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マキャベリスト



静かな退却

玄関の空気は、やけに重たかった。

さっきまで人がいたはずなのに、
今は物音一つしない。

隣の部屋では、寝息が聞こえる。
小さくて、規則正しい、守るべき存在の音。

男は立ち尽くしていた。

何度も向き合ってきた。
何度も言葉を選んできた。
何度も飲み込んできた。

逃げたことはない。

責められても、
誤解されても、
殴られても。

「わかってほしい」と言われ続け、
自分の感情は後回しにしてきた。

だが、限界というものは、
ある日突然ではなく、
静かに積もる。

気づけば、胸の奥が冷えていた。

怒りではない。
悲しみでもない。

ただ、冷たい。

男は理解していた。

このままここにいれば、
また何かが起きる。

言葉か、沈黙か、
あるいはそのどちらでもないものか。

そして何より、
あの小さな寝息の主に、
これ以上の緊張を見せたくなかった。

守りたいのは、勝敗ではない。

日常だ。

一緒に寝る夜。
同じ布団の温もり。
意味のない会話。
笑い声。

それを守るためには、
時に退くしかない。

戦わないという選択。

男はスマートフォンを手に取る。

長い説明は書かない。

正しさも書かない。

「今日は体調もあり、一度帰ります。
 本日はよろしくお願いします。
 また改めてご挨拶します。」

それだけを送る。

言い訳も、告発も、怒りも、
何も添えない。

それが今の自分にできる、
最も静かな強さだった。

靴を履く。

振り返らない。

逃げではない。

退却だ。

守るための。

ドアを閉める音は、
思っていたよりも小さかった。

外の空気は冷たい。

だが、胸の中の冷えとは違う。

それは、生きている冷たさだった。

男はゆっくりと歩き出す。

自分を守ることが、
誰かを守ることにつながると信じて。

静かな夜の中へ。

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