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広告は、ありません|7章 三千八百万の一致

三千八百万の一致

2019年3月25日 月曜の午後3時
浅倉亮介は、自席の経理画面で年度末の月次の進捗を見ていた。

事業部全体の月次粗利の未達は、百二十四万円だった。
年度末の月としては想定の範囲内だった。

前期からの繰り越し案件がいくつかずれた。
新規の引き合いが想定より弱かった。
理由はいくつもあるが、未達は未達だった。

彼はその数字を、しばらく見た。
それから画面を閉じた。
閉じる前に、未達の百二十四万円を頭の中でもう一度繰り返した。

覚えておくためではなかった。
覚えないため、というのが正確だった。


3月29日、金曜の朝

経理画面を開いた。
入金通知が上の方に一件新しく来ていた。

上流代理店「合同会社シンタス・コーポレーション」
3月の取引で、黒瀬が持ってきた新しい上流代理店だった。

月ごとに、上流の名前は変わっていた。

3月、黒瀬経由の取引はすでに月の途中で複数件、動いていて事業部の数字は計画値の手前までほぼ整っていた。

月曜の午後3時に見た未達粗利、百二十四万円
——それが、月末の最終確報を「達成」にするための最後の差分だった。

入金額の欄を浅倉は見た。
六千二百万円。

彼はその数字の上で視線を止めた。
止めた、というよりは、止まってしまった、というのが正確だった。

六千二百万円という売上額が何を意味するかを、彼の頭は止まったまま計算していた。

粗利率二パーセントなら、粗利百二十四万円。

百二十四万円

月曜の午後3時
彼が経理画面で見た事業部全体の月次粗利未達と、ぴったり一致した。


ぴったり、というのがいちばん怖いことだった。

少し多くも、少し少なくもなかった。
経理上の誤差で説明できる差ではなかった。

粗利の話は、社内の月次報告でも社外で動かす相手にもふつう口に出さない。
口に出すのはいつも売上だった。
社外の人間が粗利を知るのは、普通はありえなかった。

ありえないことを、黒瀬の側は知っていた。
知った上で、粗利を埋める売上額を粗利率から逆算し、ぴったり入金してきた。

何かというのは、誰かということだった。
その誰かは、たぶん黒瀬の側にいた。

浅倉は椅子の背に、深くもたれかかった。
一年前の冬の朝、住所欄が同じビル、同じ階だと気づいた時と同じ動作だった。

あの朝から、1年1ヶ月が経っていた。
そのあいだ彼が見ないようにしていたものが、いま目の前で整列していた。


頭の中に、別の数字がひとつ浮かんだ。

三千八百万

2018年の2月、黒瀬が最初に持ってきた発注額。
あの時、広告代理事業部の月次未達粗利は、七十万円だった。
それを埋める売上が三千八百万円。

当時の彼は、その一致を粗利七十万を取るには三千八百万の売上が必要、という経済構造の話に翻訳した。

そう翻訳すれば、「黒瀬がなぜその額を知っていたのか」という問いを回避できた。

いま、彼は意識した。
2018年2月の三千八百万円は、月次未達粗利七十万円に合わせて設計されていた。

2019年3月の六千二百万円は、月次未達粗利百二十四万円に合わせて設計されていた。

一回の偶然なら、偶然と言えた。
だが、二回目は、偶然と言わない。

二回目を偶然と言えなくしたのは、いまの自分だった。


画面を閉じた。
立ち上がって、トイレに行った。
個室に入り、便座のフタの上に座って両手で顔を覆った。

手のひらは、冷たかった。
顔は、熱かった。
20年前の冬の朝礼の後の動作と、同じだった。
何分、そうしていたかは分からなかった。

立ち上がって、洗面台で口を漱いだ。
