JR福知山線脱線事故2005年の記憶―効率化社会と家庭に忍び寄った同じ問い
2005年、「守る」という言葉を覚えた
2005年、井口台から段原へ転居した。
宮島を遠望でき花火も見えた高台の暮らしから、市街地に近い段原での暮らしへと環境が変わった年だった。
息子は幼稚園を卒園し、段原の小学校へ入学した。
ランドセルを背負って玄関を出て行く後ろ姿を見送った朝のことは、今でもはっきり覚えている。
校門の前で撮った記念写真の中で、まだあどけない表情をしていた息子の顔も鮮明に思い出せる。
娘は同じ年の春、段原の幼稚園に入園した。
人見知りの強い子だったから、教室に入る手前で何度も振り返っては、こちらの顔を確かめていたのを覚えている。
そして10月、次女が生まれた。
産院から段原の家へ連れて帰った日、上の二人が代わる代わる小さな顔をのぞき込んでいた光景は、あの年の中でも数少ない、屈託のない時間だった。
高台の暮らしから市街地に近い場所へ移ったことで、生活そのものの手触りも変わった。
遠くに宮島を望む静かな夜景の代わりに、窓の外には人の気配と生活の音が絶えずあった。
買い物も通院も徒歩圏で済むようになり、三人の子どもを抱える身にとってはその利便性がありがたかった反面、
どこか、あの高台から見ていた景色を懐かしく思い出す瞬間もあった。
花火が見えなくなったことを、当時はさほど気にも留めていなかったが、
今振り返ると、それもまた一つの区切りだったのかもしれない。
高台から市街地へという移動は、単なる住所の変更ではなく、
子育ての中心にある生活を、より地に足のついた形へと組み替える転居でもあった。
外から見れば、子どもが増えて賑やかになった、ごく普通の家庭に見えていたはずだ。
しかしその裏側で、三人の子どもを抱えることになったその年に、父から「援助が欲しければ実家に戻れ」と告げられていた。
実際には援助など無かった。
ただ、会社の税理士から得たらしい知恵をもとに、妻と子どもたちを養子にし、手当てを自分が受け取る構想だけがあった。
三人の子どもを育てるという現実の重さを、援助という言葉で覆い隠されそうになったことに、後から気づかされた形だった。
妻は両親を軽蔑し、あなたが縁を切るか、私と離婚するかという二択を突きつけた。
穏やかな口調ではあったが、それだけに逃げ場のない問いだった。
答えを出せないまま日々は過ぎ、家庭の緊張は誰にも打ち明けられないまま静かに始まっていった。
妻の実家に相談することも考えたが、事を大きくすればするほど子どもたちに余計な緊張を強いることになりそうで、結局は夫婦二人で抱え込むしかなかった。
息子の入学準備や娘の入園準備で慌ただしい日々の合間に、この問いだけが重く沈んでいた。
ランドセルを選びに行った日も、幼稚園の制服を仕立てに行った日も、
表向きは他の家庭と何も変わらない、ごく当たり前の行事だった。
それでも自分の頭の中では、父から突きつけられた構図が絶えず反芻されていて、
子どもたちの前で平静を装うことに、思っていた以上の力を使っていたように思う。
夜、子どもたちが寝静まった後に妻と交わす会話は、
いつも同じところに行き着いた。
父を切り捨てることへのためらいと、
家族を危うくすることへの恐れが、
天秤のようにどちらにも傾かないまま揺れ続けていた。
三人目が生まれるという喜びの裏側で、家族という言葉の意味を、自分自身に問い直さざるを得ない一年でもあった。
三人の子どもを育てるということは、単に人数が増えるということではなく、守るべき理由がそれだけ増えるということでもあった。
この年は他にも、郵政民営化をめぐる国会の混乱や、愛知万博の開催、ライブドアによるニッポン放送株の買収騒動など、大きなニュースが続いていた。
郵政民営化法案をめぐっては、衆議院が解散され、
古い自民党の枠組みそのものが問われる選挙戦が繰り広げられた。
「郵政民営化に賛成か反対か」という単純な二択が繰り返しテレビから流れてきたことを覚えている。
愛知万博は「愛・地球博」として3月から9月まで開催され、
環境と共生をテーマに掲げていたが、
当時の自分にとっては、遠い場所で行われている華やかな催しという印象の方が強かった。
子どもたちを連れて行く余裕など、当時の家庭にはなかった。
