「青い月に記憶は眠る」 第1話
あらすじ
会社員の茜音は青い満月の夜に記憶を失ってから、不吉な事件に次々と襲われる。同僚の溺死に始まって、仲の良い後輩が仄めかす凄惨な殺人未遂、そして茜音を中傷する怪文書。全てに共通するのは、小学生の時に田舎の海で事故死したミチルという女の子の霊。ミチルは15年経った今になって突然現れ、周囲の人間に次々と憑依してその身体を乗っ取り、茜音を苦しめる。ミチルの目的は何か。茜音は、彼氏である葉月の助けを得ながらミチルの謎を追うが、そこには驚くべき悪夢のような真実が隠されていた。
1
茜音は冬が嫌いだった。
12月は寒い、1月はとても寒い。そして2月は寒さを通り越して痛い。
8月生まれの夏女のせいなのか夏はどんなに暑くても平気だが、毎年冬の寒さはどうしても耐えられない。
1月最後のその日は早朝から東京ではこの冬初めての大雪が降り、河西茜音はうんざりしながら会社へと向かうバスの車窓からすっかり白銀の世界へと変貌した街の風景を眺めていた。
雪は蕩々と降り注いでいる。天気予報によると雪は夜更けまで収まらず、都内でも10cm程度は積もる予想らしい。念のため厚底のシューズを履いてきたが、それで持つのか不安になる。
今夜は会社の送別会があることも、茜音の心を憂鬱にさせた。同じ部署だが、殆ど話したこともない年の離れた中年の男性社員の送別会。数ヶ月前に異動してきたばかりだが、自ら誰とも馴染もうとせず、また仕事に打ち込む気配すらなく、結局今月末で退職すると言う。
実際、裏原というその平社員について茜音は何も知らなかった。広告代理店営業部の仕事は多忙を極め、またもともと会社自体が体育会系の所謂ブラック体質なこともあり、ごく親しい同僚以外とはほぼ話す機会がない。印象の薄い裏原のその顔さえ、曖昧と言える。それでも、送別会には出席しなければならない。それが会社のルールというもの。
混雑した車内は、冷たい湿気で満ち溢れていた。乗客が吐く白い息が窓を曇らせ、傘から滴り落ちる水が床を濡らし、身に纏わり付いたじっとりとした水の感覚が更に気分を不快にさせる。
かなり遅延してバスが吉祥寺の駅前に到着すると、乗客たちは息苦しさから逃れるように車外へと吐き出されていった。
電車も遅れているせいで長い行列ができている、人びとの無言のため息に満ちた北口駅前を背に、茜音は傘をさすと信号を渡り、ぬかるんだ大通りの歩道を滑らないよう慎重に歩いて行く。吉祥寺駅から歩いて10分ほどのところに茜音が勤める株式会社ソナック西東京支店が入ったオフィスビルがある。
普段なら住んでいるアパートから会社までバスを使って30分ほどだが、今日は大雪のせいで家を出てから優に1時間を過ぎている。朝からすっかり疲れ果てていた。
大型家電店や飲食店が入ったビルが建ち並ぶ見慣れた大通りは、すっかり白く染まっていて、降り落ちる大粒の雪で目の前の視界ですら霞んでいた。その光景を見ていると、どこか遠い場所にでも来たような不思議な感覚に囚われる。
「河西さん」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、白く染まったこの世界にぽつんと立ち尽くす猫背の男の姿があった。激しい雪のなか傘もささずにびしょ濡れで、その額には薄くなった髪の毛がぴったりと張り付いている。目が小さくて顔は平べったく、まるで能面のよう。それは裏原だった。酷い有様にも関わらず、どこか口元に薄ら笑いを浮かべているような気すら感じる。
「裏原さん、おはようございます。傘、持ってないんですか?」
「私は雪国出身なんでね。地元じゃこの程度の雪なんて誰も傘なんか差さないですよ」
