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殺意がなければ、傷は浅くなるのか
小説 『前を見ていなかった』 を書く中で、ずっと考えていたことがあります。
それは、殺意がない加害と、消えない被害についてです。
誰かを傷つけるつもりはなかった。
殺すつもりはなかった。
ただ、不注意だった。
そう言われたとき、加害の重さは軽くなるのでしょうか。
もちろん、法律上は「故意」と「過失」は分けて考えられます。
殺そうとして行った行為と、注意を怠った結果として起きた出来事は、同じではありません。
けれど、失われた命は戻りません。
遺された人の生活も、元には戻りません。
加害者に殺意がなかったとしても、被害者の不在は消えない。
そのことを、この物語では描きたかったのです。
法は裁けても、心は置き去りになる
法は、社会にとって必要なものです。
何が罪で、どの程度の責任があるのか。
誰が、どこまで責任を負うべきなのか。
それを決めるために、法律があります。
しかし、法が出す答えと、人の心が求める答えは、必ずしも一致しません。
判決が出る。
刑が決まる。
事件としては、一つの区切りがつく。
でも、それで遺族の悲しみが終わるわけではありません。
「これで終わりです」と言われても、家には帰ってこない人がいる。
食卓には、座るはずだった席が残っている。
片づけられない靴や、捨てられないコップがある。
法は事件を処理できても、心の中に残った空白までは処理できません。
本作では、その置き去りにされた心を描きたいと思いました。
正義と復讐の境界
大切な人を失ったとき、怒りが生まれるのは自然なことだと思います。
なぜ、あの人が。
なぜ、加害者は生きているのか。
なぜ、こんな軽い言葉で済まされるのか。
その怒りは、簡単に否定できるものではありません。
けれど、怒りが「正義」の形を取り始めたとき、そこには危うさが生まれます。
誰かを裁きたい。
誰かに同じ苦しみを味わわせたい。
社会に分からせたい。
その気持ちは、時に「正しいこと」のように見えてしまいます。
しかし、正義と復讐の境界は、とても曖昧です。
自分は正しいことをしている。
許されない人間を罰している。
被害者の代わりに怒っている。
そう信じた瞬間、人はまた別の加害者になってしまうことがあります。
『前を見ていなかった』では、現場に
「前を見ろ」
という言葉が残されます。
それは、一見すると正しい言葉です。
でも、その正しい言葉が、人を傷つけるために使われたとき、正義は正義のままでいられるのか。
そこを考えながら書きました。
ネット世論は誰を救うのか
現代では、事件が起きると、すぐにネット上で多くの言葉が飛び交います。
加害者を許すな。
もっと重い罰を与えろ。
顔を出せ。
名前を出せ。
人生を終わらせろ。
そうした言葉は、被害者や遺族に寄り添っているように見えることがあります。
けれど、本当にそれは誰かを救っているのでしょうか。
ネット世論は、ときに法よりも速く、人を裁こうとします。
事実が十分に分からないうちに、誰かの名前を探し、顔を探し、過去を掘り起こします。
怒りは拡散され、正義は消費されていきます。
その中で、被害者は本当に救われるのか。
遺族の悲しみは、少しでも軽くなるのか。
それとも、誰かの怒りの材料にされてしまうのか。
この物語では、報道やネットの反応も重要な要素として描いています。
事件は、当事者だけのものではなくなっていく。
知らない人たちの言葉によって、さらに別の傷が生まれていく。
その怖さも、書きたかったことの一つです。
残された父は何を見るのか
本作の中心にいるのは、幼い息子を失った父です。
父は、事故の日からずっと、同じ場所に立ち続けています。
あの日の横断歩道。
あの日の靴。
あの日の音。
あの日、前を見ていなかった男。
過去の一点に、心が縛られている。
彼は、加害者を許せません。
許せなくて当然です。
けれど物語が進む中で、彼は問われることになります。
自分は何を見ているのか。
加害者だけを見ているのか。
失った息子だけを見ているのか。
それとも、怒りに飲み込まれていく自分自身を見ているのか。
「前を見る」とは、忘れることではありません。
許すことでもありません。
それでも、生きている人間は、どこかで次の一歩を踏み出さなければならない。
その一歩が、どれほど小さくても。
どれほど不完全でも。
この物語で書きたかったこと
『前を見ていなかった』は、単純な犯人探しの物語ではありません。
もちろん、ミステリーとして事件は起こります。
犯人もいます。
真相もあります。
けれど、それ以上に書きたかったのは、事件のあとに残される人たちのことです。
殺意がなかった加害者。
それでも消えない被害。
法では埋められない心の空白。
正義の顔をした復讐。
誰かを裁こうとするネット世論。
そして、残された父が、それでも何を見るのか。
読んでくださる方に、すぐに答えを出してほしいとは思っていません。
ただ、読み終えたあとに少しだけ、
「自分ならどう感じるだろう」
「正しい怒りとは何だろう」
「前を見るとは、どういうことだろう」
と考えてもらえたらうれしいです。
『前を見ていなかった』 Naru
どうぞよろしくお願いいたします。