ライブドアによるニッポン放送株の買収騒動は、
インターネットの力で旧来の企業秩序を揺さぶろうとする試みとして連日報じられ、
株式時間外取引という聞き慣れない言葉がニュースに躍った。
そして何よりも記憶に残っているのは、その年の春に起きた事故だった。
4月25日、宝塚発同志社前行きの快速電車が兵庫県尼崎市のカーブで脱線し、線路脇のマンションに激突した、JR福知山線脱線事故である。
死者107名、負傷者562名。JR発足以来最悪の惨事となった。
背景には、日勤教育と呼ばれる懲罰的な運転士管理があったとされる。
段原の新しい家で、息子の入学式からまだ日が浅い頃だった。
テレビの前で固まるしかなかった、あの朝の映像を今でも思い出す。
同じ年の11月17日には、国土交通省が構造計算書の偽装を公表し、耐震強度偽装問題が発覚する。
千葉県の建築設計事務所の一級建築士が構造計算書を偽装し、震度5強程度の地震で倒壊のおそれがあるマンションやホテルが各地に建てられていたことが明らかになった。
住んでいる人々が何も知らないまま、自分たちの暮らす建物の土台そのものが脅かされていたという事実は、家族を持つ身として他人事とは思えなかった。
コストダウンと工期短縮を優先する開発業者の価格競争が背景にあったとも指摘され、この事件をきっかけに二年後の2007年、建築基準法が改正されることになる。
偽装が発覚したマンションの住民たちが、
自分たちの家を出て仮住まいへ移らざるを得なかったというニュースを見たとき、
段原の家で暮らす自分たちの生活と重ねずにはいられなかった。
家というものは、そこに住む家族の安全を土台から支えているはずのものだ。
その土台そのものが、目に見えない場所で誰かの都合によって削られていたという事実は、
静かな恐ろしさを伴っていた。
これらの出来事と、家庭の中で自分が置かれていた状況を、無理に同じ構造として結びつけるつもりはない。
それでも、あの年の自分の中では、社会で起きていたことと家庭で起きていたことが、同じ一つの問いとして響いていたという実感だけは消えなかった。
まだ首も座らない次女を抱いた時の重みと、107人の命が一瞬で失われたという事実は、およそ結びつくはずのないものだった。
それでも同じ「守る」という言葉の重さで胸に迫ってきた。
夜中に何度も起きてミルクを与えながら、テレビの音量を絞ってニュースを流し続けていた記憶がある。
眠りの浅い日々の中で、社会の出来事と家庭の出来事が、区別のつかないまま同じ重さで積み重なっていった。
父を選ぶか、家族を選ぶか。
その二択を前に、答えを出せないまま時間だけが過ぎていった。
子どもたちの世話に追われる日々の中で、その問いに正面から向き合う時間を作ることすら難しかったが、それでも先延ばしにはできない問いだった。
JR西日本はその後、日勤教育を見直し、自動列車停止装置の整備を急速に進めることになるが、失われた107の命は戻らない。
事故から二十年以上が経ち、あの現場には今、事故の記憶を伝えるための祈りの空間が整備されている。
時間が経つほどに記憶は薄れていくものだが、107人の名前と、その一人ひとりに続いていたはずの日常があったことを、忘れずにいたいと思う。
段原の家で、入学したばかりの息子、幼稚園に通い始めた娘、そして生まれたばかりの次女、三人の寝顔を見ながら、答えはすぐには出なかったし、今もなお、完全な答えが出ているとは言えない。
あれから二十年が過ぎ、段原で生まれた次女もすでに成人した。
入学式の日にあどけない顔をしていた息子も、人見知りだった娘も、それぞれの生活を築いている。
父との関係も、あの二択を突きつけられた日から少しずつ形を変え、
今では当時ほどの緊張を抱えてはいない。
2005年という年に本当に書き換わったのは、郵政や企業やテレビの中の仕組みではなかった。
書き換わったのは、自分自身の中にあった「父親」という言葉の意味だったのだと、今なら言える。
効率という言葉に急かされそうになるたび、あの朝のニュース映像と、腕の中の小さな重みを、思い出すようにしている。
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