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私はエリートから転落した。たぶんもう戻れない。それでも私は前を向く

「ドイツに行くことが、決まったよ」

会社から帰宅した夫に、そう言われた。

何月何日だったのかはもう忘れてしまったけれど、その時の光景は、今でもはっきりと思い出せる。

私は、戸惑っていた。

そして、私が喜ぶに違いないと思っていた夫も、戸惑っていた。

ドイツへ引っ越すことは、ドイツ人である夫ではなく、私の希望だった。

自分が望んでいたことなのに、いざそれが現実になると、私は急に、怖くなったのだ。

それは、自分が何者でもなくなることに対する、ある種の恐怖だった。

日本にいる限り、私はおそらく職にあぶれることはない。
超難関国立大学の出身。TOEICは990点。自分の専門分野に関連する、とある国際資格も持っている。

ハイクラス人材向けの求人サイトに登録すれば、何件もスカウトの連絡がくる。人当たりも悪くないので、中途採用面接で大きくしくじることもない。

過去に一度転職したことがあるが、その時に受けたのは2社だけ。あっさりと転職先が決まった。

でも、ドイツでは…?
若くもなく、ドイツ語もろくに話せない、東アジア系の移民。

いくら日本で有名大学を卒業していても、ドイツでは関係ない。
ハーバード大学やオックスフォード大学、ケンブリッジ大学だったら違ったかもしれないけれど、日本の大学とその偏差値なんて、ドイツではほとんど誰も知らない。

いくら日本で仕事ができたとしても、関係ない。そもそも、同じ仕事をドイツ語でこなすだけの、語学力がないのだから。

ドイツに引っ越すことで、私はエリートから転落する。そして、ゼロどころかマイナスから、やり直すことになるのだ。

でも、東京での生活が限界に近づいていたのも、また事実だった。

時はコロナ禍。保育園では、大人も子どももマスクをしていた。
子どもは、大人の口の動きを見て言葉を学ぶ。
それなのにどうして、皆が疑問を持たずにマスクをつけ続けるのか…私には理解できなかった。

私は、自分が子どもだった頃のことを、他の人に比べるとあまり覚えていない。
でも、プールの水温が低くて夏休みのプール開放が何回か中止になったことは、ぼんやりと覚えている。

しかし最近、東京の夏は暑すぎて、子どもたちは日中ほとんど外で遊べない。駅まで歩いていくのも一苦労。
でも、50平米ちょっとの空間で、熱中症にならない程度に気温が下がる夕方まで過ごすのも、これまた地獄。

そして、私にとって東京は自然が少なく、人が多すぎる。
公園や人工の川といった自然もどきの他は、無機質なマンション群に高層ビル。
もうすっかり慣れてしまったけれど、初めて東京に来た時は、ビルを見上げすぎて首が痛くなった。

私は持病の影響もあって、人混みが苦手だ。通勤時に満員電車で体調を崩したことは、数知れず。
ある日、駅でうずくまっていたら1人だけ声をかけてくれたおじさんがいたけれど、その時以外は誰も助けてくれなかった。

東京は日本の最先端がそろう、きらびやかな都市。買いたいものがあれば、大体なんでも手に入る。
でも、東京の街を行き交う人々は、何かに追われたように皆、自分の目的地に向かって足早に歩く。
周りの誰かに少しの笑顔や気遣いを向けることも、難しいくらいに。

決まったからには、後戻りはできない。

戸惑っていても、何も変わらない。私は現実に向き合うしかなかった。引越しまでの猶予は、数ヶ月しかなかったからだ。

我が家には1つだけ、厳格な役割分担が定められた分野がある。
役所・銀行・クレジットカード会社など、様々な相手と発生する事務手続きである。

日本の事務手続きは私、ドイツの事務手続きは夫と、一切の例外なしに決まっている。

手続き関係の説明は、分かりにくく書いてあることも多い。にも関わらず、ミスがあると手続きが止まってしまう。
ネイティブの方が早く、確実に手続きを進められるというわけだ。

夫がドイツで暮らす家探しやその他の手続きをする間、私は日本から引っ越す際の手続き、家具家電の処分、銀行や役所とのやり取りなど、膨大な作業をただこなした。

嵐のような日々が過ぎ去ってドイツのとある都市の空港に降り立ったとき、私は心の中でつぶやいた。

「これで、全部やり直しだ」



生活の基盤を整えることは、一筋縄ではいかなかった。

航空便が届くまでは数週間、船便が届くまでは2〜3ヶ月かかる。
異国の地で生きながら、何もないガランとした部屋を少しずつ整える日々が始まった。

最初は、スーパーに買い物にいくことさえ恐怖だった。
カートが大きすぎて、子どもをカートに座らせようと思っても届かない。
レジで自分の順番になると、身体が固まった。「レシートは要りますか?」その一言さえ、聞き逃すこともあった。

