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ウゴウゴの空、ポンキッキーズの床

南向きの六畳に朝日が差し込むと、まずブラウン管の表面が白く濁る。
光は画面にぺたりと貼りつき、部屋の輪郭をそっと映し返す。
畳の繊維一本一本、壁紙のわずかな凹凸、天井の微かな汚れまでが逆光の中で浮かび上がる。
視界の端に映る埃の粒や、机の角の光のハイライトまでが、静かに朝の空気を語りかけてくる。

だから薄いカーテンを一枚だけ引く。
全部は閉めない。
光は欲しい。
暖かく、強く、しかし冷気を伴う光。
窓の外の空気はまだひんやりしていて、風は部屋を通り抜ける。
肌に触れる日差しはじりじりと熱を帯び、手の甲や足首を刺す。光と影のコントラストが、ブラウン管の表面にうっすらとした白濁を作り、画面の色彩は淡い霧に包まれたように揺れる。

画面は見えないと困る。
光と画面の関係を微調整し、手の位置や視線の角度を少しずつ変え、ようやく視聴の準備が整う。その短い間にも、身体の感覚は光の変化に敏感に反応する。
指先は畳の冷たさを確かめ、足裏は床の硬さを覚え、呼吸は微妙に浅くなる。
息を吸うタイミング、手足の置き方、身体の傾きまで、知らず知らず無意識に調整している自分を感じる。

その時、
助走もなく始まるのが『ウゴウゴルーガ』だった。

タイトルの説明も、世界観の導入もなく、いきなり無機質なCG空間に放り込まれる。
床はなく、奥行きはあるのに重力はない。
色は鮮やかだが体温はない。
空気も湿度も存在感も感じられない。
画面から漂うのは、計算された静けさと、しかしどこか乱れた違和感。
音は立体感を帯びているはずなのに、耳には届かない温度感を帯びている。

ウゴウゴくんとルーガちゃんの声は、確かに子どもなのに、その掛け合いは機械的で、質問と答えは噛み合っているようで噛み合っていない。
笑うべきか困惑するべきか分からない間が続き、見ているこちらの反応は常に揺れ続ける。
微かな手の動き、身体の揺れ、呼吸のリズムまで、脳が勝手に調整を促す。

悪の組織めいた存在が現れても、緊張は生まれない。
ヒーローの形式をなぞるだけで、熱は注がれない。
昭和のアニメや特撮の骨組みだけを借り、そこから感情の肉を削ぎ落としたような手触りがあった。
子ども番組の時間帯であるにもかかわらず、何かを教えようとはしていない。
正解も、落ちも、保証しない。
ただ断片を提示して去る。
その態度は当時ほとんど言語化されず、面白いともつまらないとも断言できなかった。だから会話の題材にならない。

あれは子ども向け番組ではなく、子どもという形式を借りた思考実験だったのだと思う。
意味を与えない映像を朝に流し込んだら、視聴者はどう反応するのか。
受動のまま目の前に漂う無重力の世界を、脳はどう処理するのか。
色の鮮やかさ、画面の奥行き、声の高さ、テンポのずれ。
そのすべてが微妙にずれていることで、視聴者は目の前の世界を自分の内側に落とし込もうとする。

その後に続くのが『ポンキッキーズ』だった。
同じ流れの中に置かれるため、チャンネルは変えない。
しかし質量は異なる。
スタジオの床があり、セットの奥行きがあり、人間の身体がそこに立つ重みがある。
光は自然光だけでなく、照明に支えられ、影と色の立体感を作り出す。
ガチャピンとムックはかつての主役の位置から一歩退き、音楽やトーク、外界との接続が前に出る。
閉じられた空間が少しだけ開かれ、評価や共有が可能になった。

斉藤和義の乾いたオープニングの声は、大人の感性に訴える。
「おしゃれ」という言葉で評価が生まれる。
ウゴウゴが無重力のまま漂わせた違和感を、ポンキッキーズは地面に着地させる。
その連続性が重要だった。
異界と地上、無重力と床のある空間、声の距離感と音楽の存在感。
それらが積み重なり、視聴者の身体に直接届く。

N市は盆地で、夏は熱がこもり、冬は冷気が溜まる。
外は灼けるように暑くても、クーラーの効いた部屋の空気は冷たい。
それでも南向きの窓から差す光だけは容赦なく皮膚を焼く。
空気は冷たいのに、日差しだけが熱い。
二重の温度の中で観るCG空間は、どこか現実よりも現実に近く感じられる。画面の無重力と床のある身体の違いが、身体感覚を増幅する。

1992年という年も似ている。
経済は冷え始めているのに、街の明るさは消えず、昭和の形式は残るが内部は空洞化している。熱と冷気が同時に滞留する盆地のような停滞の朝に、意味を拒否する番組が流れていたことは偶然ではない。
あれは時代の症状だった。
皆が同じ画面を観ながらも、共通の言葉を持たない状態の先取りだった。

今なら「前衛」や「実験的」と呼ばれるかもしれない。
しかし当時はただの朝番組だった。
批評の視線は向けられず、静かに終わり、静かに記憶に沈んだ。
ウゴウゴくんとルーガちゃんは今は大人だろうが、画面の中では永遠に無重力のまま跳ね続ける。
ブラウン管は消え、CGは滑らかになり、朝はスマートフォンの通知音に分解された。
それでも、薄いカーテン越しに差す光と、反射するガラスの向こうで始まる無機質な空間の感触だけは残っている。

チャンネルは変えなかった。
ただ流れに身を置いた。

その受動の姿勢こそが、昭和の終わりと平成の始まりをまたぐ、日本の朝の正確な姿だったのだと思う。

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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^