「そんな、いくらなんでも風邪ひきますから」
茜音は裏原に近寄ると、その頭の上に傘を差し出した。小さい傘なのでふたり入ると自分も濡れてしまうが、この際仕方がない。会社に向かってふたり並んで歩き始めた。だが、裏原は感謝の言葉を口にすることもなく沈黙に包まれる。黙っているのも憚れたので、仕方なく話しかけた。
「今日で、会社お辞めになるんですよね。転職されるのですか?」
「いえ、もう働くのはやめました」
「それは、どうしてでしょう?」
「やりたいことがあるんです。私ももう46歳なので、今のうちかと思いまして」
46歳だったのか。25歳の茜音とは親子ほども離れている。そう言われれば年相応にも見えるし、それより若くも老いても見えた。それだけ裏原の印象そのものが曖昧だった。顔を見てもすぐに忘れてしまいそうなほど、すべてにおいて特徴というものが見受けられないことに今更ながら気がつく。
「はあ。やりたいことですか」
なんとなく答えた茜音の言葉に、裏原はふと押し黙る。その顔は、むっとした表情に変わっていた。興味なさげに聞こえたのだろうか。実際その通りではあったが気まずくなって、茜音はあわててごまかした。
「そ、そうですよね。どうせ人生は一度きりなんだから、やりたいことをするのが一番ですよね!」
フォローしたしたつもりだったが、裏原はどんよりとした個性のない小さな目を茜音に向けたままだ。そうして徐にこう口にした。
「ところで。前からひとつ気になっていたのですが」
「なんでしょうか?」
「河西さんて、小さい頃のあだ名は、ミチル、でしたっけ。名前は茜音なのにミチルって変ですよねえ」
思わず、息を呑む。立ち止まって裏原の顔を見つめた。裏原はその平坦な顔からすっかり表情を消したままだ。
「ど、どうして、それを……」
途端にからだが凍り付いたのは寒さのせいではない。恐ろしい感情がたちまち心を覆い尽くしていた。親しくもない裏原が、なぜ知っているのか。
確かに小学生の頃、一時期茜音はミチルと呼ばれていた。そのことを知っているのは当時住んでいた地方のごく限られた人たちだけだろう。もちろん、東京に上京してからは誰かに話したり、SNSで公開したこともない。もとより、それは思い出したくもない忌まわしい記憶だった。
「さあ、どうしてでしょうね」
呆然として裏原の顔を見つめる茜音を無視して、ひとり裏原は雪のなかを歩き始めた。
ふと振り返り、いかにも憂慮を取り繕ったような顔つきでこう言う。
「こんなとこに突っ立ってたら風邪引きますよ」
◇
茜音は見知らぬベッドで目が覚めた。
はっとして飛び起き、辺りを見渡す。そこはごく普通のホテルの一室のようだった。自分がハダカなのに気づき、反射的に慌てて毛布を胸に当てる。バスルームから水の流れる音が聞こえた。誰かがシャワーを浴びていることに気づき、身を固くする。状況から判断すると、どうやらこれは良くないことに違いない。
茜音には大学時代から付き合っている葉月という彼氏がいる。だが、バスルームにいるのは葉月ではないだろう。近くに住んでいて、どちらかの家に泊まればいいからホテルなんて普段は全く使わない。
枕元にスマートフォンがあるのに気づき、手に取った。時間を見ると早朝の6時前だ。
磨りガラスごしに差し込む陽の光はまだ弱く、部屋は薄暗い。さほど寒さを感じないのは空調のおかげだろう。
頭がずきずきと酷く痛む。まるで耳元でシンバルを叩かれているようだ。飲んだ翌日にこんな経験は初めてのこと。これが二日酔いというものなのだろうか。
床には茜音の服や下着が投げ捨てたように散乱していた。どうしてこんな場所に誰かといるのか、さっぱりわからない。ベッドから飛び起きると、急いで下着を身につけながら昨日の記憶を必死に探った。