家具を揃えるのにも時間がかかった。ダイニングテーブルとダイニングチェア、ベッドは在庫がなく、届くまで3ヵ月かかった。
家具が何となくそろって自宅が落ち着いた空間になったのは、引っ越してから1年経った頃だった。

滞在許可を発行する役所は、夫が何度電話をかけてもつながらない。
やっと電話がつながったと思えば、担当者が病欠で1ヶ月休み。
滞在許可の切り替え申請ができたのは、当時持っていた滞在許可の有効期限が切れる2日前だった。

そして私は、道を覚えるのが苦手。
自分の住む街の中心部を迷わず歩けるようになるまでに、1年半もかかった。



マイナスからスタートした私のドイツ生活は、日々の課題に向き合う中で、知らないうちに前進した。でも、私はまだ、一人前には程遠い。

ドイツ語を勉強しているけれど、10代や20代の時のようにすぐに身につくわけではない。
標準語なら言われていることが大体分かるけれど、方言になると理解度がたちまち落ちる。

幼稚園の先生との面談は1人でそつなくこなせるけれど、ドイツ人のお母さんたちと話すのは、勇気が出ない。

薬局で欲しい薬を伝えることはできるけれど、病院を受診するのはハードルが高い。(そして、急患で電話してもなぜか平然と1週間後の日程を提示されるのだ。急患の意味とは…)

だから、カンピロバクターにやられた時も、インフルエンザで39℃の熱が続いた時も、薬局の薬で耐えた。

私はいま、考える。

転落すると分かっていたのに、それでもなぜ、ドイツに引っ越したいと願ったのだろうと。

それは、子どもたちの存在だ。

私の生活はたぶん、側から見ると大変だと思う。
幼稚園の他の家庭は、掃除婦やシッター、近くに住む祖父母の手を借りている。

でも私には、何もない。家事育児を手伝ってくれる人を雇っていないし、親戚はみな遠方。
夫は毎月出張で家を空けるので、その間は私が1人で全てを担わなければならない。

そして私の肩には、「子どもたちの日本語力の維持向上」という、それだけで一生分悩めそうなぐらいの重荷が常にのしかかる。

でも、子どもたちの背中を見ていると、「やっぱり、ドイツに来たのが正解だった」と思うのだ。

もちろん不便なことも多い。
でもこの場所は、私が「あったら良いな」と思っていたものであふれている。

鳥のさえずりと風の音をBGMにして静かに本を読める森、夜空に広がる満天の星、小さな子どもが歩いてくるのを見ると目を細めるような温かい人々…

そして、森という広大な庭は、いつでも子どもたちを待っている。

子どもたちは春には野いちごを摘み、夏にはブラックベリーを摘み、小川に入る。秋には栗を拾い、冬は静かに眠る植物たちを眺める。

ドイツの冬は長く厳しい。池や川だけでなく、クモの巣まで凍ることもある。毎年何度かは大雪になる。
でもそれらは、子どもたちにとっては天国なのだ。

池の氷を割ってカチコチの水面に投げると、「キュルンキュルン」と音を立てながら氷が跳ねていく。

雪が積もったら、納得いくまで雪だるま作り。
子どもたちは、期間限定の雪だるま職人に変身する。

イノシシが地面を掘った跡や、モグラの巣穴がある場所、触ってはいけない植物やキノコについて私に教えてくれたのも、子どもだ。

子どもたちはおそらく、私よりも数十年先の未来まで生きる。

突き詰めると私は、自分が欲しくても得られなかったものを、未来を生きる子どもたちに得てほしかったのだ。
たとえその選択が、私に困難を与えるものだったとしても。

「親は、子どものためなら何だってできる」

極貧移民家庭の親が必死に働き、子どもに教育を受けさせ、やがてその子どもが有名大学に進学するような、アメリカのサクセスストーリーでよく聞くこの言葉。

私は知らないうちに、その世界に片足を突っ込んだのかもしれない。

いい大人の無駄なプライドほど、何かをするときの足枷になるものはない。

「言ってもどうせ分からない」

そう思われているのか、話しかけてもらえないこともある。

確かにその場にいるのだけれど自分だけが透明人間になっているかのような、不思議な感覚。

その感覚をちょっと楽しめるようになった私は、足枷を1つ外せたのだろうか。

私の人生の中で、こんなに周りから期待されなかったことは、たぶん初めだ。

そして、期待されないのは、気楽だ。

でも、気楽なままでいたら同じ場所で足踏みしたまま時間だけが過ぎてしまいそうだから、「せめて義務教育修了者と同じレベルにはなりたい」と、私は今日も前を向く。

きっと私が死ぬ前に懐かしく思い出すのは、東京でエリートとしてかがやいていたあの時ではなく、ドイツの片隅で誰からも見向きもされずに、ひっそりと暮らしていた日々なのだろう。



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