心と言葉の日本語文法 入門(27)思考の分析(1)
思考の分析
ここからは、日本語での思考を分析する。日本語での思考を正しく分析することによって、これまで見えていなかった日本語の様々な特性が明確に見えてくる。
また、日本語の思考を正しく分析できる能力は、日本語から英語への翻訳の際の重要な基盤ともなる。
認識、判断・態度、伝達
日本語を「文」は、「認識」「判断・態度」「伝達」という3層の入れ子構造になっている。以下、いくつかの例題をつうじて、その特性をみてみることにしよう。
【例題1】
昨日の試合はペンギンズがベアーズに勝ったようですね。
[解説]この文の構造を「認識」「判断・態度」「伝達」という3層の入れ子構造として分析してみると、次のとおりである。

①「認識」―「昨日の試合でペンギンズがベアーズに勝った」
②「判断・態度」―「昨日の試合は」「ようだ」
③「伝達」―「です」「ね」
学問的には、「認識」を「命題/叙述内容」、「判断・態度」を「対事的モダリティ」、「伝達」を「対人的モダリティ」などと呼ぶのが一般的であるが、それが指し示すものは「認識」「判断・態度」「伝達」と同じことである。
以下、各要素について簡単に説明をしていく。
認識(命題/叙述内容)
この日本語文で「認識」されている内容は、「昨日の試合でペンギンズがベアーズに勝った」ことである。
判断・態度(対事的モダリティ)
「明日の試合は」の「~は」は、「~」の部分をその文のトピック(主題)として扱うという話し手/書き手の「判断・態度」(対事的モダリティ)を表している部分である。
同時に、この「~は」は、「昨日の試合で」の「で」の役割も「兼務」しており、「認識」での役割の一部も担っている。「~は」が「認識」「判断・態度」の両方の役割を担っているというのは、日本語が持っている非常のユニークな特徴のひとつである。
「~ようです」に含まれる要素「~ようだ」は、「認識」(命題/叙述内容)に対する話し手/書き手の「判断・態度」を示している。ここでの「ようだ」は、「昨日の試合でペンギンズがベアーズに勝ったこと」が断定できずに類推しているという話し手/書き手の判断・態度を示すものである。
伝達(対人的モダリティ)
「~ようです」のなかの「~です」の部分は、相手に対する「伝達」の部分である。この「~です」は、相手に対する丁寧な気持ちを伝えるという役割を担っている。
日本語では、人に対する「伝達」の部分までを必ず表現しなければならない。たとえば、「~ようです」のかわりに「~ようだ」にすると、それによって中立的な伝達表現になるのではなく、相手に対する丁寧な気持ちがないという気持ちを伝達する表現になる。
この「伝達」(対人的モダリティ)の不可欠性が日本語という言語の最大の特徴のひとつである。なお英語ではこの伝達(対人的モダリティ)の部分は不可欠な要素ではない。したがって、話し手/書き手の「認識」「判断・態度」を中立的なかたちで表現することが可能である。
最後に付加する「~ね」も、相手に対する「伝達」(対人的モダリティ)の部分である。ここでは、相手に対して確認を求める役割を持っている。この部分は不可欠な要素ではないので、別になくてもかまない。
【例題2】
吾輩は猫である。
[解説]夏目漱石の「吾輩は猫である。」という文で表現されている思考を分析してみる。その結果は、つぎのようになる。
①「認識」:「わたしが猫であること」
②「判断・態度」:「わたしは」「である」
③「伝達」:「吾輩」「である」