裏原の送別会に行ったことは覚えている。
夜になっても、まだ雪はちらついていた。茜音は会社を出る直前に電話がかかってきた顧客のトラブル対応に時間を取られ、送別会場である駅前の居酒屋には1時間遅れで到着した。
「おう、やっと来たか。河西ちゃん、キミ優秀なんだから仕事なんかちゃっちゃと終わらせなさいよ。さあ、こっちこっち」
座敷に上がるとすっかり出来上がった白髪頭の庄司部長に呼ばれるがまま、その隣に座る。
送別会は盛況だった。いや、いつだって会社の飲み会は盛り上がる。部長命令で全員しこたま飲まされるからだ。営業部の30名ほどが集まっており、主役の裏原は上座に座っていたが、赤ら顔の社員たちは裏原のことなど誰一人気にかけずに仕事の話題で盛り上がっていた。
裏原はひとりぼおっとテーブルの上の料理を見つめていた。それしかすることが見当たらないというように。それはまるで騒がしいサルの群れの中に陰気なモグラが迷い込んだような酷く場違いな雰囲気だった。
茜音も席に着くなり、四方八方からビール瓶を向けられ息つく暇もなくひたすら飲まされる。だけど昔から酒には強い。どんなに飲んでも意識をなくしたことなどこれまで一度もない。ひとしきり庄司部長の相手をさせられた後、部長は若手の部下から声を掛けられ、それでやっと解放された。息をついて、ふと裏原に目を向けると。
驚いたことに裏原はいつからか、ずっと茜音を見つめていた。
それは朝に話したときと同じように、表情をすっかり消した顔で。
慌てて視線を外すと、茜音はぞっとした。その濁った目の奥で、裏原は語りかけていた。すべてを知っているぞ、と。
どうして自分の過去のあだ名なんか知っているのか聞いて確かめたかった。送別会が終わればもう二度と裏原と会うことはないだろうからこれが最後の機会だ。だけどその目を見た瞬間、茜音は大蛇にからだを巻き付けられたかのように、動けなくなってしまった。
「あれ、河西ちゃん。気分でも悪いの?」
こわばった顔に気づいたのか、酔った部長が馴れ馴れしく肩を掴んで顔を寄せてきた。酒臭い息に思わずむせそうになる。
「ついつい飲み過ぎちゃった?」
「ち、違いますから。部長、これってセクハラですよ」
なんとか笑顔を作り出し、場の空気を壊さないよう冗談ぽくそう言いながら部長から距離を取ったが、そんな茜音の態度が気に入らないのか部長は顔をしかめて、けっと吐き捨てた。
「違うの。これは男女問わずかわいい部下への愛情表現なの。まったく面倒な時代になったもんだなあ」
ふてくされる部長のご機嫌は取っておかないと。茜音が3年間会社で培った本能的とも言える模範解答が瞬時に口から出る。
「そうでしたか。じゃあ部長の愛情、しっかり頂いちゃいますね」
「なんだ、わかってるじゃない。俺はなあ、これでも河西ちゃんのこと、ずいぶん買っているんだぜ? 本当にキミは優秀だ。若手で一番かもしれん」
「ありがとうございます。じゃあ、お礼にもっとビールはいかがですか?」
「おう。まだまだ飲み足りねえぞ。次は焼酎がいい。河西ちゃんも当然付き合うだろ?」
送別会は深夜まで続き、茜音もさんざん飲まされた。結局、裏原と話をすることはなかった。別れの挨拶さえ覚えがない。店の外に出ると、雪は止んでいたが路上にはかなり積もっており、そして空を見上げれば夜空にいつしか青い満月が煌煌と輝いていて……。
それから、の記憶がすっかり抜け落ちている。記憶を失うほど酔っていたはずはないのに、なぜだかわからない。いったい、私はどうしちゃったんだろう。
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