不登校の「解決」にはまず社会の認識を変えること。
こんばんわ、ナツキのパパです。
まずはじめに、不登校にちなんだ問題のことを、まるっとひとまとめにしてボク自身「不登校問題」と呼んだり使ったりするのですが、誤解しないで欲しいのは「不登校に絡む諸問題」というざっくりとした事柄の総称であって、決して「不登校の児童・生徒に問題がある」という意味や示唆ではない、ということです。
ボクにとっての不登校問題というのは、不登校の子ども自身に起因するパーソナルな特性のことではなくて、不登校の子どもが増えているという事実を踏まえた上での現在の公教育のあり方であり、不登校の子どもが不利益を被るような社会の制度や仕組みのことです。
学校に通うことが苦痛だったり、合わないという子ども達がこれだけ増え続けていて、その子ども達や保護者達が、悩み、苦しみ、涙を流して向き合って、自身や我が子の生命や尊厳を守るために様々な試行錯誤と紆余曲折とを経て、不登校という道を選択している。
そんな中で、未だに「不登校」という選択肢を「恥ずかしいモノ」や「社会不適合者の烙印」のように思っている人がいたり、不登校を選ぶ子どもを「何らかの欠陥がある子ども」と考えたり、不登校の子どもがいる家庭や保護者に対して「躾がなっていないから」とか「甘やかしすぎてるだけ」といったように見ている人がいるのが現実ですよね。
この、不登校に対する世間の認識の低さ、悲しみと憤りとを覚えるこの事実こそが、何よりの社会問題だと思っている訳です。
また、不登校に対する世間の認識の低さは、不登校の当事者である子どもや保護者を苦しめる最大の原因でもある、と考えています。
なぜなら、子どもが不登校になる理由は様々ですが、学校が合わない、通えない、通いたくないといった子どもがこれだけ増えている現実を踏まえれば、「問題は子ども側ではなく学校側(公教育のあり方)にある」と考えることは至って自然な流れだと思うし、「時代に合っていない」といっても過言じゃない、というか自明の理にも思えます。
そして、何より腑に落ちないのは、不登校の子どもや保護者を取り巻く、社会の対応です。
もちろん、文科省は何も問題視していない訳ではないですし、動いてない訳でもありません。
実際に不登校に関する新指針の発表だったり法改正だったり、色々な取り組みを始めたりしているし、不登校の子どもや保護者に向けた自治体のサポートや民間のサービスも増えたりしています。
ただ、文科省の発表した方針に対して末端機関である学校側の仕組みや実践の部分にまでは届いていなかったり、自治体によって大きな違いがあったりするのも事実ですし、個人的に何より気になるのは、社会とサービスとの接合点というか、根本的な姿勢やスタンスに繋がる「入り口」の部分です。
※誤解のないように先に補足しておきますが、不登校の子どもと直接接する事になる学校機関の教員や関連施設のスタッフの皆様など、個々人の姿勢についての非難や批判の意図は全くありません。
現場で子どもと向き合っている皆様の努力や真剣な想いには本当に敬意を表しますし、感謝の念に耐えない程に真摯な姿勢や親身な対応をしていただく方も沢山いらっしゃいます。
入り口の部分とはどういうことか、具体的に例を挙げるなら、例えば何らかの理由があって学校に通えていない子ども達をサポートする機関の1つに、「適応指導教室」といったものがあります。
例えばこの「適応指導教室」ですが、ボクがその存在を初めて知ったのは我が子が不登校になってからですが、初めて知ったときボクの胸に去来したモノは、社会的な劣等感のような何とも言えないモヤモヤとしたモノでした。
なぜなら、そのネーミングです。
唐突に訪れた我が子の不登校に困惑しながら、何とか「解決」の為の情報を探して、何かに追われるような、縋るような、色々な感情が複雑に混じり合ってまだ整理できていない中で、色々と検索してたどり着いた機関の名前は、「適応」する為の「指導」を行う教室だというのです。
我が子は、何かに『適応できていない(他の子より劣っている)子ども』なの?
我が子は、何らかの『(他の子は受けなくても良いような)指導が必要な子ども』なの?
うちの子がわるいの?
私の育て方に問題があったの?
※もちろん、あくまでもネーミングから受けた印象の話であって、実際にスタッフの方から他の子より劣っていると見下されたとか、そういう話ではありません。
でも、社会側の問題だと思う理由の本質的な部分って、そういうところだと思うんですよね。
結局のところ、ボクが挙げた社会側の問題という話の本質的な部分は、このネーミングにも言えるように、不登校や発達障害といったモノの当事者に対する社会からの位置付けというか、向き合う際の前提となる部分、入り口の部分。
すなわち、多様性への理解しようとする姿勢であり、寄り添おうとする姿勢であり、それらの示し方のところがネーミングにも看てとれるような気がします。
例えば、人が集まるところが、勉強の進め方が、皆と同じようにあれとする空気が、学校という場所にある何かが、個人の生まれ持った特性的に合わない、といった考え方。
例えば、動物によって生活の空間が異なるように、呼吸の方法が異なるように、甘えや躾の問題ではなく、個人の生まれ持った特性によって合わないことがある、といった考え方。
そういった事に対して、そんな事もあるんだねと受け入れる為の、姿勢はもちろん、その姿勢の表明の仕方も大事だよねって話ですね。
例えば国営機関や公共機関のネーミングというのは、『我々は国として、自治体として、社会として、こう向き合うぞ!』という決意表明のようなモノでもあると思うんです。
理念や方針として、どんどん変えようと言っていたり、実際に変わろうとしていたり、変わってきている部分も沢山あって、もちろん頑張っているスタッフも沢山いると思うけど、社会全体で理解を広げ、皆で向き合うには、まず社会としての姿勢を大々的に謳うこと、方向性を示すこと、つまりは強烈な決意表明が大事なんじゃないの?って思います。
それと、タイトルで「解決」という言葉を使ってますが、これも敢えて使いました。
「不登校」ってそもそも、
「解決」するとかそういった問題の話か?
こんな風に引っ掛かる人もいると思うし、それも本題の1つでした。
不登校というのは、あくまでも当事者にとっての1つの選択肢に過ぎないと思っているし、不登校問題というのは、不登校を選ぶ子ども個人に帰する話ではなくて、不登校を選ぶ子どもに対する世間からの不適切な偏見や、不登校を選んだ子どもがその後に不利益を被るような社会のあり方の事が問題なんだと考えています。
だから、不登校という選択そのものは解決すべき問題じゃないと思うし、解決という言葉の対象は時代に合わない社会の仕組みであり歪みだよという意図で使いました。
「不登校の子どもをどうするか」ではなく、
「不登校が増え続ける公教育のあり方はこのままで良いのか」を考え、時代に合わせて認識を改めて、改善の余地や方向性を探り、他人事ではない社会全体課題として取り組むこと。
それが不登校の解決ということかなと思います。
なんだか思ったよりも長くなってしまったけれど、不登校は、現状だと不利になる事があるのも事実だと思っています。
だけど、それは社会のあり方が多様性に対応していないという未熟さゆえのモノだし、不利にならないような社会に成熟してゆくことが大事なのだと思うし、だからこそ、不登校そのものが悪いことや恥ずかしい事だとは思わないし、不登校を選んだ子どもがそうでない子どもと比べて何かが劣るとか、情けないとかそういったネガティブなイメージで見られる(みなされる)のは断固として払拭していかなければならないことだとも思うので、一人でも、その認識が変わればと思って書きました。
※よろしければ、こちらにも書いているので、ご興味がある方は読んで頂けたら嬉しいです。
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過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。