生だけを夢中で追っていたはずなのに、今この作品を見ると、ヴァレンタインの国家観や、鉄球に込められた制度批判のほうにどうしても目がいってしまう。
作品そのものが変わったわけではない。
変わったのは、こちら側の感じ方のほうだ。
同じ物語のはずなのに、受け取り方がまるで違う。
だとすれば、
2004年に価値観の断絶を感じていた自分自身の中で、あれから20年以上のあいだに、
もう一度、
別の断絶が起きているのかもしれない。
同じ作品を、
違う時代の自分として二度読んでしまったということ自体が、この作品が価値観の再生の記録であることの、何よりの証明になっている。
2004年という断絶期に描かれたこの作品は、
単なる漫画ではない。
読むたびに違う自分を映し出す、
時代の鏡なのだ。
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