見出し画像

スポーツと集合的憎悪~ジョージ・オーウェルの考察

ジョージ・オーウェルのエッセイ集「一杯のおいしい紅茶」(小野寺健編訳 中公文庫)が、とても面白かった。

私が火曜日の午後に生番組を担当しているクラシック音楽専門インターネットラジオ「OTTAVA」でも、番組内の本の紹介コーナーで取り上げて、かなりの反響があった。

おいしい紅茶の入れ方の話にはじまり、英国料理は家庭料理でしかおいしいものは食べられないという話、ヒキガエルの愛すべき生態、都市生活におけるBGMの不毛、ライター生活についての自虐的考察など、どれも批判精神と鋭い機知に富み、しかも手軽で読みやすい。

この中に「スポーツ精神」という一文があり、国際的なスポーツイベントに対する辛辣な記述があったので少し引用する。

「スポーツは国際的な友情を生むとか、全世界の民衆がサッカーかクリケットの試合で出会えるなら戦場で会おうとは思わなくなるだろうといった話を聞かされるたびに、毎度呆れている。(たとえば1936年のオリンピックのような)国際的なスポーツの試合が憎悪の狂宴と化した具体的な例など知らなくても、その程度のことは一般論でも推測できるではないか」

「今日おこなわれているスポーツは、ほとんどが競争である。プレーするのは勝つためであって、勝つために全力をつくさなければゲームにはほとんど意味がない。(中略)威信がからんで、負ければ自分なり何かの組織なりが面目を失うという気持ちになると、とたんに野蛮きわまりない闘争本能をかきたてられるのだ。(中略)国際的な試合となったら、スポーツはまさに模擬戦争そのものなのである」

「真剣なスポーツはフェアプレイとは無縁で、かならず憎悪や嫉妬、自慢、ルール無視、暴力を目撃するサディスティックな快感などがからむのだ。つまり、鉄砲抜きの戦争なのである」

「サッカー・グラウンドでの清潔で健康な対抗意識とか、世界各国の融和をもたらす上でオリンピックが果たす大きな役割といったくだらない話をならべるよりは、近代のこうしたスポーツ礼賛はなぜ起きたのか、その事情や理由を調べたほうがまだしも役に立つというものだ」

こうした考察は、スポーツは平和の祭典だと信じる立場からすれば、あまりに一面的と感じられるかもしれない。
あるチームを応援する理由が、健全な郷土愛や愛校心、あるいは個人の自由な選択意思であり、相手に対する敬意と品位とマナーが重んじられている限り、スポーツはとてもいいものだ。

だが、メダルの色と数に国家の威信がかかり、負けた方の国が「面目を失う」という状況がエスカレートし、ある臨界点を越えると、オーウェルの考えは真実味を帯びてくる。スポーツは「現代の世界にすでに存在する膨大な悪意の量をさらに増やす」きっかけになりかねない。

20年近く前だったろうか、W杯サッカーのテレビ実況中継で、解説者のラモス瑠偉氏が、日本代表選手の緩慢なプレイを激烈に批判し「サッカーの国際試合は戦争と同じなんだ。それが日本選手はわかってない」という意味のことを強く言ったのを今でも鮮烈に覚えている。
オリンピックもW杯も、平和の祭典だというのは表向きのことで、本当は戦争だと。寝ぼけるなと。少なくとも選手はそれくらいの闘争意識がなければだめだと。そういうことだろう。
あの頃から、日本も国際試合に対する観客の態度がどんどん戦闘的になっていったような気がする。

いったい東京五輪は何のために開かれるのかが、いま改めて問われている。そもそもスポーツとは産業なのだ、という意味のことを元都知事の猪瀬直樹氏が言っているのをyoutubeか何かで観たが、その率直な意見が意味するものは、オリンピックにとって「理念」などは本質ではないということだろう。
「平和の祭典」とか「復興」とか「コロナに打ち勝った証し」とか、政治家たちやIOCにとってはケーキの上にちょこんと一つだけ載っているトッピングみたいなもので、ケーキの本体(=産業)にとっては、どうでもいいことらしい。

コロナ禍が世界的な災害であろうが、ハルマゲドンが起ころうが、いかなる犠牲を払おうが、東京五輪の強行開催に向けて、すべてが突き進んでいる。一度開催されてしまえば、私たちの多くは、為政者の思うつぼで、それまでの経緯はすっかり忘れ、日本選手の大活躍についつい熱狂してしまうのだろうか。

ともかく、オーウェルの国際的スポーツイベントについての辛辣な考察の一文は、ぜひ読まれることをお勧めする。








いいなと思ったら応援しよう!