鏡の中の顔は、いつもの顔だった。

「いつもの顔ではない」と何度確認したか、もう思い出せなかった。


自席に戻り経理画面をもう一度開いた。

入金通知の六千二百万円は、画面の上の方にいた。
彼はその画面のキャプチャを取った。
キャプチャ画像は、社内ポータルの「個人メモ」フォルダに保存した。

あの月曜の朝に打った暗号メモ
「半年で抜ける」が開かれないまま1年1ヶ月そこに残っていた。

今日、その横にもうひとつ画像が並んだ。
ファイル名を中学生の頃の置き換えの暗号で打った。

「6,200の一致」が、「A6_2_0_0_no_1」になる。「1」は一回目、という意味だった。

一回目で終わる、という意味ではなかった。
二回目が来ることを、その場ですでに織り込んでいた、ということだった。

ファイル名の意味を、自分以外に分かる人間は、いない。
分からないままにしておく、というのが彼の動作の意味だった。


午後もう一度トイレに行った。
行く理由はなかった。
だが、行った。

個室の中で、個人のスマートフォンを取り出して、法務局の登記情報提供サービスのアプリを開いた。

支払いには、個人のカードの番号を打った。
会社のカードで取れば、経費精算のログに残る。
個人のカードなら残らない。

一年前の冬の朝は取らないを選んだ。
今日取るを選ぶ。

三社の登記情報を順番に取った。

シンタス・コーポレーション
サザンプロモーションとプライムリンク

三社で一分もかからなかった。

シンタス・コーポレーション
本社所在地:東京都港区赤坂三丁目二番地七号 赤坂第一ビル四階
代表取締役:横田裕一
設立日:2018年8月20日

サザンプロモーション
本社所在地:東京都品川区東品川二丁目五番地八号 青木ビル六階
代表取締役:横田裕一
設立日:2017年11月2日

プライムリンク
本社所在地:東京都品川区東品川二丁目五番地八号 青木ビル六階
代表取締役:石川悠介
設立日:2017年11月2日

サザンプロモーションとプライムリンクは、同じビルの同じ階で、同じ日に別の代表取締役の名前で設立されていた。

そして、上流のシンタス・コーポレーションの代表取締役は、下流のサザンプロモーションの代表取締役と同じ名前だった。

上流から発注を受け、下流に再発注して最終的に同じ人物の会社の口座に金が戻る。


これは、循環取引だ。


トイレの個室の中で、初めてはっきり言葉にした。

循環取引

1年1ヶ月のあいだその言葉を自分の中で口にしないでいた。

今日、口にした。

言葉にしたことを誰にも言わなかった。
スマートフォンをポケットにしまって、自席に戻った。

廊下で何人かの同僚とすれ違い、いつもの表情で、いつもの会釈をした。

なにも変わっていないことが、怖いと思った。


その日の夕方、定時より早く会社を出て書斎に入った。
ドアを閉めた。
社用のノートパソコンで「個人メモ」フォルダを開いた。

あの朝の暗号メモと、今日の昼のキャプチャが並んでいた。
二つのファイルを見ているあいだ、ひとつの問いがはっきりと形を取った。

黒瀬は、なぜ俺の事業部の未達額を知っていたのか。

その問いを、今日初めて自分の頭の中で文字に起こした。

文字に起こしたあとも、口には出さなかった。だが、頭の中で文字に起こしてしまった、ということはもう消せなかった。


ノートパソコンを閉じる前に、もうひとつのことに気づいた。

2018年2月の未達粗利、七十万円
2019年3月の未達粗利、百二十四万円

1年1ヶ月で、未達粗利はほぼ倍になっていた。

未達を埋めるたびに、達成率はわずかに上がった。
達成するたびに来期の目標もわずかに上がった。
その繰り返しが、未達粗利を七十万円から百二十四万円へ、押し上げていた。

