芸術とデザインを「生活」から捉えてみる
美術・工藝・デザイン、生活。
柳 宗悦と工藝の美
美術文化から工藝文化への進展、そこに私は、造形文化の方向を感じる。何も美術を拒否するという意味においてではない。美の方向は生活との結合にあると思える。既にその必要は差し迫って来たのである。生活圏内に美術をも摂取すべき時期は来たのである。ここで美術の工藝化に新しい意義が盛れ上る。美と生活とを結ばしめる時、そこに工藝の文化が示現(じげん)され、美の健康化が見られるのである。生活に即さない美を正しい美と呼ぶことは出来ない。生活に交わって美がますます美となる道がなければならない。この心理の解説こそ未来の美学が追うべき任務ではないか。
初版発行: 1985年7月
柳 宗悦
1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日
日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。民藝運動の主唱者である。
名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。
柳 宗悦さんが、日本において市民のクラフトを「民藝」と呼び、無自覚の手仕事を「無心の美しさ」だと再解釈する少しだけ前に、西欧では、「デザイン」という概念が誕生していました。
まず、美術・工藝・デザインとは、なんだったのか?ということを振り返ってみます。
Arts and Crafts|ウィリアム・モリス
アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)は、イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834年-1896年)が主導したデザイン運動で、美術工芸運動とも称される。
1880年代のヴィクトリア朝の時代から始まった。産業革命が進み、大量生産により安価だが、粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙や家具、ステンドグラス)などを製作した。
モリス商会の製品自体は結局高価なものになってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もある。しかし、生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られる。アメリカ合衆国にもアーツ&クラフツ運動はあった。イリノイ州のシカゴがアメリカにおける運動の拠点で、建築家の フランク・ロイド・ライトも創立者の一人であったし、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの創設者であるジョージ・ゴフ・ブースも運動の推進者であった。
日本の柳宗悦もトルストイの近代芸術批判の影響から出発し、モリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたロンドンのケルムスコット・ハウスを訪れた。柳の民藝運動は日用品の中に美(用の美)を見出そうとするもので日本独自のものであるが、アーツ・アンド・クラフツの影響も見られる。
冒頭に引用した、柳 宗悦のいう「美術文化から工藝文化への進展」から、欧米をはじめとした文化の輸入を経て、造形文化はやがて「デザイン」もしくは「製造」へと変容していきます。
建築、都市や造園、工芸、自動車や家電におけるまでの工業製品、広告に付随する印刷物から書籍・雑誌、テレビ映画インターネットに流れるありとあらゆる映像、漫画。
現代、生活におけるありとあらゆるものは、「デザイン」というフィルター、もしくは編集工程を通過するようになります。
「日用品の中にある美(用の美)」は、100均DIYからハンドメイドマーケットまで幅広く生活に浸透し、「量産と効率化」というデザインが保有する設計の構造は、AIの普及や、3Dプリンターのような機械によって、よりコンパクトな「小さく生産する、個人規模の工場」を誕生させます。
大雑把に百年単位で歴史を切り分けてみたときに、2000年からの百年は、「個人の工場」という矛盾した概念を可能にさせるかのように、利便化したテクノロジーによる増幅が、複製され続けます。たとえば、Youtuberのような職業も「小さな工場 ( もしくは工房)」といえるのかもしれません。
日本においては、人口を爆発的に増加させてきた1900年代から一転し、縮小の世界へ。
