写真という表現について考えたこと
写真という表現について、考えたことがあるので、つらつらと書いてみます。
写真を私なりに簡単に定義すると、
写真は一瞬、あるいは一定の時間を、ニ次元に表現したもの。
と定義しています。
かつては、絵画もそうでした。
いまは、別の道を探しているけれど。
先ほどの定義を別の言い方をすると、
写真は情報が限られて、とても削ぎ落とされた表現
とも言えます。
この一瞬を捉えて、かつ削ぎ落とされた表現というのが重要で、なぜかというと、
情報の少なさが、私たちの記憶を自由さを持って呼び起こしてくれるから、です。
記憶はとても曖昧です。
私たちの記憶は、脳内で好きなように改変されつづけ、そして忘れられていきます。
大事なあの瞬間の思い出も、例外ではありません。
脳は、事実を、ありのまま保持しません。
では、写真は私たちに何を与えてくれるのか。
それは、一瞬の事実、そして情報をできるだけ削ぎ落として二次元に現すその表現が、私たちの脳の曖昧な記憶、そして想像力を喚起させてくれるということです。
ここに一枚の写真があります。
わたしの祖父と幼い父が、鉄道橋を背に写っている写真です。
私はこの景色を見たことがありません。
まだ生まれていないからです。
この景色はもう現実にはありません。
この町も人も景色も、すっかり変わりました。
しかし、この写真はさまざまな想像と感情を私に喚起させます。
例えば、
すっかり変わってしまった田舎町のこと。
祖父と祖母、父たちのかつてあった生活のこと。
動画だったら、ここまでの想像は喚起されないないかもしれません。正確でもっと多くの情報を与えてくれるからです。
動画の場合、理解する、と言ったほうが正確なのかもしれません。
情報が溢れ、過多になっていく世界では、この写真という削ぎ落とされた表現が、とても貴重で価値のある表現のように思えます。
それは、私たちの脳を刺激し、しばらく鳴りを潜めていた記憶を喚起してくれる、貴重な表現のひとつだからです。
おしまい。