押し上げたのは、黒瀬ではなかった。
押し上げたのは、彼自身だった。

いま切っても、来期の目標はすでに上がっている。
上がった目標はもう戻らない。
戻らない目標を本物だけで届かせる手段は、今はない。

手段がないなら、続けるしかない。
続けるしかない、というのは止められない、ということだった。

止められない、ということを初めて形のある言葉として自分の中に置いた。
置いた言葉は、「もう抜けられない」ではなかった。

その言葉は、まだ彼の中では早すぎた。
代わりに置かれたのは、もっと短い言葉だった。


続けるしかない。


社用のスマートフォンを引き出しから取り出した。
連絡先の「く」の行で、指が止まった。

少し止まったあと、押した。
呼び出し音が、二回鳴った。

「もしもし」

低い声だった。
何かを待っていた響きだった。

「浅倉です」
「ええ」

「今月、ありがとうございました」
黒瀬は何も言わなかった。

浅倉は続けた。
「次回も、頼めるか」

電話の向こうで、黒瀬は1秒だけ間を置いた。

それから、短く答えた。
「いつでも、どうぞ」

それだけだった。
電話はそれで切れた。

切れたあと、浅倉はしばらくスマートフォンを耳から離さなかった。
黒瀬のその言葉を頭の中で繰り返さなかった。

繰り返さないことが楽だった。


ノートパソコンの「個人メモ」フォルダに視線を落とした。
視線を落したあと、新しいメモをもうひとつ作った。

タイトルはつけなかった。
本文の一行目に文字を打った。
今度は、暗号ではなかった。
平文で打った。

「知ったのに、やめない」

打ったあと、その言葉をしばらく見た。

それから、消した。
消したあとでも、その言葉は消えなかった。
消えない言葉は、最初の罪の自覚だった。


電気を消し寝室に向かいかけ足を止めた。

机に戻りノートパソコンをもう一度開いて「個人メモ」に暗号で打った。

打った文字は十数文字だった。
平文に戻すとこうだった。

「黒瀬は、なぜ未達額を知っていたのか」

打ち終わったあと、それは消さなかった。
消さない、と決めたわけではなかった。
消す動作を忘れていたというのが正確だった。

画面を閉じて、寝室に入った。
妻はもう寝ていた。

ベッドに横になり目を開けたまましばらく天井を見ていた。
常夜灯の薄い緑がいつもよりわずかに青く見えた。
緑は好きな色だった。

理由は、特になかった。
ただ、今夜、青く見えた理由はひとつあった。
たぶん、彼の中で何か別のものに変わり始めていた。


2020年2月3日
月曜の朝9時
浅倉亮介は、自席のPC画面に四つのウィンドウを開いていた。

経理画面、決裁ワークフロー、取引先一覧、月次の管理表。
どの画面に何の情報があるか把握していた。
画面には、緑色の「達成」が2年途切れずに並んでいた。

2018年2月から、年度をまたいでずっと達成している。
広告代理事業部は、半期ごとに計画値を上回る決算を出していた。

その「上回る」が、いま彼の事業部の評価の根拠になっていた。


2月の経営会議は、先週の金曜だった。
神谷が議題の三番目で、広告代理事業部の前期実績を年度の振り返りとして特別に取り上げた。

「広告代理事業部は、過去二年で売上を倍近くにしています」

神谷は紙の資料を、人差し指で押さえながらそう言った。

「グループ内で、最も成長している事業の一つです」

会議室の中で、何人かの責任者が浅倉のほうを見た。
見られた、ということを確認したあと、彼はふたつの感覚を同時に感じた。

ひとつは、不安だった。
「最も成長している事業」というのは目立ちすぎる事業ということだ。
目立ちすぎる事業は、いつか誰かに見られる。

もうひとつは、喜びに近い感覚だった。
「自分の事業部が、グループの中で必要な事業部になっている」という輪郭の薄い感覚。

22年前のタクシーの後部座席で初めて言語化した「数字を作れば、人間扱いされる」の2020年版だった。

22年前は、自分が「人間扱いされる」感覚だった。

いまは、自分の事業部が「必要な事業部」として扱われる感覚だった。


不安と喜びは同居していた。

同居しているということを、この会議の途中ではっきりと意識した。

意識した瞬間に、別の声が薄く響いた。

不安だけなら、たぶん、いつかやめる。
喜びだけなら、たぶん、いつか見つかる。

二つが同居しているあいだは、たぶんやめないし、見つからない。

その声を、彼はその場では深く追わなかった。


経営会議のあとフロアで、三人が彼の席に立ち寄った。

一人目は、別の事業部の課長だった。
「広告事業、勢いがありますね」と、それだけ言って去った。

二人目は、経理部長補佐だった。
「半期も、もう一度伸びる見込みですか」と聞いた。

浅倉は「来月以降の見込みは、上振れする方向で」と答えた。
嘘ではなかった。
来月以降も、黒瀬経由の取引がすでに準備されていた。

三人目は、社長秘書だった。
「神谷から、来月の取締役会で広告事業部の事例として、もう一度、簡単に紹介させてほしい、と」と伝えた。
