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心と言葉の日本語文法 入門(8)「~が」の3つ(和・漢・洋)の基本認識

「~が」

「~は」と「~が」に対して私は長年の思い入れがある。もう40年近く前になるが、卒論のテーマが「日本語の『~は』『~が』と英仏語の主語との関係について」であった。特に「が」については「タロウはハナコが好きだ」「富士山がみえる」「健康が第一だ」といった日本語の「~が」を英仏語にどのように対応させるかを考えると同時に「すこし横道にそれるが、」「やってみたが、」といった「が」についても同じ「が」だとして考察した。それから40年近くたって、考え続けてきたことがようやくそれなりのかたちにまとまった。それがこれから述べることである。

「~は」と「~が」

「~が」を考える際にどうしても行いたくなるのは、「~は」との比較である。音韻も似ていることから、「~は」と「~が」とは、なにか兄弟関係のような気がするものである。また形容詞や形容動詞つまり「美しい」「きれいだ」などの前で単独で使える助詞[1]は「~は」「~が」だけである。「富士山は美しい」「富士山はきれいだ」とはいえても、「富士山に美しい」「富士山できれいだ」とはいえない。なによりも、いまの日本人には学校の英語の授業を通じて英語のセンテンスの主語に「~は」「~が」を対応させるという刷り込みがなされているので、その点から「~は」と「~が」を同種のものとして考えてしまう。一種のマインドコントロールである。

だが実際には「~は」と「~が」とは、本質的に異なるものである。「~は」と「~が」が「主語」に対応するから兄弟関係であるといった感覚は、英文法からの借り物である学校国文法によって明治以降に培われたものであり、現代日本語の3つの基本形のうちのひとつとして機能するものの、日本語の本質ではない。では、「~は」と「~が」の本質はどのように違うのだろうか。

これも、「人・共同の視点」(和)「天・共同の視点」(漢)「天・個の視点」(洋)という3つの観点から考察してみることにしよう。

「洋」(天/個の視点)による「~が」――「主語」を示す

明治以降に日本語の世界には「天・個の視点」(洋)が導入された。その導入のツールである学校国文法では、西欧の世界観での「主語」を表現するものとして「~が」を対応させた。

学校国文法では、日本語の文は「主語と述語から構成される」と規定しており、その主語に当たる部分が「~が」または「~」で表現されるとしている。とすれば、「~が」は日本語文にとって特別な意味を持つ重要な成分ということになる。もちろん、これは西欧文法からの単なる受け売りであって日本語の実態には合っていないのだが、学校で公式にそう教えるのであるから善良なる日本国民はそれが正しいと思わざるを得ない。

さらには中学高校の英語授業で「主語には“~が”をつける」という刷り込みが日本人全員になされているため、「~が」が主語を表すものだとの認識は日本人のなかに強く浸透した。

たとえば、「マイケルが日本語を勉強する。」を「天・個の視点」(洋)から図示すると、以下のとおりである。

個と個の関係からみると「マイケル」が動作主であり「日本語」が被動作主ということになる。

ただ、このように「~が」を西欧の主語の概念の対応表現と考えてしまうと「タロウはハナコが好きだ。」「ここからは富士山がみえる。」「骨董収集にはカネがかかる。」といった日本語での「~が」の意味が説明できない。そこで学校国文法では「『~が』には他動詞や自動詞の主語を表す用法のほかに自分の感情・感覚の対象を表す用法もある。」といった苦し紛れの説明をしている。このような苦し紛れの「用法」をいくら重ねてみても、日本語の本質に迫ることはできない。

重要なことは、日本語という言語が和漢洋の3つの世界観に対応するためにハイブリッド化してしまった言語だということを前提に分析を行うことである。そうすることでしか「~は」や「~が」の本当の姿を捉えることができず、それができないかぎり日本語と英語のあいだを自由に行き来することはできない。

「英文和訳体」が持つ意味

「~は」「~が」が英語の主語と同じという前提のもとに書かれた日本語を「英文和訳体」と呼ぶことにする。「~は」で取り上げた井伏鱒二の『山椒魚』の文はそうした英文和訳体文の一例であるが、ここでは文学ではなく学問領域からの文章を取り上げてみる。

