鋼の夜 3
トイレ近くの席でチキンを食べながら、不躾な目を向けた。どう見ても二十三歳以下の、黒髪の野郎だった。スニーカー集めが趣味、と顔に書いてある。
「アイスランドの映像、見ました? あれ、俺が送ったんですよ」
俺たちが席を着くなり話し始めると、最初の視線もなくなった。
後から次々と客足が店内に入って来た。入口付近のカップルは、俺たち二人を見て思わず目を逸らした。土井は背が高い。坊主頭を含めてどう見ても堅気には見えないせいだ。
若者はストローから口を離して言った。おそらく中は氷付きのコーラだろう。
「俺が映して、彼女が運転していました。どうしても自分でハンドルを握りたかったらしくて」
「待て。何の話だ? お前のペースで話すんじゃねえよ。俺が映して、彼女が運転? その前に目上の人間にシートベルトくらい付けさせろ」
男は黙った。初対面で相手の印象くらいわかる。大手の面接とそう大差はない。もし違うとすれば、チキン代の奢りがあることだ。ついでに交通費込みの待ち時間がもれなくついて来る。
ようやく土井は口を開いた。
「そのチキン、誰の奢りだ?」
「無礼はしましたよ。無礼はしました。だけど俺もずっと待っていたんですよ。あんたが帰るって聞いて、ここで待機してろと手紙に書いてあったものですから。お兄さん、昔からの知り合いでしょ。だったら話が早いよね。映像編集の仕事してるとかなんとか。すげえなって。俺、映画好きなんですよ。ちゃんと名作も隈なく。信じてませんか? ほら、『タクシードライバー』とか、『ディア・ハンター』とか他にも。映画、俺より詳しいじゃないですか。話が早い。映画談義しましょうよ」
若者に反省はなかった。いや、俺たちも別にこれ以上反省を求めているわけじゃなかった。どこの街にも、お調子者くらいいる。チキン一本、雄弁二時間といった具合に。
どうやら熱心な文通相手で間違いないらしい。きっと俺以上に切手代を消費し、塀の中の極悪人の御機嫌を伺っていた。その結果が今日だ。
「さっき坂道に上がるところ、見なかったか?」
「ええ。しっかり確認させていただきました」
「俺の足、速いだろ。駅前ってのはのんびり歩けないのさ。こいつは割とゆっくり歩くけど」
駅前のケンタッキーでムショ帰りの男を待つ。ここ大倉山駅の改札を出て右、店前にはいつからあるかわからないギリシャ彫刻がある。素通りする者がほとんどだが、たまに俺のように足を止め、解説を読む人間もいる。
エルム通り商店街は白い屋根が多く、この彫刻はエーゲ海に近い街並みであることを示していた。
狭く空気の悪い綱島駅前と違って、明るい印象だった。
「手紙の中であなたのこと知りましたよ。さっきも言いましたけど、俺が送ったものなんです。CDR、あれですよ。この人が差出人の名を書くなっていうもんですから。ごめんなさい。何か怪しげな小包でしたよね。ここから坂道を上がってすぐのマンションの三階。すげえいい立地じゃないですか。なかなかいい所にお兄さん、住んでるなって。だから宛先も覚えやすかったんですよ。俺、あなたに送るまでチキン何個食ったと思います? 実は俺も数えてなくて」
事の顛末はこうだ。もうすぐ刑期が終わる。それについては俺も把握していた。しかし、熱心なファンがいるとは知らなかった。出所前に、俺の部屋にアイスランドの旅行記録を届ける。
ファンである囚人と信頼を獲得するのが狙いらしい。
「あれのデータ。あれですよ、カップルが舐め合うシーン。全部消しちゃったんですけど、ドライブの所だけ焼いておいたんです。お兄さんに見てほしかったわけ、そろそろ話しましょうか。でもその前にチキンバーガー奢ってください」
「いや、これでわかった。ありがとう」
「本当にわかったんですか。今から説明しようと思っていたのに」
「あいにく説明聞くのが大嫌いなんだよ。残念だったな」
「バーガーはどうなるんですか」
「お前以外の大勢がオーダーする。何か問題か?」
「……お兄さん、俺のこと苦手っすか」
「好きになる理由、どこにあるんだ。ニワトリだって悠長な歩き方しねえだろうが。お前の胃袋に収まるまでの時間、タダじゃねえんだよ」
俺はメロンソーダを飲み干した。
あのアイスランドの地平線は、おしゃべりのこいつが撮ったらしい。
「いいか。俺は編集のプロだ」
男は頷いた。
「素敵な彼女の映像、もっと見せてほしかったな。もちろん無修正で俺が最初に見る。お前以外の野郎が三本の穴に突っ込んでないかどうかを見る。ギャラは応相談だ」
笑い声が漏れた。
必死で声を抑えていた奴、もう一人は欠伸をしてコーラに口を付けた。
「編集者は最初の観客なんだよ。つまらない素材かどうかを確認する。フィルム時代から変わらないんじゃないか」
