ジョジョ第四部 ― 冒険譚から“町の物語”へ
ジョジョ第四部という物語を改めて俯瞰してみると、この作品は単なるシリーズの一エピソードではない。
それまで荒木飛呂彦が築いてきた
「冒険譚としてのジョジョ」から、
「町を描く物語」へと大きく方向転換した転換点の作品であることが見えてくる。
第一部と第二部は血統の物語であり、第三部は
世界を横断するロードムービー型の冒険だった。
しかし第四部では舞台が一気に縮小される。
世界ではなく、日本の地方都市という極めて限定された空間に物語が固定され、その町の内部で起こる出来事が連続的に描かれていく。
この構造の変化は、単に舞台設定が変わったという以上の意味を持っている。
第三部までのジョジョは
「旅」が物語のエンジンだった。
主人公たちは敵を追い、
場所を移動しながら戦い続ける。
しかし第四部ではほとんど移動がない。
すべての出来事は杜王町という一つの町の中で発生し、登場人物たちはその町の住民として生活し続ける。
そのため第四部は、シリーズの中でも珍しく
「生活」が描かれる部になっている。
東方仗助は高校に通い、母親と暮らし、友人と街を歩き、喫茶店に入り、ゲームセンターで遊び、商店街を歩く。
そうした日常の風景の中に、突然スタンドという異常な力が入り込む。
その結果、物語は「日常の中の異常」という独特の空気を帯びることになる。
空条承太郎の役割も、この構造変化を象徴している。
第三部では世界を救うヒーローだった承太郎は、第四部では海洋学者として杜王町を訪れる。
そしてスタンド能力の発生を調査する観察者の立場に立つ。
彼は物語の中心人物でありながら、同時に町の外側からこの世界を観察する存在でもある。
つまり第四部は、ヒーローが世界を救う物語ではない。
「町に何が起きているのか」を調査するミステリーとしても機能しているのである。
この町の異常は、ある出来事から始まる。
エジプトでの戦いの後、承太郎はスタンド能力を発現させる原因となる「矢」の存在を追う。
そしてその矢が日本の地方都市である杜王町に流れ着いた可能性を知る。
矢によってスタンド能力が覚醒した人間が増えている。
この事実は、町そのものがゆっくりと異質な場所へ変質していることを意味している。
この町の中心人物となるのが仗助である。
彼はジョセフ・ジョースターの隠し子であり、
杜王町で母親と暮らす高校生だ。
リーゼントの髪型を何よりも誇りにしており、
その髪型を侮辱されると普段の温厚さからは想像できないほど激怒する。
彼のスタンド「クレイジー・ダイヤモンド」は
物を修復する能力を持つ。
破壊ではなく修復によって戦うという特徴を持っている。
この能力は、
第四部のテーマである「壊れた日常を元に戻す」という構造そのものを象徴している。
仗助の親友である虹村億泰もまた、
第四部のバランスを象徴するキャラクターだ。
彼のスタンド「ザ・ハンド」は空間そのものを削り取るという非常に危険な能力を持つ。
しかし億泰本人は非常に素朴で単純な性格をしており、その危険性が逆に抑えられている。
このように第四部では、能力の強さと人格の単純さが奇妙な均衡を保っている。
また、広瀬康一の存在も重要だ。
物語の初期では気弱な普通の少年に過ぎない彼は、矢によってスタンド能力を発現させる。
そして「エコーズ」というスタンドを成長させていく。
ACT1からACT3へと進化していくこの能力は、「日常の中で人が成長していく」という
第四部の物語構造を象徴している。
こうした人物たちが暮らす杜王町は、
一見すると平和な地方都市に見える。
しかしその裏側では奇妙な出来事が次々と発生している。
イタリア料理店を営むトニオの料理が人間の体調を治療する能力を持っていたり、シゲチーの回では宝くじを巡って奇妙な争いが起こったりする。
スタンド能力を持つ犬や植物まで現れる。
これらの出来事は従来の壮大な戦いとは異なり、町の生活の中で起こる小さな事件として描かれるのである。
こうした日常の奇妙さを観察する存在として登場するのが岸辺露伴である。
漫画家である露伴は、相手の人生を「本」にして読む能力「ヘブンズ・ドアー」を持つ。
この能力は単なる戦闘能力ではない。
他人の人生や記憶を読み取る観察者としての能力である。
杜王町という町の裏側を覗き込む装置として機能している。
そしてこの町には、もう一つの顔がある。
杜王町では長年、女性ばかりを狙った連続殺人事件が起きていた。
しかし犯人は一切捕まっていない。
その存在は都市伝説のように語られているだけだった。
この町の闇の中心にいるのが吉良吉影である。
ジョジョ第四部は、表向きには杜王町という静かな地方都市で起こる奇妙な事件の連続として描かれている。
しかしその内部には、三部までとはまったく異なる引用体系と構造が持ち込まれている。
それまでのジョジョは、洋楽や洋画といった
“外側の文化”を軸にしていた。
第四部では、日本の生活文化やサブカルチャー、地方都市の空気、特撮、実験映像といった“内側の文化”へと大きく舵を切っている。
細部を拾っていくほどに、その変化は明らかになる。
杜王町は、荒木自身が長く暮らし作画を続けた
仙台市をモデルにしていると推測されている。
地名や地形、街の構造には仙台の影が濃く残る。
一方で街の細やかなディテールには、スペインの田舎町や南欧の小都市を思わせるヨーロッパ的な美意識が混ざり合っている。
石造りの壁や乾いた影の落ち方、柔らかい光の質感などがそれを感じさせる。
その結果、杜王町は現実の仙台とも
完全なヨーロッパとも異なる。
“どこにも存在しない理想化された町”として
再構築されているのである。
スタンド名こそ依然として海外アーティストの
楽曲名が中心だが、キャラクター造形には日本のロックシーンやサブカルの匂いが混ざる。
音石明が大槻ケンヂをモデルにしたと言われる例はその象徴だ。
洋楽名と日本文化の混成的な引用は、90年代文化の特徴そのものでもある。
それは“外来文化の輸入”から“日本独自の雑食的ミックス”へと移行していった文化史の流れと重なっている。
虹村形兆戦では、
スタンド「バッド・カンパニー」が
ミニチュア特撮のような戦闘を展開する。
それはハリウッド映画的なスケールではない。
家の中で起こる模型戦争のような縮尺のズレが、独特のリアリティを生み出している。
そして物語の闇の中心にいる吉良吉影は、
従来のラスボスとは決定的に異なる。
彼は世界征服を望まない。
ただ平穏な生活を守りたいだけなのである。
毎朝同じ時間に起き、ネクタイを締め、
会社へ向かう。
その生活の中に、殺人が静かに組み込まれている。
この「生活の中にある狂気」こそが、
第四部の恐怖の核心である。
その狂気は、杜王町という町の日常の中に完全に溶け込んでいる。
最終的にこの物語は、世界を救う戦いではなく、一つの町の平穏を取り戻す戦いとして終わる。
その結末によって、第四部はシリーズの中でも特に異質な作品として記憶される。
それは英雄の物語ではない。
町の記憶の物語だからである。
杜王町は架空の町でありながら、
日本のどこにでもありそうな地方都市の空気を持つ。
その日常の中には、奇妙な出来事が静かに潜んでいる。
だからこそ読者は、その町をどこか現実の町のように感じる。
そしてその感覚こそが、第四部という作品が持つ最大の魅力なのかもしれない。
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