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2000年J-ROCK地図——Dragon Ash・V系・Linkin Park、ONE OK ROCKへ続く影響の系譜

# 2000年、音は街から鳴り始めた——Dragon AshとLinkin Parkが繋いだ螺旋

2000年という年の音楽シーンを思い出すとき、多くの人がまず思い浮かべるのは、
テレビの歌番組に映る大物アーティストたちの
姿かもしれない。
宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、GLAY、
L'Arc〜en〜Ciel。彼らは紛れもなく、この年の音楽シーンの中心にいた。
しかし、その同じ年、テレビの外側、街そのものから鳴り始めていた音があった。

その音の名前は、Dragon Ashだった。

1999年にリリースされたシングル
「Grateful Days」、そして翌年に発表された
アルバム『Viva La Revolution』に収録された「Deep Impact」。
これらの曲が街に流れたとき、それまで日本の
ロックシーンで明確に分かれていた
「ロック」と「ヒップホップ」という二つの
ジャンルの境界線が、初めて溶け合っていく感覚があった。

Dragon Ashの音楽性の根底には、アメリカの
ブラックミュージック、特にヒップホップへの
強い影響がある。
ラップというボーカルスタイル、サンプリングやスクラッチを取り入れたサウンド、
そしてストリートカルチャーそのものへの視線。これらは、それまでのJ-ROCKが必ずしも正面から取り入れてこなかった要素だった。

しかしDragon Ashは、それを単なる
「ヒップホップの輸入」としてではなく、
ロックバンドというフォーマットの中に
組み込んでみせた。
ギターの音色、バンドという編成、ライブハウスという発信の場。フォーマット自体は従来の
ロックバンドのものでありながら、その中で
鳴っている言葉とビートは、それまでのJ-ROCKとは明確に違う質感を持っていた。

これは、当時の若者たちの服装や生活様式とも、強くリンクしていた。ストリート系と呼ばれる
ファッション、スケートボードやスノーボードといったカルチャー、夜の街で過ごす時間。Dragon Ashの音楽は、そうした生活の中にすでに存在していた感覚に、初めて明確な
「サウンド」を与えた存在だった。

メジャーのアーティストの音楽が
「テレビの中の特別な存在」が作るものだったのに対し、Dragon Ashの音楽は
「自分たちと同じ場所にいる人間」が作っている
ように感じられた。
これは、後にインディーズやストリート発の
アーティストが次々と存在感を増していく、
その最初の大きな転換点だった。

実際、2000年前後には、Hi-STANDARDが
切り拓いたインディーズシーンの流れを受けて、くるり、スーパーカー、BUMP OF CHICKENといったバンドたちが、それぞれ独自の文脈を持って存在感を増していた。
彼らの音楽性はDragon Ashとは大きく異なるが、「メジャーの外側で育った音楽が、メジャーと同じ場所で鳴り始める」という現象自体は、
共通していた。



ストリートから生まれた音とは対照的に、
2000年には、もう一つ別の「街」を背景にした
音楽の流れも、確かな存在感を持っていた。
ビジュアル系、いわゆるV系のシーンだ。

90年代、X JAPANが切り拓いた大規模な
ビジュアル系ロックの文化は、2000年の時点でも、形を変えながら受け継がれていた。
LUNA SEA、GLAY、L'Arc〜en〜Cielといった
バンドたちは、すでにメジャーシーンの中核として存在感を確立していたが、その一方で、新宿や池袋、名古屋といった街のライブハウスを拠点とする、より新しいV系バンドたちの動きも活発になっていた。

MALICE MIZERのようなバンドが持つ耽美的な
世界観、Buck-Tickが体現してきたダークで
退廃的な美学。
これらは、Dragon Ashが体現するストリートのリアルな空気感とは、まったく異なる方向性だった。
Dragon Ashが
「自分たちと同じ場所にいる人間が鳴らす音」
だったのに対し、V系の音楽が体現していたのは「現実とは違う、もう一つの世界」だった。

化粧をし、特異な衣装を身にまとい、ステージの上でだけ存在する人格を演じる。
この「日常からの飛躍」という感覚は、2000年前後の閉塞感の中で、ある層の若者たちにとって、確かな受け皿になっていた。
社会全体が不安と停滞に包まれていたこの時期、現実とは別の世界を提示する音楽が、強い支持を集めたのは、決して偶然ではなかった。