俺がいつ編集に興味を持ったのか考えた。物心が付いた時代には映画を見ていた。テレビで放映するハリウッド映画、ミニシアターで見たどこかの国の小さな映画。それら数えきれない履歴が紙にはみ出るほど続いている。五教科の学習からは学べない。気付いたのは高校入学前のことだ。
VHSのテープが機械の中で回る度、一つの世界を知る。銃を持つ者、白人、黒人、自分と同じ黄色の肌。ブロンドにブルネット、スキンヘッド。炬燵に足を突っ込んで、残酷で陽気なストーリーに唖然とする。十五の俺にはすべてが学習素材だった。
深夜に流れていた『ダーティハリー2』を見た。爆弾魔が犯人だった。次の週は『サイレントランニング』というSF映画だった。脚本家が同じ人だと気付くまで、時間は掛からなかった。
十八歳を過ぎても、ハリウッドは海の向こうの夢でしかなかった。表参道でシナリオを習ってみたことがある。学費が足りない上、最初から本科には進む気がなかった。
上野のカプセルホテルから出た朝、自分がひどく汗臭いことを知った。
何度目かの『ロボコップ』を見て、これが現代の復活であると知った。十字架で鞭打ちの末に息絶えたイエスと、銃弾を浴びたデトロイトの警察官は確かにそっくりだ。後に編集作業を一人の技師に任せることも知った。もう炬燵で洋画を見る年齢ではない。そう判断した俺は、一から学ぶことを選んだ。
中目黒の映画学校でアヴィッドを使用し、卒業後はいくつかの会社の面接を受けながら、ひたすら自宅で作業を繰り返した。一日、会う人間と言えばコンビニの可愛いバイト店員だけだった。面接時に、好きな映画について話したことは一度もない。履歴書が返って来たことも多々ある。何枚かを破り捨て、またパソコン画面に戻る。ウィンドウズ・ムービーメーカーで作業を続けた。誰とも会わない。誰とも話すこともない。依頼のメールが来た日、ゴミ箱の中に眠る履歴書を覗き見た。ざまあみやがれ。胸の内はその一言だけだった。
経歴を見て、一緒に働こうと思う者は少ない。それくらいは判断できる。結果、単身向けアパート内が仕事場となった。これも自分が選んだ道に過ぎない。大体、電車に乗って働く場所などない。駅さえも遠くなった。
この街で受け取った小包。中には見たことがない類の作品が入っていた。
わずか五分の映像。何の目的なのか、判断はできなかった。
欠伸を終えて眠そうな野郎に聞いてみた。しばらく土井と雑談して、飽きて来たようだった。
俺も我に返るつもりで聞いてみた。
「連絡先が入ってた。それもお前が入れたのか?」
「……知らないっす」
俺はポケットから紙きれを取り、テーブルに置いた。
誰かの電話番号が書いてある。
「差出人が知らない番号ってこれのことか。小包を送ったお前が知らないとは言わせねえぞ」
「土井さん」
「お前と話してる。俺の住所を聞いたんだろ」
「はい」
「CDを送った。おまけが付いてた。どんな凄腕のマジシャンなんだよ」
「質問」
「駄目だ。これを誰が送ったのか、今から確かめに行く。実はもう電話してるんだよ」
土井は俺の横で苦笑いしていた。番号について知っているのか。
大倉山公園は鬱蒼としている。坂道を上がるとわずか数分で見えてくる。公園の周囲は住宅街が連なり、異様なほど静かだ。
地元住民にも、あるいは初めて訪れる人間にも、生い茂る樹々は高く見える。この地域で随一の森だった。
「お前にチキンを奢って待機させた。今度は俺の番だ」
野郎はコーラの氷を噛み砕いていた。
「公園で待ち合わせか。港で人を待つよりいいかな」
「駅前で待っても来ないような人なんだよ。俺と同じ自然を愛する人間なのさ。鳥と、狸と、森の風と」
「それが真っ赤な血に変わらなきゃいいが」
「土井さん、ちょっといいっすか」
「今更抜けるとか言わないだろうな」
「なんですか、その半グレっぽい安い台詞。あんた塀の向こうで何を学んだんですか。何を糧にしているんですか」
「やめろ。お前だって元傷害罪と接触してるじゃねえか。塀の向こうで何を呑気なこと学んで来たんだ? 言ってみろ」
「言わない約束っすよ。俺、懲役行ったこと知られてないので」
「いい芝居してたぞ。とても同じ班の人間には見えなかった。先に出たんだろ。それでおつとめ帰りの先輩を出迎えたんだろ。お前のこと、まじめだったって聞いてる。噂通りの性格だと思ったよ」
「ペラペラしゃべったんですね。残念。俺、もっと上手く演じる自信あったんですよ」
「時間だ。公園で待ち合わせている」
俺は話を切った。
「言っておくが、どんな人間かわからない。ドラキュラじゃなきゃいいが」
店の外に出た途端、思わず目が眩んだ。午前の陽が高々と上がり、気温は三十度を余裕で超えていた。額から汗が滲み、首回りはひどく焼けていた。
