ドラクエIIが教えてくれた“未完成の文化”
1987年の冬、広島の街は再開発の波に飲まれ始めていて、子どもの頃から慣れ親しんだ店が少しずつ姿を消し、通学路の風景もどこか落ち着かないものに変わりつつあった。工事の囲いが増え、見慣れた建物が突然なくなり、空が広くなったように感じる日もあった。
そんな外の変化とは裏腹に、自分の生活だけはほとんど変わらなかった。
ゲーム、ギター、漫画、映画、ベッドフォン。
その五つをぐるぐる回しながら、毎日を過ごしていた。学校から帰ってきて、制服のままギターを触り、夕飯のあとに漫画を読み、夜更けにベッドフォンで音楽を聴きながら眠りに落ちる。その合間にゲームが入り込んでくる。
それは退屈ではなく、当時の自分にとっては最も安定した世界だった。
その頃に発売されたドラクエIIは、ジャンプの袋とじ特集で全国の子どもたちが熱狂し、発売日前から品薄が確実視されていた。ゲームショップには朝から行列ができ、友達同士で「どこで買えるか」という情報戦が繰り広げられていた。
そんな中、自分は誰もまだ目をつけていなかった場所に残っていた商店街入り口の化粧品屋のおばさんに、「入ったら取っといてあげるよ」と言ってもらえたおかげで、発売日に手に入れることができた。大通りに面しているのに再開発の区画から外れていた、あの古い店。蛍光灯の白い光と、化粧品特有の甘い匂い。棚の奥にひっそり置かれたファミコンソフトの箱。
その店がまだ残っていたことが、今思えば奇跡のようで、街が変わっていく中で「まだ消えていなかった場所に救われた」という感覚が確かにあった。
同級生がようやく買えた頃には、自分はすでにクリアしていて、「どこまで行った?」と聞かれながらもネタバレを避けて言葉を選びつつ、心のどこかで少し誇らしい気持ちもあった。放課後の教室で、机を寄せて話すあの空気。友達はまだムーンブルクにも着いていないのに、自分はもうロンダルキアを越えていた。
その優越感と、どこか取り残されたような静けさが、同時にあった。
そして、ドラクエIIをクリアした瞬間に訪れる、あの“空白”。
RPGというジャンルが抱える構造的な限界に、初めて触れたのもこの時期だった。
物語も謎も成長も一度きりで、二周目はどうしても作業になる。「また最初から」と言われても、どうしても気持ちが乗らなかった。ロンダルキアのレベル上げを、もう一度やるのかと思うと手が止まる。
ゲームというものには、不完全な部分があるのだと初めて意識した瞬間だった。
もしこの時点で、クリア後の世界や“続き”が用意されていたら、RPGはもっと早く別の形に進化していたのかもしれない。だが高校生の自分には、それを言葉にする術はなかった。ただ、RPGは一度終わってしまうものなのだ、という感触だけがはっきりと残った。
同じ頃、光栄の三國志のようなシミュレーションゲームは、すでに「終わりのない遊び」を実現していた。勢力図は毎回変わり、武将の能力も違い、選択次第で物語がいくらでも生まれる世界。しかし自分には、そこへ踏み込むだけの時間も余裕もなかった。
部活、通学、テスト、そして自分のローテーション。その隙間に入り込めるのは、ドラクエIIのように「終わりが見えるもの」だけだった。だからこそ、あれが自分にとってのギリギリの限界ラインだったのだと思う。
外の世界は再開発でどんどん変わっていくのに、自分の中の回転だけは変わらず続いていた。その中でドラクエIIは、「ゲームという文化はまだ完成していない」という気づきを静かに残していった。
街の変化と、ゲームの未完成さ。そのどちらもが途中で、これからだった。自分はその“途中の世界”の中で生きていた。
ドラクエIIを終えたあとの数日、手元には何もなかった。
カセットを抜き、箱に戻し、棚に立てる。その動作が終わった瞬間、時間だけが余った。テレビをつけても落ち着かず、漫画を開いてもページが進まない。あれほど詰まっていたはずの一日の隙間に、ぽっかりと穴が開いたようだった。
次に何をやればいいのか、わからなかった。
新しいゲームを買えばいいという発想にはならなかった。レベル1に戻るという行為が、単なる後退に思えたからだ。積み上げたものを、自分で壊すような感覚があった。
その時間は、自然と他のルーティンへ流れていった。
ギターを触る時間が少しだけ長くなり、漫画を読むスピードが落ち、映画のエンドロールを最後まで眺めるようになった。ベッドフォンで聴く音楽の音量も、ほんの少し下げた。
どれも大きな変化ではない。
けれど確実に、ゲームが占めていた場所を、別の何かが埋め始めていた。
その頃から、自分は無意識に「終わらないもの」に惹かれていったのだと思う。ギターには終わりがなく、音楽や映画も、触れるたびに違う顔を見せる。努力が無駄にならず、繰り返しが更新として積み重なっていく感覚。
それは、ドラクエIIで感じた“足りなさ”の裏返しだった。
ゲームは一度、完全に終わってしまった。
街もまた、元には戻らない形で変わっていった。
それでも音楽や映画や文章は、何度触れても少しずつ姿を変える。自分の側が変われば、受け取り方も変わる。その不確かさが、当時の自分には救いだった。
再開発の工事現場を横目に通学しながら、壊されていく建物よりも、自分の中で何かが静かに組み替わっていく感覚のほうが強くなっていった。完成されたものを消費する側から、未完成なものと付き合い続ける側へ。
ドラクエIIは、その入口だった。
終わってしまうという事実を、初めて真正面から突きつけてくれた作品だった。
あの冬、自分は一つのゲームを終えただけではなく、「やり切ること」と「その先に残る空白」を同時に手に入れていた。
街はまだ工事の途中で、自分もまた途中だった。その途中の時間の中で、次の方向だけは、静かに定まり始めていた。
チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^