AIが普及する時代の始まりは、「テクノロジーの手工藝である、デザイン」が発酵していく時代、とよべるかもしれません。
落合 陽一さんの「デジタルネイチャー」という概念を借りてくるのであれば、自然界へと進化したデジタル自然界の中で、人はいかに道具をつくり、狩猟を行い、商いを営むか?という問いを立て、加速する自然界の中で減速していく我々人類にとって「生活の愉しみ」の一部分になりえはじめた「仕事」「職業」をどう捉え直すかという節目をむかえているのではないでしょうか。
Art / Arm 藝術と工藝の分化点
英語の「Art」なる言葉は剴切(がいせつ:意見などが非常に適切なこと)な例を与える。この言葉は一般に藝術という訳語を以てするが Art は元来 Skill 即ち「技(わざ)」「巧(たくみ)」の義である。Art は Arm と語原が同じで日本語でも「腕」「腕きき」「腕前」等いうが、全く同じ心である。そうしてこの言葉は工作藝術の凡てを包含したものであって、文学、音楽、絵画、彫刻、工藝、建築等、全ての藝術が Art であった。
初版発行: 1985年7月
昔は Art と Craft との二語には決して区別がなかった。共に「技」の意味で、Craft は独逸(ドイツ)語の Kraft と同字で「力」を意味し、日本でも「力量」等いうが同じことである。それ故英語の古い用法では Artsman と Craftsman とは全く同義であって共に「工人」を意味した。しかも Artsmanなる言葉は十六世紀になって発生したので、それは Workman 即ち働き手または職人の意であった。 Arts-master も Master -Craftsmanの意に外ならない。共に「親方」「頭」の義である。それなら現在慣用されている Artist なる語の歴史はどうであろうか。驚くことにはこれも十六世紀以前には遡らない。しかも、十六、七世紀頃まではこの Artist なる言葉はごく稀により用いられず、多くは Artificer という字を用いた。皆 Craftsman と同意義で、いずれも「技にたけた人」を意味した。だから Artist が「美術家」を意味するようになった歴史がとても若い。今では「美術家」Artist と「職人」Artisan とを明瞭に区別して用いるが、昔は決して、これらの言葉の間に階級的差別は見出されなかった。実に Artistic 「美術的」Artistically 「美術的に」なる形容詞副詞も、英語に現れたのは十八世紀半以降のことに過ぎない。それ故古くは Art という言葉の中には「美術」というような概念はなかったのである。単に「技藝」という意に過ぎないのである。いわんや美術家の個人的な作という意味は毛頭ない。ましてや絵画とか彫刻とかに限られた言葉ではなく、一切の藝能を抱括していたのである。これ故工藝もまた Art であった。むしろ Art が凡て工藝を意味していたと見る方がいい。それ故今は誰も好んで用いる英語の Fine Arts 独逸(ドイツ)語の Die Schöne Kunst 仏蘭西(フランス)語の les Beaux-arts 等、いわゆる「美術」という言葉は、とりわけ起原が新しい。この言葉は十八世紀末に初めて現れ、これが今の「美術」の意に一般に解されるようになったのは、十九世紀以降である。如何に新しい概念だかわかるではないか。
初版発行: 1985年7月
「景気」と「経営」の語源は、アートだった?
経済とアートの語源を、松岡 正剛さんの言葉から見つめてみましょう。
「景気」…和歌に余情を盛ることが「景気をつける」
「経営」…水墨山水画の六法のひとつに「経営位置 / コンポジション(構成力)」があって、そこから自立した言葉
水墨山水画の六法は、謝赫(しゃかく)が最初に言い出した言葉。
景色を描くには、
1.気韻生動(きいんせいどう) 生命力
2.骨法用筆(こっぽうようひつ) 素描力・線
3.応物象形(おうぶつしょうけい) 描写力・形
4.随類貝武彩(ずいるいぶさい) 彩色力
5.経営位置(けいえいいち) 構成力
6.伝移模写(でんいもしゃ) 模写
この6つが必要なのだと言います。
そのひとつに経営位置があったということです。
つまり、景気も経営も「アート」だったのです。
アートの語源は、ラテン語のars(アルス)。「技芸」「方法」で、かつては絵画の描き方だけでなく、建築も医療も交易もアートですから、これは当然といえば、当然のことです。