ストリートのリアリズムと、V系が提示する非現実。
この二つは、2000年という同じ年の中で、
まったく異なる方向を向きながら、それぞれの
形で、当時の若者たちの感情の置き場所になっていた。



一方、海外に目を向けると、2000年は、
ある一つのバンドが、後の日本の音楽シーンに長く影響を与えることになる、その最初の一歩を踏み出した年でもあった。

Linkin Parkだ。

2000年にリリースされたデビューアルバム『Hybrid Theory』は、ラウドなギターロックと、ラップ的なボーカルスタイル、そしてエレクトロニックなサウンドを融合させた音楽性で、世界的な成功を収めた。

Linkin Parkの音楽性のルーツを辿ると、
90年代のオルタナティブロック、グランジ以降のギターサウンド、そしてヒップホップという、
複数の要素が見えてくる。
ラウドなギターと打ち込みのビートを同時に
鳴らし、歌うパートとラップするパートを
一つの曲の中で行き来する。
このスタイルは、当時「ニューメタル」と呼ばれるジャンルの中でも、特に分かりやすく、
かつポップな形で提示されたものだった。

興味深いのは、Dragon AshとLinkin Parkが、
それぞれ全く別の場所で、しかしほぼ同じ時期に、「ロックとヒップホップの融合」という、
似た方向性の音楽を提示していたということだ。日本のストリートから生まれた音と、アメリカの音楽シーンから生まれた音。
両者は直接的な関係を持っていたわけではないが、2000年という同じ時代の空気の中で、
似た形の音楽が、別々の場所で同時に鳴っていた。

そして、この2000年に提示された音楽性は、
その後の世代に、それぞれの形で受け継がれていく。

Dragon Ashの音楽に影響を受けた世代からは、その後、ロックバンドの中にヒップホップ的な
要素を取り入れるアーティストが、次々と登場してくる。
ラップ的な言葉の乗せ方、ストリートカルチャーへの視線、自主制作からスタートするという
姿勢。
これらは、2000年代後半から2010年代にかけて活動を始める多くのバンドにとって、当たり前の選択肢の一つとなっていく。

Linkin Parkが残した影響は、特にその後の日本のロックシーンにおいて、分かりやすい形で表れていく。
2005年に結成されたONE OK ROCKは、
後に自分たちの音楽的ルーツの一つとして、Linkin Parkをはじめとする2000年前後の
ラウドロック・ニューメタル勢からの影響を語ることになる。
ラウドなギターサウンドと、英語詞を取り入れたボーカルスタイル、グローバルな展開を見据えたバンドのあり方。
これらは、2000年にLinkin Parkが提示した
スタイルが、5年後にデビューする日本のバンドの中に、確かな形で受け継がれていったことを示している。

つまり2000年は、
「誰かから影響を受けた音楽」が、
同時に「次の世代にとっての影響源」になっていく、その転換点でもあった。
Dragon AshやLinkin Parkは、それ以前の音楽からの影響を受けながら、自分たちの音楽を鳴らし、それが今度は、次の世代にとっての
「最初に出会う音楽」になっていく。
音楽の影響関係が、世代を超えて螺旋状に繋がっていく、その輪が、2000年という年を一つの
起点として、確かに動き始めていた。



もちろん、2000年という年が、メジャーシーンの存在感を失った年だったわけではない。

宇多田ヒカルは、1999年のデビューアルバム『First Love』が記録的なセールスを達成した直後の存在として、2000年も大きな注目を集めていた。
アルバム『Distance』からのシングル
「Wait & See 〜リスク〜」は、デジタルなサウンドメイキングと、宇多田自身の歌声が持つ独特のリズム感によって、それまでの日本のポップスとは一線を画す質感を持っていた。
R&Bやブラックミュージックのエッセンスを、
ポップスのフォーマットの中で自然に響かせる
そのスタイルは、後の多くのアーティストにとっての参照点となっていく。

