「まなうらの火」 短編小説

蝉の声が、夕暮れになっても鳴り止まなかった。
祖父の初盆で、僕は半年ぶりにこの町に帰っていた。その前に帰ったのは、冬の葬式だった。そのさらに前となると、五年も遡る。
駅前のロータリーには、タクシーが一台きり。乗り場の屋根は塗装が剥げていた。商店街のシャッターには、色褪せた祭りのポスターが貼られたままになっている。三年前の日付の上に、斜めに貼られた「中止」の赤い紙。その赤も、もう褪せ始めている。剥がす人がいなかったということだ。そしてその隣に、今年のポスターが真新しい。刷りたての赤と、褪せた赤が並んでいる。三年止まっていた祭りが、今年、戻ってくるらしかった。
実家の仏間には、真新しい白い提灯が吊るされていた。初盆の家だけが飾るものだという。遺影の祖父は、僕の知っている顔より少し若い。選んだのは祖父本人だったらしい。まだ元気だった頃、自分で写真館に行って撮ってきたのだと、母は笑いながら少し泣いた。
祖父とは、この正月に電話で話したきりだった。祭りな、今年また始まるんや。いっぺん見にこい。受話器の向こうの声は、機嫌がよかった。仕事が落ち着いたら。僕の返事は、いつもそれだった。仕事はいつまでも落ち着かず、祖父のほうが先に落ち着いてしまった。
祖父が祭りで何をしていた人なのか、実のところ、僕は正確には知らない。囃子の人、というくらいの認識だった。訊く機会は、いくらでもあったはずだった。
線香を買い足しに出たついでだった。鎮守の森のほうから、太鼓の音がした。試し打ちだろう。間隔の空いた、まだ体温のない音。足はなんとなくそちらへ向いた。
参道の石段は、記憶より狭かった。子どもの頃はもっと長く、もっと急だった気がする。上りきると、境内には櫓が組み上がっていた。
色の抜けた法被の老人たちが、皺の寄った手で御幣を結わえている。紅白の幕を張る者。提灯の電球をひとつずつ確かめる者。竹を割り、縄を綯い、決められた場所に決められたものを据えていく。誰も喋らない。指示する声もない。三年のブランクなど無かったかのように、手順だけが、何百年ぶんの沈黙を運んでいた。
若い姿は、ほとんどなかった。境内の隅で竹を運んでいる中学生がふたり。それも部活のジャージ姿で、顧問に言われて来たという顔をしていた。
鳥居の脇の掲示板に、真新しい貼り紙があった。
「担ぎ手・曳き手募集。経験・性別・お住まい、問いません」
隅に印刷されたQRコードが、西日を受けて歪んで見えた。何百年続いた祭りが、この四角い模様に手を伸ばしている。僕はそれを、少し滑稽だと思い、それから、滑稽だと思った自分を持て余した。
スマートフォンを取り出して、境内を撮った。露出を少し下げると、提灯の色がよく映える。載せるなら夕方のうちに撮っておいたほうがいい。夏祭り、日本の夏、ノスタルジー。指が勝手にタグを打っていた。画面の中の祭りは、もう完成している。きれいで、静かで、遠かった。
幕の陰で、老人がふたり、話し込んでいるのが聞こえた。
「観光協会のな、若いのが来とったで。桟敷こしらえて、弁当と酒ィ付けて、なんぼか銭取ったらどうや言うてきよる」
「阿呆らし」
「阿呆らしいけどな、太鼓の皮ァ一枚張り替えるんに、なんぼかかる思うとんねん。寄付は減る一方や。役場の補助も、もう当てにならん」
「……祭りは、見世物やないやろ」
「ほな、誰が銭出すんや」
そこで会話は途切れた。ふたりとも、答えを持っていない。ただ、御幣を結わえる手だけは、止まっていなかった。
僕には関係のない話だった。伝統は大事だと思う。なくなってほしいとも思わない。神聖なものへの敬意くらい、僕の中にもたぶんある。ただ、それを背負う役が自分でないことも、はっきりと分かっていた。この町を出た日から、僕はここの「見る側」だ。見る側には見る側の礼儀があって、それは、邪魔をしないことと、きれいに撮ることくらいだった。
