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【NOVEL】ある男の人生 第6話

 ある日のことである。男の家に例の旧友から結婚式の招待状が届いた。男は彼を懐かしく思い、その文面に安堵した。友人とその妻は歳が近いようで、住まいも男の家からそう遠くはなかった。男としては、人を祝いに行ける心境では無かったが、どうやら【友人からの挨拶】も頼まれているので、仕方なくも一応、快く引き受けることにするのだった。このことを彼は妻に話した。妻も友人の結婚を祝福してみせたが、すぐに互いの年齢を心配していた。対して男は「一緒にいてくれる人と出会えただけ良いじゃないか」と返したが、彼女は「この歳では、それだけでは納得出来ない」と言うのだった。
 後日、友人は男に当日の【挨拶】を依頼した手前、会食と称して、彼を上等なレストランに招いた。男が店に着くと、案内人が現れ、友人のもとへ導かれた。妻と二人で待っていた友人は、男が現れると「久し振りだね」と言って席に座るよう促した。
「幸せ太りってやつか」男は敢えて意地悪く言い、優しく微笑んだ。友は「いや、まぁ……」と照れてみせた。その第一声に彼の妻は、苦笑いをしていただけだった。彼の妻は至って普通だった。清楚な容姿に淡泊な性格で、彼との価値観が大いに似ていると、男は瞬時に理解した。テーブルを介して相対しているので、男は夫妻の全容が良く見えなかった。卓上にある蝋燭と、壁掛けの間接照明が都会の夜景に調和して、三人を上品に演出させる。男からみて、女は妊娠しているようにも見えたが、不躾にもなり兼ねないので訊ねるのは止めにした。二人とも当時の諍いは疾うに忘れており、男は友人に馴れ初めを聞き出すのだった。
 現在、彼は大学で講師をしており、彼女はその大学の職員だった。
「尤も、僕は期限付きの講師だから、立場的にも給与の面にしても彼女が上だけどね」と言って、彼は妻の目を見て微笑んだ。
 それを見た男は、呆れ返ってしまったが、悋気に似た感情も沸き起こった。晩婚によるリスクにも拘らず、未だ自活さが足りない上、彼の妻も現状を喜んでいたからである。
 だが、その妻は、あらゆることに心の用意が出来ており、友人の不完全な部分を丁度、穴埋めするかのような人間だった。問題は一般的なもので、子供をどうしようか、仕事や家事をどう分担し、住居はどうしようか、というものだった。「困苦に漂着させられようならば、それもまた楽しめる」といった節の発言もあり、これには男も感心した。
 また、男は二人の式の企図に助言を与え、当日は、遠慮なく存分に楽しむよう忠告した。しばらく談話していると、友人の妻は約束事を思い出したようで、携帯電話を持って席を外した。
 二人きりになると、男は表情を少々固くして言った。
「研究は忙しくなりそうか」
 それは、彼なりに気を使った問い質しだった。自身の研究を鼓吹しなければならない友人との精神的交通を図ったのである。だが、友人は弱気であった。実績が余りにも不足しているのに加え、学内の役職の数が決まっているため、今の職場では現状維持が精一杯である。友人の気性は明らかに後ろ向きだったが、男からしてみると、そうした不安が漸く真面に映った。友人は、男の気遣いに共鳴せず、前置きもなく言葉を発した。
「先日、公開討論会に出席した際、ある人から名刺をもらう機会があってね。その人は、自分の名刺入れに名刺を乗せ、僕の顔を見ながら両手で丁寧に渡してきたのさ。僕は、そいつを受け取ると、すぐさま内ポケットにしまってね…それを見て先方は驚いていたさ。
 なぁ、僕は数学という一つの学問でここまで生きてきた。僕みたいな人間を専門馬鹿って言うらしいが、日本語には上手い言葉があるよね。彼は色々と仕事の話を持ち掛けるが、僕はいまいち要領を掴めないのさ」
 友人は、明らかに過去の自己及び自己の生活を反省していた。あらゆる配慮を模索した彼だったが、男はそれを黙って聞いていた。
「…要するに、その男は、君のことを高く評価しているから、仰々しくも紙札を君に渡したのさ。私から言わせれば、そうした甘い教育を授かった所で、仕事のイニシアチブは取れない。
 事実、その男は、君を困惑させただけじゃないか。大体、今時、かっちり名刺を渡す奴に限って、下手に見えるが、実は上から目線ってものさ。尤も、我々の世代は皆知っている。この歳になって、つくづく思うよ。マナーも大事だが、成果に拘って欲しいと」
 男は、実行の遅延を許さず、尚且つ近頃社会に蔓延るマナー重視な社会を峻烈に批判してみせた。
 友人は「確かにそうかもしれないね」とだけ、力なく言ってみせた。
 概して、楽天的な友人が、珍しく消沈した様子だったので、男は自分の芳しくない現状の家庭を包み隠さず開示した。と言っても、男は決してそれが愚痴にならぬよう、中庸を得た感受性は保ったまま、時折微笑むことを忘れず話をしてみせた。
「あの時、偉そうに君に説教なんかしてみせたが、娘の前では気を使ってばかりで、自分が父親の立場であることが却って恥ずかしいくらいさ。自室に籠るあいつを見ていると、自責の念に駆られてしまってね。自分の子供が年頃になってくると時々思い起こされる。茶の間で親父が黙って胡坐を掻いて新聞を読んでいた姿がね。
 私はね、友よ。自分だけが幸福になるような、酒色、いわゆる放蕩な人間を振る舞い、尚且つそうした同類とつるむこともあった。ところが、そうした生活をすればするほど、心の渇きは一層増し、結局、仲の良いと思っていた人物との気持ちは通わなかった。
 一方で、妻子には、虚偽を真理の如く装う詭弁家だった。それは、逆説的になってしまうが、口数が少なく、自身の戒律のみを履行していれば文句を言わせないという、高圧的に沈潜しているように見せかけて、実は父という役割を放棄して自分を欺いていた。私としては、妻と役割を分業することで、争いもしないし、かといって誓い合うこともしないが、そうすることで、社会生活の方法を達成させようとしていた節がある。しかるに、私は、より良い生活を口実にして、本来改善するべき物事に目を背けていたのだ。世の男は、法律の下で、ある程度権力を持ってしまうと、恰もそれが、自分のすべてだと思い込んでしまう恐れがある。この皿に盛りつけてある野菜一つ一つを我々はどうして食べられるのか。当時の私に問えばこう答える『私には、それだけの金があり、私に見合う食材と判断したから』と…
 百姓が、大地に種を蒔いて、良質な土をかぶせて、収穫に備えていることを疾うに忘れており、眼前の儲け話にしか注視しなくなる。恥ずかしい話だが、この手の食材の原型を私は見たことがないし、葉菜と根菜の区別すら考えずに口へ運んでしまう。料理長に『これらは海から採れたんですよ』と言われれば信じてしまうかもな。それぐらい私の興味関心は狭小で、利益にしか目を向けない単一焦点型な人間だったのさ」
 男の言葉に内的動揺に駆られた友人は、沈黙していた。しばらくして、空になったワイングラスを手に取って「なるほど、確かにそうかもしれないね」とだけしか言ってみせなかった。
 程無くして、彼の妻が席に戻ってきた。彼女は二人に「何の話をしていたの」と聞くと「ただの思い出話さ」と友人は返した。

【NOVEL】ある男の人生 第7話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2025 #お仕事小説部門

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