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心と言葉の日本語文法 入門(7)「~は」の3つ(和・漢・洋)の基本認識

「和・漢・洋」の「洋」(天/個の視点)」からみた「~は」――「主語」を決める

「天・個の視点」(洋)での「~は」は、翻訳文体における「主語」を示すものである。

視点は、天上にいる話し手/書き手から下に向かっている。聞き手/読み手は、話し手/書き手とは異なる別の場所で、天上から下に向けて地上の世界をみている。「~は」は、その地上の世界のなかのある特定のものごとを指し示す。これを「主体」(Subject)と呼ぶ。

この「~は」が示すものは、「主語」であり「主体」である(英語ではどちらもSubjectと表現する)。このSubjectが、「目的語」「客体」(Object)とのあいだになんらかの関係性を持つ。

もちろん、これは西欧の世界観なのであるが、それをそのまま日本語の世界に持ち込んだのが、この「天・個の視点」(洋)での「~は」である。下に、もういちど「天・個の視点」(洋)による文の基本構造を示しておく。

近代日本人の頭の中は半分西欧思考

近代日本文明は、西欧の世界観を取り込むために懸命の努力を重ねてきた。そのために必要な試みのひとつであったのが、日本語の改革だった。

日本語の西欧化は、法律や行政の領域だけでなく、日本人のあらゆる知的活動に及んだ。文学の世界でも、1929(昭和4)年に井伏鱒二が『山椒魚』を以下のような文体で書いている。

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山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋の外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることはできなかったのである。今はもはや、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入り口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入り口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそなったが、彼を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
「なんたる失策であることか!」
(『山椒魚』、井伏鱒二)

☆☆☆

私はこの文章を高校生のときに国語の教科書で読んだ記憶があるが、なんとおかしな文体だろうと感じたのを覚えている。

このような翻訳文体が用いられているのは、もちろん国語の教科書だけではない。たとえば数学や物理の教科書の文章は、その大半が翻訳文体といってよい。私たちが学校で勉強するというのは、じつは西欧的発想を身につけることにほぼ等しいのであり、それはまた翻訳文体としての新しい日本語の使い方を学ぶことにも等しいのである。

こうしていまの日本人は、翻訳文体を用いて西欧的思考を日本語によっておこなっている。そしてこの世界を主体・客体の対立構造として捉えることに違和感を持たなくなり、そこから生み出された思考を「~は」「~が」を「主語」として日本語で表現しているのである。

この意味で、近代日本人はすでに頭のなかの半分が西欧化しているといってよいだろう。そしてその半分西欧化した日本人の思考を表現するには日本語にも「主語」がなければならず、その西欧的発想における「主語(主体)」を示すマーカーのひとつが「~は」であると考えることができるわけである。

「漢」(天/共同の視点)による「~は」――「トピック」を決める

人間の視点は物理的には自分から離れることはできないが、心のなかでは自分の視点を自分の心から切り離して、いわば「客観的」にこの世界を捉えることができる。

このようにして視点を天上においたもののひとつが「天・共同の視点」(漢)である。和漢洋という言い方からすれば、これは「漢」の部分にあたる視点であり、奈良平安の昔から漢文を通じて日本人の知性のなかに醸成されてきた視点である。

「天・共同の視点」(漢)では、話し手/書き手の視点は天上から下の世界へと向かっていく。聞き手/読み手は、その横にいて話し手/書き手と同じ方向をみている。

ここでの「~は」は、話者/筆者(話し手/書き手)と聴者/読者(聞き手/読み手)が一緒に注意を向けている「物事の全体」を示すものである。「洋」の認識のように「個」を示すものではない。これを「トピック」と呼ぶことにする。

下にもういちど「天・共同の視点」(漢)による文の基本構造図を挙げておく。

「天・共同の視点」(漢)は話し手/書き手の心からは離れているので、話し手/書き手の心の動きを生々しく表現することはない。

「天・共同の視点」(漢)での「~は」の文例をいくつか挙げておく。

鼻が長い。

木曽路すべて山の中である。

今期の売上予想を上回った。

C. 「和」(人・共同の視点)による「~は」――共同でみる「場」を決める

「人・共同の視点」(和)とは、話し手/書き手が自分の見たまま感じたままの世界を表現するものであり、聞き手/読み手はその横にあって同じ世界を共有する。その「人・共同の視点」(和)から考える「~は」とは、話し手/書き手が何かの事態を表現する際の「場」を設定したいと考えたときに用いる言語表現である。「人・共同の視点」(和)による文の基本構造をもういちど下に挙げておく。

「人・共同の視点」(和)からの文の基本構造図では、視点は話し手/書き手の目から正面に向かっている。聞き手/読み手の視点はその横にいて同じ方向をみている。

ここでの「~は」とは、二人が寄り添いあいながら見ている、その「場」を設定するものである。たとえば「明日は日曜日です。」という文が意味するのは、話し手がまず「明日」という「場」を設定し、その場で述べる内容が「日曜日」だということである。

こうした「~は」の用例としては、たとえば次のようなものが挙げられる。

明日カレーだ。

チョコレート太る。

この負け痛い。

実際には、私たちの普段の生活で交わしている日本語のほとんどの文が、この「人・共同の視点」(和)からの文の基本構造によって組み立てられている

私たち日本人は、まず心に浮かんだ「場」を述べ(「明日は」「チョコレートは」「この負けは」)、続いて、それについて心に思う浮かんだ心象を言葉にする(「カレーだ」「太る」「痛い」)。そこには主語/述語などといった意識はなく、またトピック/コメントといった意識も薄いはずである。

このことは日本語人であれば自分の心を素直にのぞいてみれば誰にでも分かることなのであるが、これまでの日本語研究ではこうした当たり前のことに目を向けずに、西欧からやってきた言語理論をもとに日本語の構造を解釈してきた。わざわざ西欧メガネをかけて歪んだ日本語像をみてきたのである。


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