しかしあるとき、欧米のマネジメント用語がどっと入ってきて、経営だけが脚光を浴びることになり、経営=マネージメント一辺倒になりました。
私はあるとき、日本ラグピーを代表する平尾 誠二と語らって、マネージメントがあるなら、イメージメントもあるはずだ、という見解を共有したこともありました。
「イメージとマネージ」という対談集になっています。
いま、そういうふうにアートのように景気や経営が語れるビジネスマンが登場したら、さぞかし面白いだろうと思います。ジャパンシステムを欧米型で語ろうと思いすぎないほうがいいというのが、本講の結論です。
第十五講 景気と経営はアートだった
初版発行: 2020年3月
松岡 正剛さんは、同著同講で「経済」の語源についてこういう話をしています。
「経済」が失ったもの
いまや、誰の口端(くちは)にものぼっている「経済」という言葉は、もともとは「経世済民(けいせいさいみん)」が略されてしまった言葉でした。
荘子・斉物論篇(そうし・せいぶつろんへん)の経世(けいせい)、書経・武成篇(しょきょう・ぶせいへん)の済民(さいみん)とが、春秋公羊学(しゅんじゅうくようがく)のなかで合体したもので、本来は「世を治め民を救う」というふうに読みました。
経(けい)は、縦の糸のことです。この縦の糸が世の中を治める基軸になるので、経(けい)は「治める」と解釈されます。従って、「経世」は「世を治めること」になる。
済(さい)は、救うという意味ですから、「済民」は「民衆を救う」ことです。
つまり「経世済民(けいせいさいみん)」は、国が国を保ち、国が世を治めるコンセプトそのものでした。本来のナショナル・インタレスト(national interest)/ 「国益」のために国はどうすればいいのか?それを考え、実行することが、「経世済民(けいせいさいみん)」ということだったのです。
ところがある時期から、これが経済として略され、あまつさえエコノミーの訳語となりました。この訳語は、津田 真道(つだ まみち)や西 周(にし あまね)が、ポリチャーエコノミー、ポリチカルエコノミー(Political Economy)を最初は家政学と、ついでは経済学と訳したとされているもので、そのほか、生産学、デザイン学という候補もありました。かなりうまい訳だと思います。
もともとエコノミーは、「オイコス(OIKOS)/ 家」(ギリシャ語で「家」を意味する言葉で、経済史上の基本概念の一つとして、絶対君主の家産的支配や諸侯や領主による所領支配、奴隷を含む古代の大家産などの封鎖的家族経済を表す。)と「ノモス / 制度」(古代エジプトの行政区分)が合体した「オイコノミー」からできているので、家政学も経済学も生産学も含んでいたのです。ですがそのうち、経済はエコノミクス(economics)だけを表すようになっていきました。ここからがうまくいかない。一旦、経済という言葉が一人歩きすると、そこには経世済民(けいせいさいみん)の意義はどんどん剥ぎ取られてしまいます。そのうち経済は、経世済民に関わらない収益や利益を獲得する活動になり、戦後復興を誓った日本人は資本主義のセオリーとレトリックそのままの経済活動にひたむきになり、果てはグローバリズムの渦中にあっという間に巻き込まれていったのでした。
その経済は、お祓いと支払いが両義性を持ってるものではなくなりました。
今日では、経世(けいせい)と済民(さいみん)は、政府の経済政策の代名詞になってしまっています。その中身は、財政のプライマリーバランスを黒字にする、規制を緩和するか、強化する。公共政策を拡大するか、縮小する。増税するか、減税する。自由貿易と保護貿易の対比を決めるといったことでかつての経世済民(けいせいさいみん)というものではありません。
第十五講 「経済」が失ったもの
初版発行: 2020年3月
「経世済民(けいせいさいみん)」は、中国の古典に由来する四字熟語です。
「経世済民」の起源は諸説ありますが、隋の時代の王通『文 中子』礼楽篇に「皆有経済之道、謂経世済民」とあって、経済が経世済民の略語として用いられていたという説があります。
今とむかしを比べれば、私たちの生活も、暮らしの経済も、文化・教育・行政、公共衛生、あらゆるものが改善されていますから、「かつての意味」は、必ずしも礼讃できるものではないかもしれません。
しかし、収益や利益を獲得する活動が、目的になりそうなときは、こういう言葉を思い直してみるのが、きっと、よいのでしょう。
"Renaissance"とアートの言葉