祖父のことを思い出した。
子どもの頃、この石段の下で肩車をされた。人混みの上から見た提灯の列。囃子の音。カッ、と乾いた音が鳴るたび、頭の上で祖父の声がした。
——邪気を噛み砕いとるんや。
何の音かは、分からなかった。分からないまま、怖くて、目が離せなかった。あの音の正体を、僕はまだ確かめていない。
太鼓が、一度だけ鳴った。
さっきまでの試し打ちとは違う。地面から突き上げるような一撃だった。御幣を結わえていた手が、一斉に止まった。
人垣が割れて、男がひとり、境内の真ん中に躍り出た。
老人たちの倍の歩幅で、砂利を蹴散らして歩く。四十半ばか、もう少し上か。日に灼けた首。捲り上げた法被の袖。背中はもう汗で色を変えていた。男が両腕を広げて何かを叫ぶと、それだけで境内の空気の温度が変わった。太鼓の前に立ち、撥を奪うように受け取って、二度、三度、叩いてみせる。さっきの一撃はこれか。音が、体温を持っていた。
提灯を確かめていた老人が、苦笑して首を振った。
「勇のやつ、もう始めよった」
「本番は明日やぞ」
呆れた声だった。呆れながら、誰も止めない。止まらないことを、全員が知っている顔だった。
気づくと、僕は録画を止めていた。
*
翌日、日が落ちる頃には、参道は人で埋まっていた。
りんご飴の赤。ラムネの瓶の中で玉の鳴る音。金魚の袋を提げた子どもが、下駄を鳴らして走っていく。屋台の並びは記憶より短くなっていたが、匂いは同じだった。ソースの焦げる匂い。綿飴の甘い匂い。発電機の唸りと、夜店の白い光。三年ぶりの祭りに、町を出た者らも戻ってきているのだろう。すれ違う顔の中に、同級生に似た顔がいくつかあった。
山車の綱には、見慣れない法被が混ざっていた。柄の違う借り物を着た、大学生らしい一団。例の貼り紙で来たのだろう。綱の持ち方を老人に直されて、神妙に頷いている。綱の先頭には、髪を結い上げた若い女の人がいた。
「よそから来た子らや。女の子が先頭て、昔やったら考えられん」
隣で、腰の曲がった老婆が、綱の行方を目で追っていた。独り言らしかった。少し間があって、
「けど、綱ァ足らんのやもん。しゃあないわなあ」
しゃあない、という言葉が、責めているようにも、祈っているようにも聞こえた。
山車が動き出すと、地響きに似た歓声が上がった。よそ者も、女の人も、老人も、同じ綱の同じ節を握っている。綱の上では、区別はもう見えなかった。
笛の音が、細く立ち上がった。三味線が絡み、太鼓が底を支える。囃子が組み上がっていくにつれ、参道の喧騒が、少しずつ境内へ吸い寄せられていく。
櫓の脇に、梯子が立てられていた。
見上げるほどの高さだった。天辺は提灯の明かりも届かず、夜に溶けている。根元を数人の男たちが囲み、四方から綱を張って支えている。それでも、あの高さは尋常ではなかった。
男——勇さん、と周りは呼んでいた——が獅子頭を被り、梯子に足をかけた。
囃子が変わった。一段ごとに体を撓らせて、獅子が登っていく。後ろで、子どもに聞かせる声がした。「天の獅子舞や。昔はな、あれで神さんを空から迎えたんやと」
カッ、と歯打ちが鳴った。
——邪気を噛み砕いとるんや。
祖父の声が、二十年ぶりに耳の奥で再生された。あの音だった。獅子の顎が打ち鳴らす、乾いた、鋭い音。人混みの上で聞いたあの音を、僕はいま、自分の足で立って聞いている。
歯打ちが、次第に速くなった。笛が追い、太鼓が煽る。獅子の体が梯子の天辺で反り返り、群衆から声にならない声が上がった。片足が宙に浮く。獅子頭が夜空を仰ぐ。落ちる、と誰もが思う角度まで傾いて、戻る。あの高さで体を宙に投げ出すには、下で綱を張る誰かを疑わないことが要る。そういう舞いだった。