浅倉は頷いた。

頷いたあと、彼は緑色の2年連続達成の画面をいつもより長く見た。

それはもう、事業部の象徴になっていた。

象徴になった、というのは外せなくなった、ということだった。
来月、緑色が消えればそれはニュースになる。
ニュースになるのは、許される選択肢ではなかった。


11時過ぎに、社用のスマートフォンにメッセージが来た。

黒瀬からだった。
「今夜、新橋で」

それだけだった。
時間も店も、夕方の別のメッセージで来ることになっていた。
場所のローテーションも、もう二人の中で自然に決まっていた。

今月は新橋。
先月は新宿。
先々月は恵比寿。
三ヶ月で一周。

会社の人間に見られないルートを二人とも自然に選ぶようになっていた。


夕方、新橋の路地裏の店で黒瀬と会った。

カウンターだけの、八席の小さな店。
客は、二人と奥の方の一人だけ。
店主は、二人の方を見なかった。
それを知っていて、二人ともこの店を選んでいた。

革鞄から、書類が出された。
2年前は一件分だった。
今夜は、三件分だった。

媒体資料、発注書、下流代理店指定リスト、成果レポートのテンプレート、入金予定の一覧——その五点セットが三組、テーブルの上に並んだ。

会社の名前と、住所と、代表取締役は、三件ともそれぞれ別だった。
フォーマットだけが完全に同じだった。

「今月の追加分は、三件で」
と、黒瀬は短く言った。

月初にすでに二件、動き始めていた。
今夜の三件を合わせれば、2月の黒瀬経由は合計五件。
合計の金額を黒瀬は口に出さなかった。

出さなくても、浅倉は知っていた。
五件で、月の合計、約七億円。

事業部全体の2月度の未達粗利、約一千四百万円を粗利率二パーセントで割り戻した売上額に、ぴったり一致するように準備されていた。

浅倉は書類をほとんど見ずに、革鞄に入れた。
入れる動作は、2年前よりはるかに短かった。

「来月、もう一件、増やせます」
と黒瀬は続けた。

「ええ」
浅倉はそれだけ答えた。

2年前なら「いくらまでなら」と聞いた。
今はもう、聞かなかった。

聞かなくても、黒瀬は適切な金額で書類を準備してきた。

来月の事業部全体の未達粗利を黒瀬はもう、把握していた。
把握しているということを浅倉はもう、確認しなかった。

黒瀬はもう、「ありがとうございます」を言わなかった。
2018年9月、二回目の取引のとき黒瀬は初めてそれを言った。

それからしばらく、毎回言っていたが、いつしか言わなくなった。
言わなくなった月を浅倉は覚えていなかった。

覚えていないということが、二人の関係のいまの距離だった。


店を出るとき、浅倉は腕時計を見た。
9時47分
今夜の取引が決まった時間は、8時20分。
1時間27分で月三件の架空売上が決まっていた。

2年前の2月、恵比寿のラウンジでは一件の取引に1時間近くかかった。

いまは、三件で1時間半。
一件あたりの時間は四分の一以下になり、一件あたりの取引額は、3,800万円から二億円を超えるまでになっていた。

時間は短く、金額は大きく。
月の合計、約七億円。

年間で、八十億から百億のあいだ。
取引開始からの累計は、もう自分でも数えていなかった。
数えなくても、百五十億は超えていた。

そのことに、社内の誰もまだ気づいていなかった。
気づかれない、というのがいまの安全装置だった。
安全装置はいつか外れる。
外れるまでは続ける。

選んだ、というよりは選び終わったというのが正確だった。


「今月で終える」と毎月、決めていた。
2019年の春夏秋冬、それから2020年の1月。
決めて毎月更新していた。

終わらない理由は、いつも同じだった。
来月の数字がまだ足りない。
足りないのは、来月の目標が前期実績ベースでわずかに上がっているから、だった。

反復されるたびに、自己説得の言葉はわずかに長くなっていた。

「今月だけ」が「あと数回だけ」になり、「半期だけ」になり、いまは「今期だけ」になっていた。

今期、というのは、2020年の上期という意味だった。
だが、上期が終わったら、たぶん「今期下期だけ」と言う。
下期が終わったら、「来期だけ」と言う。

そのことを彼はもう、知っていた。
知っていて、毎月「今月で終える」と決めるのは、決めること自体が自分を保つための最後の動作だったからだった。

決めなければ、自分が自分でなくなるというのが、動作の意味だった。


業務量が限界を超えていた。
経理画面、決裁ワークフロー、取引先との連絡、社内会議、本物の案件、黒瀬との月数回の会合、月次の管理表。

それぞれの細部を、浅倉一人が把握していた。
夜、家に帰っても、書斎で社用ノートパソコンを開く時間がいつしか2時間から3時間に伸びていた。

把握しているのが彼一人、というのは、自分に何かあれば、すべてが見つかるということだった。

だから、彼以外の誰かに把握の一部を譲る必要があった。
譲る相手は、信頼できる人間でなければならない。
だが、信頼できすぎる人間も困った。
信頼できすぎると、その人間がすべて最後まで見てしまう。

