【短編小説】悲しみの風景
「人生で一番辛かったこと?」
随分難儀な質問を軽い調子でしてくるものだと、美吉良太はいっそ感心してしまった。
「辛かったというか。美吉さんでもバレエ辞めたくなったことってありますか」
仕事終わりに立ち寄った昼下がりのカフェ。問いかけてきた10歳年下のダンサー、星野一誠と八木沢薫子は、神妙な面持ちで座っている。同じ職業という括りにすれば”後輩”と呼べなくもない二人だ。
「要は、挫折から持ち直したことはあるかって話?」
「ええと挫折、までいかなくていいんですが」
「美吉さんほどの人でもそんなことってあるのかなって」
カップを片手に、美吉はため息を吐く。
「わかった。興味本位ってことだな。どっちが言い出した」
「一誠が」
「薫子です」
双子の兄妹のように声が揃った二人は、お互いの肩をはたきあった。
美吉のキャリア――ティーンエイジャーの頃から海外を拠点にプロとして活動して、30代半ばを過ぎても、未だ主役級でキャスティングをされているキャリアは、外から見れば順風満帆としか言いようがない。挫折とは縁遠く見えるだろう。
そんな美吉と、気軽に会えるうちに気になることは聞いておきたい、といったところか。
ダンサーという仕事は、本人にその気があれば身一つでどこにでも行けてしまうところがある。三人が同じ国で、同じ仕事に関わっていられる時間も、貴重なものだ。
ミーハーな後輩に、たまには付き合ってやってもいいだろう。
美吉は少し考えて、思いついた記憶を口にした。
「若いころ別れた男に、付き合ってる間のことをネタにした作品を発表されたときは、多少嫌になったかな」
相手が振付家で、と付け加える。
予定していた話の流れと違ったのか、一誠と薫子は目を瞬いている。
その様子が、今度こそ本当に双子か何かのようで、美吉は笑いそうになったのをこっそりとこらえた。
薫子は眉間にしわを寄せ始め、一誠はおそるおそる「ネタにされたとか、わかるものですか」と言った。
わかるものだ。
「使ってる曲が、そいつが俺のイメージって言ってた曲で。まあ、俺はそうは思ってなかったんだけど。いつか俺のために、その曲で振り付けるって言ってたんだよ。ちなみに聞かれる前に言っておくとエリック・サティのジムノペディ2番」
「サティのジムノペディって……これだっけ」
一誠が正確な音程でハミングをした。正解だ。
「美吉さん、こんなアンニュイでしたっけ」
薫子はいささか失礼とも取れるようなことを言って、首を傾げた。
「あくまでも、そいつの中の、だからな」
決して嫌いではなかったのに、わずかに苦い記憶と紐づいてしまった曲が、一誠のハミングに導かれて耳鳴りのように脳内に響く。
「もしその作品を本当に作るならって話してた頃に、俺がアイディア出しした動きが全部入ってた」
二人は心底嫌そうな顔で、げえ、と言った。
「盗作じゃないですか」
「とは、言い切れない程度だけどな。まあ、付き合ってる間の、頭がバカになってる時期の口約束だから」
二人で考えたジャンプに、二人で考えたリフトだった。
男が開いた腕の中に、振り返った女が飛び込んでいく。美吉のイメージだと言っていた曲に合わせて、舞台の上、複雑に身体を絡め合った男女はおもむろにキスをする。
その角度が、別れた男がふざけて、わざと不自然な態勢で美吉に仕掛けてくるときのキスの角度と同じだった、という話は二人にはしないで飲み込んだ。
けれど、舞台上でキスを交わすダンサーを見て、これは自分たちなのだ、と美吉は理解した。
女に翻弄される男。
男に追い詰められる女。
やがて離れ離れになって、舞台の上には男が一人取り残される。
「タイトルは……確かペサージュ、ラぺイヌ……違ったかな。うろ覚えだけど。日本語にするなら、悲しみの風景、痛みのある風景。そんな感じのタイトルだった」
悲しみだとか、痛みだとか、傷だとか、罰だとか。
そういう薄暗い言葉に、振付家の彼のもとで美吉が過ごした時間はまるっと押し込められ、舞台の上に上げられた。
傷でしかない。
そう言われているようだと思ったら腹が立った。腹が立って仕方がなかった、それなのに。
「一番嫌だったのは、その作品が素晴らしかったことと、自分だったらこう踊る、って。踊りたいって、当たり前みたいに思ったことだよ」
薫子が、ハッと息を呑んだ。
一誠は黙って美吉を見つめている。
あの時、呼吸をするのと同じくらい当然のこととして、自分が踊ることを思い描いた。
もし、自分だったら。
そんな風に、その作品をより良いものにする方法を考えた。
美吉を傷だと言っているに等しい作品を前に、思い出を消費されて、もっと傷付いてもいいはずなのに、ダンサーであることが一番前に来て、それを止められない。
そう悟った時、バレエを辞めたくなった。
「ま、辞めなかったんだけどな」
美吉はそう言うと、冷めたカップを手に取った。脳内のサティはやんで、店内では、有線の軽快なポップスが流れている。
(本文文字数:2,000字)
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以前にも参加させていただいた、花澤薫さん主宰の文芸賞に参加させていただきます。