☆☆☆

マルクスが、マルクス自身の貨幣形態Dにおいては主体と客体とを「とりちがえ」る「間違った外観」が「固定」されてしまっていると主張したとき、そこでは商品世界の本来の主役はあくまでも貨幣以外の商品であり、貨幣とはこれらの主体全員によって客体としての位置を受動的に演じさせられているにすぎないということが、とうぜんのこととして前提されていた。(『貨幣論』、岩井克人、ちくま学芸文庫、p.62)

☆☆☆

この『貨幣論』の文章は非常に優れた英文和訳体の文章のひとつであるが、その最も優れた内容の日本語文によって展開されている思考が「天・個の視点」(洋)を基盤とするものであり、それを表現している文体が「英文和訳体」であることは、私たちに対してある重要な事実を示唆している。

すなわち、私たち現代日本人が近現代的な学問を行う際には「天・個の視点」(洋)による思考とその表出形態である「英文和訳体」文を用いることが適しており、実際、そうした文体を用いて学問的に優れた業績が多くつくられているという事実である。

「~は」の解説で、現代日本人はすでに頭のなかの半分が西欧化していると述べたが、こと学問の世界に限っていえば、現代の日本人の頭のなかは半分どころから8割、9割がすでに西欧化されている。少なくとも学問分野においては、現代日本語人は、もはや英文和訳体なしでは適切に思考し表現することができなくなっているのである。こうした観点からみて英文和訳体が現代日本語に占めている役割について私はプラスとして評価している。

だがその一方で、一部の日本語人のなかに根づいている、英文和訳体こそが優れた文体であってその他の日本語文体がそれに比べると劣った文体であるとの誤った認識からは抜け出さなければならない。明治維新から百数十年を経た現在でもなお、日本人の知性は英文和訳体に代表される西欧的世界観に支配されているといってよいのであるが、そうした精神の隷属状態を脱して英文和訳体を本当の意味で私たちがうまく使いこなせるようになったとき、日本語ははじめて次の発展の段階を迎えることができる。

「漢」(天・共同の視点)からみた「~が」――「主格補語」を示す

「天・共同の視点」(漢)からみた「~が」は、日本語文法でいうところの「主格補語」を表す。それは英語の「主語」と同様に動作等の主体を表す機能を持つが、日本語の場合には英語とは異なり、文のなかで特別な位置を占めているわけではなく、「~を」や「~に」などと同列の立場にある。そのため「主語」ではなく「主格補語」と呼ばれる。たとえば「マイケルが英語を勉強する。」という文を図示すると、次のとおりである。

ところで「天・個の視点」(洋)からみた「マイケルが英語を勉強する。」という文を図示は、次のようなものであった。

ここからは2つの「~が」の認識の違いがよくわかるが、しかしどちらにおいてもその視線については「天」から地上を見下ろしてのものであることには変わりはなく、次に説明する「人・共同の視点」(和)からみた「~が」の話し手/書き手自身から見た視点とは根本的に異なることに注意が必要である。

「和」(人・共同の視点)からみた「~が」――「視線の行き所」を示す

「人・共同の視点」(和)からみた「~が」の基本の働きは、「視線の行き所」(焦点)を示すというものである。「~が」を用いることで、「~は」によって設定された「場」のなかにある何かに視線がいってそこにスポットライトが当たり、それが「場」の中心であることを示すのである。

たとえば、「マイケルが英語を勉強する。」という文を「人・共同の視点」(和)から図示すると、次のとおりである。

その他の例も挙げておく。たとえば、「タロウはハナコが好きだ。」「ここからは富士山が見える。」「骨董収集にはカネがかかる。」では、それぞれ「ハナコ」「富士山」「カネ」にスポットライトが当たっている。図にすると。以下のように表現できるだろう。比喩的にみれば、うす暗く設定された舞台(場)のなかで「~が」に対して視線がいってスポットライトがあたっている状態である。

「骨董収集にはカネがかかる」では、話し手/書きの視線の行き所は「カネ」である。聞き手/読み手は話し手/書き手の横に立って、同じように自分の視線を「カネ」に向けている。

同様の認識が「30年以上も前になりますが」「すこし横道にそれるが」「やってみたが」といった「が」にも当てはまる。「が」は、それまでの叙述内容(「30年以上も前になります」「すこし横道にそれる」「やってみた」)にいちど視線を集めておいてから、その内容をその後の内容へと続ける。この働きは、渡辺実の文法論でいえば「再展叙」という機能にあたるものである。


[1] 「こそ」「さえ」といったものは除く。

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