【躊躇】意味を知らなくていい
深夜2時。
アパートの窓からは、
向かいのビルの非常階段が見えていた。
その踊り場に、
彼は立っていた。
手には、
私が昔あげた古いデジタルカメラ。
シャッター音が好きだったって、
たしかそんな理由で渡したものだ。
今思えば、
どうでもいい理由だった。
⸻
私たちの関係は、
もうずっと前から終わっていた。
終わっているのに、
終わらせる言葉だけが残っていた。
「そろそろ無理だよね」
その一言が言えずに、
何日も、何週間も伸ばしてきた結果がこれだ。
彼は荷物をまとめて出ていったはずだった。
でも、
まだそこにいる。
⸻
スマホが震える。
短い通知。
『下にいる』
それだけ。
私は画面を見たまま、
指を動かせなかった。
返す言葉はあるのに、
どれも嘘になる気がした。
「上がってきて」
それを送れば、
また同じ夜が始まる。
ぬるくて、
安心して、
何も変わらない夜。
でも、
無視すれば本当に終わる。
その線の上に立たされている感じがした。
⸻
窓の向こう。
彼はこっちを見ている。
距離はあるのに、
視線だけがやけに近い。
あの人もきっと、
同じことを考えている。
「もうやめるか」
「まだいけるか」
その間で止まっている顔だった。
⸻
スマホの画面に、
指を伸ばす。
あと少しで届く。
たったそれだけなのに、
その一歩が異様に重い。
行きたいのか、
やめたいのか。
どっちも本音で、
どっちも正しい気がした。
そのせいで、
どちらにも動けなかった。
⸻
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づいたときには、
窓の向こうが少し静かになっていた。
踊り場。
誰もいない。
非常階段だけが、
夜の風に揺れている。
さっきまでそこにあったはずの気配が、
きれいに消えていた。
⸻
私は窓を少し開けた。
冷たい空気が入ってくる。
何か言おうとして、
結局やめた。
言葉が、
喉の手前で止まる。
スマホの電源を切る。
画面が暗くなる瞬間、
少しだけ息が軽くなった。
⸻
あのとき。
もし一歩でも動いていたら。
もし、送信ボタンを押していたら。
その“もし”だけが、
部屋の中に残っている。
答えにはならないまま、
静かにそこに居座っていた。
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