人が喜んでくれることが楽しい、というステージへ
ここ最近の朝ドラのなかでもとくに面白い!と感じて、毎朝楽しみにしているNHKの『エール』(なのにコロナの影響で放送があと1ヶ月ほどで中止になるとのこと……1日も早い放送再開を願います!)。
主人公の古山裕一が創作(作曲)の壁にぶつかり、そのトンネルをなかなか抜け出せずに苦しんだ先週は、ドラマ開始から1ヶ月半ほど経ったここまでの流れのなかで、最初の山場ともいえる1週間だった。
「自分がやる意味」という壁
幼いころから作曲の才能に秀で、二十歳そこそこの若さで国際音楽コンクールまで入賞した裕一だが、現在はレコード会社の大衆向け歌謡曲レーベルの専属作曲家。
高い年収を前払いでもらい、そのかわりに居酒屋のおじさんたちがくちずさむようなヒット曲をつくることを求められている。
しかし、西洋音楽こそが音楽の頂点にして自らのルーツでもあるという、本人も無自覚なプライドの高さが生み出す曲を難解にし、ディレクターに「音楽の知識をひけらかすような小賢しい曲ばかりつくってきて鼻につく」と楽譜を突き返される(つまり曲が採用されない)日々。
悩み苦しむ彼に、周囲の家族や友人は、裕一を傷つけないように、でも大切な助言をする。なかでも、近所の喫茶店のマスターが言ってくれたことが、とてもよかった。
「僕が煎れるコーヒーって、いつも違う味の方がいいかな? 僕は毎日、お客さんの顔を思い浮かべながら、みんなが喜んでくれる味にしようとブレンドしているよ。自分がやりたいことも大事だけれど、人が喜んでくれることの方が、もっと大事じゃないかな」。
それを聞いた裕一は、夕食の席で妻を相手にその話を振り返りながら、「ただみんなに喜んでもらえる曲をつくればいいなら、僕以外の誰が曲を書いたって同じじゃないか! 僕がつくるなら、僕にしかつくれない曲じゃないと意味がない!」と不満をあらわにする。
ところが、同調したりなぐさめたりしてくれると思った妻は、呆れながら、こう突き放す。
「でも曲が採用されないなら、やり方を変えないと。じゃないと、ずっとこのままよ」。
リクエストに応える楽しさ
ものをつくる立場の人間が「自分がやりたいこと」「やっていて楽しいと感じること」を最優先して作品をつくり、それをそのまま世に出して、大勢のお客さんが大喜びで受け取ってくれるほど、人生は都合よく、単純にできてはいないのだ、きっと。
わたしも20代でフリーになったときは、裕一とまったく同じようなことで悩んだり苦しんだりしていた(そのくせ大した才能もないのだから、もっとタチが悪い)。
今でも、人が喜んでくれることを100%優先して企画を考えたり、仕事ができているか、と聞かれたら……その境地に到達できる日は、まだ遠いのかもしれない。
でも、少なくとも20年前と確実に違うのは「自分がやりたいという気持ちだけでやった仕事は、思ったほど楽しくない」と知っていることだ。
もちろん「やりたい」という気持ちは、ないよりぜったいあったほうがいいのだけれど、その仕事が誰かを実際に喜ばせたという手応えがないと、達成感は得られない。そうすると、あまり楽しくない。
本にしてもウェブサイトにしても、新しい企画を考えるのは、もう癖みたいになっていて、日々暮らしながらでも、ふわりふわりとアイデアは生まれるのだけど、最近は「リクエスト」がもらえるほうが仕事のモチベーションは上がる自分がいたりする。
先日も「『断捨離』など、今、おうち時間のなかでみんなが気になっていることをテーマに」と課題をもらって記事を書くことになり、昨年から何かの機会にちゃんとその魅力を自分の言葉で伝えたいと考えていた「メルカリ」について書いてみたら、すごく楽しかった。反響もあったらしい。
ところで、『エール』の裕一は、モチベーション的にもう限界か、というピンチのところで、心から自分に曲をつくってもらいたがっている目の前の人の期待に応えたい、というまっすぐな気持ちで書いた曲が、結局は広く受け入れられ、危機を乗り越えることができた。
そんなきっかけなどなくても、「人に喜んでもらえることが自分のしあわせ」と、自然に思える人はいて、そういう人を本当に尊敬するし、憧れる。
でも残念ながら、わたしが持って生まれた性格は、独善的でプライドも高くて、だから10代や20代、いやもっと30歳すぎまでは、だいぶ内面がぐちゃぐちゃしていた。
そんな人間でも、50代がすぐそこに見えるくらいまで生きてみると、いつのまにか「人に喜んでもらえることが楽しい」と思えるようになるんだなぁと、自分の変化をどこか他人事のように見つめている。
そして、この視点に立ってみると、「自分がやる意味」にこだわっていたころよりも、生きていてラクだし、仕事も前より楽しく感じる。なんだか不思議で、人生うまくできてるものですね。