ちょうどよく信頼でき、ちょうどよく深くは関わらない。
そういう人間を探していた。


2月10日、月曜の午後
人事部に出向いた。
人事担当者は40代の女性だった。
10年以上、中途採用を担当している。

「広告代理事業部の業務量が増えていまして、経理経験のある方を一人、補強したい。中途で」

人事担当者は頷いた。
「経理経験というのは、社内のジョブローテーションでもいますが、外からということですね」

「ええ。外から」

外から、と言ったのは、社内のジョブローテーションだとその人間の社内の人脈が強すぎるから、だった。
外から来た中途には、社内の人脈がまだない。広告代理事業部の中だけで業務が完結する。

人事担当者は、そこまでは聞かなかった。
聞かなかったが、彼女の頷きはいつもより少しだけ深かった。
深い頷きの意味を浅倉はその場では追わなかった。

「いくつか候補がいます。来週の中ごろまでに、経歴書をお持ちしますね」
「お願いします」


2月13日木曜の午後
人事担当者が浅倉の席に経歴書を持ってきた。
A4用紙、五人分。

浅倉はその場で順番にめくった。
一人目、女性、42歳、独身。経理経験12年。前職は中小企業の経理部長。
二人目、男性、51歳、既婚。経理経験20年。前職は地方銀行の融資担当。
三人目、女性、38歳、既婚、子供二人。経理経験10年。前職は商社の経理。
四人目、男性、45歳、既婚。経理経験15年。前職は会計事務所。
五人目、男性、37歳、既婚、子供一人。前職、中堅通信代理店の営業企画→経営管理。家庭優先の働き方を希望。

浅倉の指は、五人目で止まった。

森下翔太、37歳

中堅通信代理店というのは、浅倉の前職と同じ業界だった。
会社名も、見覚えがあった。
営業企画から経営管理に移った経歴。
数字に対する正確さは経歴からも伝わってきた。

家庭優先の働き方を希望。

前職で長時間労働を経験し、家庭との両立を求めて転職活動をしていると、希望条件欄に書いてあった。

浅倉はその「家庭優先」の四文字を長く見た。
長く、というのは5分か、それ以上だった。

その間、人事担当者は何も言わずに待っていた。
家庭優先、というのは家庭をいちばんに考えるということだった。

家庭をいちばんに考える人間は、仕事で無理をしない。
無理をしない、というのは深掘りをしないということだった。

深掘りをしない人間は、見ない範囲を自然に決める。

彼は人事担当者の方に視線を上げた。
「この方、面接でお会いしてみます」
それだけ、言った。

人事担当者は頷いた。
頷きながら、もう一度五人目の経歴書に視線を落とした。
落とした視線が止まったあと、彼女はふたたび浅倉のほうを見て何かを言いそうにした。

だが結局、言わなかった。
言わずにクリアファイルに戻した。

「では、面接の日程を調整させていただきます」

それだけ言って、彼女はフロアを出ていった。


浅倉は自席で、しばらく動かなかった。
手元には、人事担当者が念のためと置いていった経歴書のコピーが一部、残っていた。

彼はそのコピーを革鞄の中にしまった。
しまう前にもう一度、五人目の名前を確認した。

森下翔太

その名前を頭の中で繰り返さなかった。
繰り返したら、その名前は自分の中で形のあるものになる。
形のあるものは、責任の対象になる。
会ったら、その時に繰り返す。
それまでは繰り返さない。

彼は革鞄を、デスクの右端に置いた。
革鞄の中には、2020年2月の取引の書類と、森下翔太の経歴書コピーが一緒に入っていた。

一緒に入った、ということをその場では確認しなかった。
確認しないことを、もう確認の動作の中に組み込んでいた。

PC画面の左下では、緑色の「達成」がその月の終わりまで残っていた。


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