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1997年の影と、伊丹十三の映画を遡る

1997年の街には、どこへ行っても同じ音が流れていた。
コンビニの自動ドアが開くたびに鳴る短い電子音、深夜のテレビから漏れ出す笑い声、信号機の規則的な発光とそれに同期するような電子音。
どれもが過不足なく整えられ、突出することなく同じ高さで鳴り続けていた。
その均一さは安心ではなく、むしろ街全体を薄く覆う膜のようで、内側にいる人間の感覚まで均していく作用を持っていた。
音だけではなく、光も、温度も、匂いも、
どこか均されていて、生活は安定しているようでいて、どこにも逃げ場のない平坦さの中に固定されているようだった。

その膜の内側で、僕は『マルタイの女』を観た。
スクリーンの中では、女優・磯野ビワコが殺人事件を目撃し、宗教団体に追われ、警察の護衛のもとで都市の中を移動し続けていた。
場所は変わり続けるのに、どこへ行っても同じような空気がまとわりつき、逃げているはずの人物が、むしろ何かに包囲されていくような感覚があった。
追跡そのものよりも、逃げ場のなさが画面の奥に沈んでいる。
笑いは挟み込まれているが、それは状況を軽くするためではなく、圧力を分散させるための構造のように機能していた。

スクリーンを離れても、その感触は残った。
玄関のドアを開けたとき、足元に落ちていたタバコの吸い殻。
誰が置いたのか分からないまま、踏みつぶすと、乾いた紙とわずかに残った湿り気が混ざり合った感触が靴底に伝わった。
その温度は、映画の中で感じていたものとほとんど差がなかった。
さおりの過去に残っていた影、説明のつかない違和感、ふいに背後に近づいてくるような気配。
名前を与えれば消えてしまいそうなそれらは、
しかし消えずに生活の中にとどまり続け、
輪郭を持たないまま確実に存在していた。

映画の中の“追われる生活”と、僕が守ろうとしていた生活は、別の出来事ではなかった。
同じ層の上で、同じ速度で進行していた。
見えないものは見えないまま、しかし触れれば確かにそこにある。
笑いがその上に被せられていることで、
かろうじて形を保っている。

その数ヶ月後、伊丹十三は死んだ。
転落死と発表されたが、その説明はどこか現実の感触と噛み合わなかった。
『ミンボーの女』で暴力団の構造を露わにし、実際に襲撃を受け、その延長線上で『マルタイの女』では宗教団体という、より輪郭の曖昧な領域へ踏み込んでいた。
その視線は、権力と暴力の境界に触れ、そしてそのまま越えてしまったようにも見えた。
偶然という言葉で処理するには、出来事の配置があまりにも整いすぎていたが、確かめる術はどこにもなかった。
ただ、説明のつかない重さだけが残り、それが1997年という年の空気に沈殿していった。

彼の映画を遡ると、その視線は最初から揺れていない。
『お葬式』では、死という出来事の周囲に配置された形式が、いかに人間の内部と摩擦を起こすかが描かれていた。
整然としているはずの儀式の内部で、段取りは微妙にずれ、感情は予定外の方向へ流れ、関係性が露出する。
焼香の順番、座る位置、視線の向き、そのすべてが意味を持ちながら、同時にわずかに狂っている。
そのズレが積み重なることで、形式は形式として維持されながら、内部では別の流れが進行していく。

『タンポポ』では、その視線はさらに身体の内部へ降りてくる。
ラーメンの湯気が立ち上がり、油が光を反射し、麺をすする音が空間に残る。
食べるという行為は単純であるはずなのに、
そこに入り込む欲望や緊張、沈黙が、場の空気をゆっくりと変質させていく。
テーブルの上に置かれた丼の熱、指先に触れる器の温度、口に運ぶまでのわずかな間。
そのすべてが、身体の内側と外側を曖昧に接続していた。

1997年の夜、ラーメン屋の前を通るときに感じた湯気の匂いは、その延長線上にあった。
さおりと並んで食べた時間、言葉が途切れた瞬間にだけ聞こえる周囲の音、店の外に出たときに急に冷たくなる空気。
そうした断片は、映画の中の一場面としてではなく、生活の中にそのまま混ざっていた。

『スーパーの女』になると、その視線は再び生活の構造へ戻る。
僕は売り場に立つ人間ではなかったが、青果を卸す側としてバックヤードに出入りしていた。
朝の搬入口の冷えた空気、濡れた段ボールが発するわずかな酸味、フォークリフトの低い駆動音、納品書を受け渡すときの短いやり取り。
映画の中の正直屋と、現実の現場は、驚くほど滑らかに重なっていた。
売り場の配置が変わると、客の動きが変わり、売上だけでなく空気の流れそのものが変わる。
花子が行っていたのは改革ではなく、目に見えない層の調整だった。

映画のラストが1997年1月2日で終わることは、単なる日付以上の意味を持っていた。
僕の1997年は、そのすぐ隣から始まっていた。

時間は流れ、2026年。
街の音は更新され、コンビニの電子音は柔らかくなり、レジの音もほとんど残らなくなった。
バックヤードの匂いも変わり、段ボールの質感も違うものになった。
さおりはいない。
長く続いていた生活は途切れ、今は娘と二人で暮らしている。
台所に立ち、包丁を握り、鍋に火をかける。
そのたびに、過去は映像としてではなく、温度として戻ってくる。

湯が沸き、細かい泡が底から浮かび上がり、やがて表面に届いて弾ける。
その繰り返しを見ていると、時間は直線ではなく、ゆるやかに折り返しながら同じ場所を何度も通過しているように感じられる。
完全に同じではないが、完全に別でもない。
少しだけ形を変えながら、同じものに触れ続けている。

1997年の影も、消えたわけではない。
玄関に落ちていた吸い殻の乾いた感触、夜のラーメンの湯気、搬入口の冷えた空気。
それらは今もどこかに残っている。
見えないだけで、なくなったわけではない。

鍋の湯気はすぐに形を失う。
しかし消えているわけではなく、空気に混ざり、見えない場所へ移動しているだけだ。

台所に立ち、その湯気を見ていると、
かつて触れたはずのものが、形を変えながら今もここにあることだけが、静かに分かる。

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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^