浜崎あゆみもまた、2000年において重要な存在だった。
アルバム『Duty』に収録された楽曲群は、恋愛や孤独、自分自身の弱さといったテーマを、
ストレートな言葉で歌い上げるスタイルを確立していた。
当時の若者たちが抱えていた
「誰にも言えない感情」を代弁するような歌詞は、多くのリスナーから強い共感を集めた。
浜崎あゆみの存在は、
その後の「アーティストが自分の言葉で歌う」というスタイルの一つの原型として、長く参照され続けることになる。

GLAYやL'Arc〜en〜Cielといったバンドも、2000年時点ではすでに大きな存在感を持っていた。
彼らが90年代に確立したロックバンドとしてのスタイル、大規模な会場でのライブ、メロディとビジュアルを重視した表現方法は、2000年以降も、多くのバンドにとっての一つの目標として機能し続けていく。

つまり、2000年という年は、メジャーシーンとストリート・インディーズシーン、
そしてV系シーンが、どれか一つが他を駆逐するという関係ではなく、それぞれが同時に、
それぞれの文脈で存在感を強めていく、
そういう年だったと言える。



そして、こうした音楽の変化が起きていた背景には、音楽そのものを「聴く方法」
「手に入れる方法」の変化もあった。

2000年は、CDの売上が日本の音楽産業史上、
最も高い水準に達した年として記録されている。レコードショップに足を運び、CDを買い、
自宅のステレオやポータブルCDプレーヤーで聴く。
これが、当時の音楽の聴き方の基本だった。

一方、海外ではこの時期、Napsterというサービスが急速に普及し、音楽データを個人間でやりとりするという行為が、著作権をめぐる大きな議論を引き起こしていた。
これは、後にCDという「モノ」から、音楽データという「情報」へと、音楽の流通形態が変化していく、その最初の予兆だった。

日本国内では、携帯電話向けの「着信メロディ」、いわゆる着メロの市場が、この時期に急速に拡大していた。
楽曲のメロディを携帯電話の音源で再現したものをダウンロードするというこのサービスは、
音楽を「CDというパッケージ」ではなく、
「データの一部」として、個人が手元で扱うことに慣れさせる、最初の体験だったと言える。

2000年に鳴っていた音楽そのものは、CDというフォーマットを通じて聴かれていた。
しかしその同じ時期、
音楽を「データとして持つ」という感覚も、
着メロという形で、すでに少しずつ広がり始めていた。



2000年に鳴っていた音は、その後どうなったのか。

Dragon Ashが示した
「ロックとヒップホップの融合」という方向性は、その後の日本のロックシーンの中で、一つの選択肢として定着していく。
ラップ的な言葉の乗せ方、ストリートカルチャーとの結びつき、自主制作的な発信方法。
これらは、今では特別なものではなく、
多くのアーティストにとっての当たり前の語彙の一部になっている。

V系が体現した「現実とは別の世界を提示する」という美学も、形を変えながら受け継がれていく。化粧やビジュアルによる自己表現、キャラクター性を強く打ち出すアーティストのあり方は、
後のアイドル文化やボーカロイド文化とも、
どこかで地続きになっている。

Linkin Parkが示した
「ラウドなギターと電子音、ラップとボーカルの融合」という方向性は、ONE OK ROCKをはじめとする、後の日本のロックバンドの中に、確かな形で受け継がれていく。
彼らの音楽を最初に聴いた世代が、自分たちの
バンドを始める際、そのサウンドの一部を自分たちの音楽に取り入れていく。

宇多田ヒカルが示したデジタルなR&Bのスタイル、浜崎あゆみが示した「自分の言葉で歌う」というスタイルも、同様に、その後の多くの
アーティストにとっての参照点となり、形を変えながら受け継がれていく。

2000年という年に、街から鳴り始めた音、
もう一つの世界から響いていた音、海を越えて
届いた音、テレビから流れていた音。
これらは、それぞれ別の場所、別の文脈から生まれたものだった。
しかし、その音を聴いていた当時の若者たちの中には、今、自分自身が音楽を作る側に回っている人たちがいる。
彼らが作る音楽の中には、2000年に鳴っていた音の、何かしらの要素が、形を変えて確かに息づいている。

2000年に鳴り始めた音は、止まることなく、
今も鳴り続けている。


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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^