「あれもなあ」
また、幕の陰の老人たちだった。人混みの中で、声は筒抜けだった。
「若い頃はどうしようもない暴れもんでな。町ァ飛び出して、十何年、帰ってこんかった」
「戻ってきたんは、先代が倒れた年やろ」
「祭りが止まった年や。それから三年。去年、先代も逝って、もう終いやて皆思うとった。やめるんは簡単なんや、誰も責めへん。けどな、いっぺん消えた火は、二度と点かんのやで」
「あいつだけや。終わっとらん、て言い張ったんは」
「一軒一軒回って、体育館で子どもに太鼓叩かせてな。大人が阿呆みたいに本気で楽しんどるとこ見せるしかないんや、て」
「……先代の獅子は、そら、別もんやった。勇のは荒い。荒いけど」
「火ィは、同じや」
囃子が、極みに達した。
その頂点で、獅子が動きを止めた。
梯子の天辺で、男は獅子頭を、少しだけずらした。
汗まみれの素顔が覗く。男は笑っていた。ただ、その目だけが、笑っていなかった。視線が群衆の頭の上を渡って、後ろのほうまで届いて、僕のところで止まった。
一拍。
たった一拍だけ、長かった。
男は獅子頭を被り直し、舞いに戻った。囃子がまた走り出し、歓声がそれを追い越す。周りの誰も、あの一拍に気づいていないようだった。
僕は自分の心臓の音が、太鼓とずれていくのを聞いていた。ずれて、ずれて、それから——重なった。
*
「豊作ォ!」「無病息災ォ!」
掛け声が怒号になって、櫓を巡る。五穀豊穣。商売繁盛。家内安全。祈りの言葉は、叫べば叫ぶほど祈りから遠ざかって、ただの熱になった。それでよかった。熱のほうが、祈りより先に体に入る。意味はあとから追いついてくる。
獅子が梯子を降りてきた。
降りて、そのまま群衆の中へ分け入った。悲鳴と笑い声が上がる。獅子は子どもの頭を順に噛んでいく。カッ、カッ、と歯打ちを鳴らしながら。泣き出す子。喜ぶ親。獅子はよそ者の学生の頭も噛み、車椅子の老人の頭も噛んだ。老人は歯のない口を開けて笑い、両腕で拍子を取った。
獅子がこちらへ来る。
逃げる間もなかった。目の前で獅子頭が持ち上がり、僕の頭の上で、カッ、と顎が鳴った。
乾いた、鋭い、あの音。頭蓋の芯まで届いた。二十年前に人混みの上で聞いた音が、いま、僕の中の何かを確かに噛み砕いた。何を砕かれたのかは、分からない。ただ、砕かれたあとのほうが、息が深く吸えた。
獅子は次の頭へ移っていった。
勇さんが再び梯子を駆け上がったのは、それからすぐだった。天辺に着くと、下から綱の先に結ばれた松明が、するすると引き上げられていく。男がそれを解き、高々と掲げた。境内がどよめき、それから、しんと静まる。炎が男の顔を下から照らしていた。
来い、と口が動いた気がした。
炎が、空へ投げられた。
火の粉が尾を引いて、夜に轍を刻んだ。光の渦が闇を裂いた、その瞬間——僕は人垣を掻き分けていた。
誰かに下駄を踏まれた。構わなかった。ポケットの中でスマートフォンが暴れていた。構わなかった。撮らなければ、と思う回路が、どこにも繋がっていなかった。
輪の中は、熱かった。
誰かの肩がぶつかった。綱を引いていた学生が、汗だくで跳ねていた。髪を結い上げたあの人が、綱の代わりに誰かの手を引いて回っていた。車椅子が輪の内側で切り返し、老人が両腕を振り上げている。知らない子どもが、僕の前で滅茶苦茶に跳ねている。上手いも下手もない。型なんて、誰も知らない。知らないまま、全員が同じ渦の中にいた。太鼓が地面を揺らし、地面が足の裏を突き上げ、突き上げられた体が勝手に跳ねた。
「舞裸舞裸ァ!!」
梯子の上から、男の声が夜空を割った。
意味なんて、分からなかった。町の誰に訊いても、たぶん分からない。何百年の間に意味のほうが磨り減って、音だけが残った言葉。分からないまま、僕も叫んでいた。周りも叫んでいた。分からないものを、全員で叫んでいた。