ここでの「認識」(命題/叙述内容)は、「わたしが猫である」ことである。
判断・態度(対事的モダリティ)
ここでの「判断・態度」(対事的モダリティ)の第1は、「~は」を用いて「わたし」をトピック(主題)とするという判断・態度である。もし「わたし」ではなく「猫」のほうをトピック(主題)とする判断をおこなっていれば、「吾輩は猫である。」ではなく、「猫は吾輩である。」という表現になっていたはずである。
ここでの「判断・態度」(対事的モダリティ)の第2は、「~である。」によって断定をしている判断である。日本語の「である」には、強い断定の判断・態度が含まれている。例題1での「ようだ」が弱い判断・態度であることとは判断・態度内容は違うものの、それが果たす役割としては同じものである。
伝達(対人的モダリティ)
この文で「伝達」の役割を果たしているのは、「吾輩」「~である」という表現である。
「吾輩」は、聞き手/読み手に対して話し手/書き手の社会的ポジション(ここでは男性、年配、など)を伝達するための表現である。これを、「わたし」「わたくし」「僕」「オレ」「あたい」などにすると、別の社会的ポジションを聞き手/読み手に伝達することになる。
「~である」は、うえの「判断・態度」の項で述べた強い断定の判断・態度とともに、自分が聞き手/読み手に特に丁寧な気持ちも表現しない、ということを相手に対して伝達している。そのため、一般的には中立的ではなく、少し横柄なイメージとなる。ゆえに、話し言葉では用いることがほぼ不可能といってよい。
【例題3】
ちょっと、ないようですねえ。
[解説]このセリフは、次のような状況で話されたものである。
あるとき、中国人の日本語研究者であるポンフェイ氏がお店に入って「××はありませんか?」とたずねたところ、そこの店主が店のなかをひととおり探したあとで、「ちょっと、ないようですねえ。」と答えた。
ポンフェイ氏は、この店主の言葉にとても驚いたそうだ。というのは、店主はポンフェイ氏の目の前で店のなかを探して、それでも品物はなかったのであるから、「ありません」で十分でないのかと思ったのだ。
ところが、実際には「ちょっと、ないようですねえ」という日本語が返ってきたのである。日本語の勉強をはじめたばかりのポンフェイ氏には、この「ちょっと」が何なのか、「ようですねえ」がどういう意味なのかが、まったくわからなかったそうでeu。
この「ちょっと、ないようですねえ。」を分析すると、次のとおりである。
①「認識」:「(品物が)ないこと」
②「判断・態度」:「ない」に含まれる断定
③「伝達」:「ちょっと」「ようです」「ねえ」

ここでの「認識」は、「(品物が)ない」ことである。それだけだ。したがって、中国語や英語のように、文において「認識」「判断・態度」「伝達」の3層を必ずしも表現する必要のない言語であれば、ポンフェイ氏のいうように「ない。」(少し丁寧にするなら「ありません。」)で、言語表現として必要かつ十分である。
実際、同じ場面であれば、英語ならば「No」、中国語ならば「没有」だけを述べて、おしまいにするのが普通であろう。相手への気遣いについては、表情やジェスチャーで伝える(あるいは、それも伝えないのが一般的かもしれない)。
しかし、「認識」「判断・態度」「伝達」の3層を必ず表現しなければならない日本語の世界では、決してそうはいかない。
もしも日本語で店の主人が、この場面で「ない。」などと答えたとしたら、それは伝達機能としてはニュートラルな伝達ではなく、非常に無礼な伝達であることは明らかである。

ていねい体を用いて「ないです。」「ありません。」としても、それではやはり相手への気遣いがまだ足りないと日本語人であれば自然と考える(ここがポンフェイさんに理解できなかったところだ)。
そこでどうするかといえば、私たち日本語人は「ちょっと」「ようですねえ」といった表現をつけるのである。このように、判断・態度を曖昧化することや様々な伝達の表現を加えることによって、私たち日本語人は相手への気遣いを表すのだ。
日本語では、「~のようだ」「~らしい」「~だと思う」「~かも知れない」というような本来ならば「判断・態度」を示す表現を、相手への気遣いを示す「伝達」の表現として使うケースが非常に多い。「そのようです。」「そうらしいです。」「そうだと思います。」「そうかも知れませんね。」などである。
これらの表現は、一見すると英語のit seemsやI thinkやIt mayに対応するように見えるが、多くの場合、そうではない。であるから、日英翻訳の現場では、じつは敢えて訳さないことがもっとも適切な訳出になることが多い。
【例題4】
いつもお世話になります。
[解説]
うえに述べた「認識」「判断・態度」の表現を「伝達」(気遣い)へと転用している日本語人の言語使用の究極の例が、「いつもお世話になります。」「どうぞよろしくお願いします。」といった表現である。これらの表現を分析するとすれば、次のようになる。
①「認識」:なし
②「判断・態度」:なし
③「伝達」:「いつもお世話になります。」「どうぞよろしくお願いします。」
つまり、こうした表現には「認識」「判断・態度」にあたる内容はなく、たんに「伝達」の一形態として相手への気遣い(礼儀)を示しているにすぎないのである。
当然ながら、これにそのまま対応するかたちでの英語や中国語への翻訳は不可能である。
それにしても、会ったこともない人にはじめてメールを送る際でさえ「いつもお世話になっております。」ではじめるというのは、(もちろん会社としてお世話になっているという意味だろうが)いかがなものか。私のようなひねくれ者は、そんなメールが届くと「べつにお世話なんか、してないぞ。」などとついつい思ってしまう。