山が揺れた。
神が笑った気がした。ほんとうに、笑った気がしたのだ。
どのくらい踊ったのか、覚えていない。
*
気がつくと、境内は静かだった。
火は落とされ、燠だけが低く赤い。屋台は骨組みになり、老人たちが、来たときと同じ沈黙で紅白の幕を畳んでいる。よそから来た学生たちが、ゴミ袋を提げて、老人たちに頭を下げて回っていた。「また来てや」の声に、本気の顔で頷いていた。
燠のそばに、あの老婆がしゃがんでいた。火の番らしかった。
「この火はな、送り火なんや。この祭り、もとはな、疫病で死んだもんらを送るために始まったんやと。ようけ死んだ年があってな。せめて魂の帰る道くらい、明るう照らしたろて。それが始まりや」
初盆、という言葉が、遅れて胸に落ちた。
仏間の白い提灯。遺影の中の、少し若い祖父。
じいちゃんも、この火で帰るのか。
梯子が下ろされ、二つに外されるところだった。勇さんがその長いほうを一人で担ごうとして、よろけた。さっきまで天にいた背中は、思ったより小さくて、少し丸い。梯子の重みに、一歩ごとに肩が沈む。誰も手を貸さない。手順を知らない者には触れられない領分なのだと、昨日までの僕なら思っただろう。
「おい」
男が、こっちを見ていた。
「そっち持て」
僕は梯子の後ろを担いだ。思ったより重く、思ったより冷たかった。夜露で湿った木の感触が、手のひらに残っていた太鼓の熱と混ざった。
倉の前まで、ふたりで運んだ。男はずっと黙っていた。梯子を納め、閂をかける。それから、背中を向けたまま。
「葬式で見とった。棺のいちばん近くにおったやろ」
僕は、返事ができなかった。
「よう似とるわ。目ェが」
閂を確かめる、乾いた音がした。
「歯打ちはな、あんたのじいさんに教わったんや。祭りが止まっとった三年の間や。もう梯子に登れん体でな、布団の中から、口で教えよった。カッ、カッ、て。……ろくでもない出戻りに、あの人だけは何も訊かんと、獅子頭持たせよった」
男は倉の戸に手を置いたまま、少しだけ笑った。
「孫の自慢は、三べん聞いたで。石段の下で肩車したった、いう話や」
「……初盆です」
「知っとる」
男は夜空を見上げた。火の粉はもう無く、星だけがあった。
「ほな、今頃ええ気分で帰っとるわ。今年はよう燃えたからな。道も明るい」
それだけだった。男は僕の返事を待たず、燠のほうへ歩いていった。もう次の指示を出している。幕の畳み方が違う、提灯は箱を分けろ。祭りの外では、声の張りが半分になっている。半分になっても、まだ誰より大きかった。
その背中に、僕は言った。
「来年も、来ます」
男は振り向かなかった。返事は、笑い声だけだった。
帰り道、スマートフォンを確かめた。撮れていたのは、結局、初日の夕方の三十秒だけだった。露出を下げた、提灯の色のきれいな、誰が撮っても同じになる三十秒。昨夜のものは、何も残っていない。
手のひらが、まだ太鼓を覚えていた。膝の裏が、跳ねた高さを覚えていた。頭のてっぺんに、歯打ちの音が残っていた。残っているのは、それだけだった。
それだけが、残っていた。
家に着くと、門口に母がしゃがんでいた。素焼きの皿と、折った麻幹が用意してあった。
「待っとったん」
「送り火だけは、あんたが帰ってから、て思て」
小さな小さな火だった。あの の、何万分の一の火。けれど同じ火だと、なぜか迷いなく思えた。
「じいちゃん、祭り見れたかな」
「見たと思う。たぶん、いちばん前で」
火が消えるまで、ふたりで見ていた。消えてからも、瞼の裏では、まだ燃えていた。
蝉は、まだ鳴き出さない。東の空が白み始める。今年最初で最後の祭りの朝は、静かだった。
来年、あの轍の続きを踏みに来る。
口に出すと、それはもう決まったことのように聞こえた。
⬇「まなうらの火」の世界を楽曲に。