続いて、松岡 正剛さんの「全然アート」より、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記の部分を引用してみます。
東西の美術史
西の美術史と東の美術史は、同断に語れない。そもそもユーラシアの東・西・南・北・中央がちがっている。風土も文化も、宗教も食事も言語も衣裳もちがってきた。古代のギリシア・ローマ文化は初期キリスト教の美術様式やゴシック様式やルネサンス様式にそこそこつながるが、シベリア・シャーマン文化、中央アジア文化、ヒンドゥー文化、仏教文化、黄河文化、長江文化とはなかなか重ならない。
一に、天と神をめぐる考え方(コンセプト)が異なってきた。そのため西には唯一神が生まれたが、東はおおむね多神多仏になった。
二に、共同体の形成の仕方とルールが別々に発達した。西には比較的早くからポリスや都市国家が集合力や経済力や軍事力をもったけれど、東では部族や民族の移動と交替が文化を習合させていった。
三に、素材と表現技法とにちがいがあった。西の葦(パピルス)と東の竹、羽ペンと毛筆、壁・油絵・カンバスと墨・顔料・紙・絹布では、神仏のイコンを描くにも、人物を肖像するにも、風景を写すにも、何かが大きく変化した。
これらは東西のリアリズムを変奏させ、遠近法を別々のものとし、とどのつまりは心性のあらわし方に特異なちがいをもたらした。
東西美術のちがいを語るための視点はこのほかにもまだまだあるが、気になるのは、西のアーティストがその美やその哲学を自身で語ったり綴ったりするのが多いのにくらべて、東のアーティストは近世を迎えるまで寡黙であったということだ。批評家は西も東も少なくなかったのに、東は自身のひらめきや才能をあまり語らない。このことは、今日の東西美術界のちがいに及んでいると思われる。
初版発行: 2021年10月
ルネサンスは何を「再生」し、レオナルドはヴェロッキオの工房から何を「昇華」したのか。p43
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」より
アートと自己主張
西のアーティストが自己主張するようになったのは、ルネサンス(renaissance)の深まりと広がりによる。この深まりと広がりは「人間」を観察することから生まれ、「人文」に及んだ。すでにダンテやペトラルカの時期に意識されはじめていた。こうして「再生」(renaissance)という時代意図が、北イタリア・トスカーナ地方の富の力と相俟って個性のめばえに結びつき、才能の開花と研鑽に向かって行ったのである。
なかでもブルネレスキの建築力、メディチ家のプロデュース力、ヴェロッキオの工房力が特筆される。
アンドレア・デル・ヴェロッキオは彫刻家であって、画家・建築家・金細工師でもあり、器械の組み立てや音楽にも長けていた。早くから「稀代(きたい)の良師」という評判で、ラファエロの父やヴェリーノに一目おかれ、その工房には多くの若い才能が修行にやってきた。それをメディチ家のコジモ、ピエロ、ロレンツォが協力支援した。
ヴェロッキオの工房は美術学校とデザイン・スタジオを兼ねたようなもので、弟子たちは床の掃除から雑用全般をしながら、依頼された絵画の制作を分担した。サンドロ・ボッティチェリは二十三歳のころに、ピエトロ・ペルジーノは十代後半に、ボッティチェリより七歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチは十四歳頃に弟子入りした。ペルジーノの弟子がラファエロだ。このように、ルネサンス美術はヴェロッキオをその弟子たちがつくったようなものだった。
ヴェロッキオがどのように「西の美術」の真骨頂を教えたか、マニュアルも記録も残っていないのだが、レオナルドの手記がその要訣(ようけつ)をかいつまんでいた。
初版発行: 2021年10月
ルネサンスは何を「再生」し、レオナルドはヴェロッキオの工房から何を「昇華」したのか。
p43-44
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」より
ルネサンスより前の時代の画家や建築家のクライアントは「教会」や「国家」。「キリスト・カトリック教会」のための芸術が主でした。世の中が「キリスト教」を中心に回っており、美術も「聖堂の建築」や「聖堂のなかの祭壇画」「聖書の挿絵」など、ルネサンスまでの千年くらいの間、イタリアでは「美術といえばキリスト教」という時代が長く続いていました。
ルネサンス(フランス語で「再生」「復活」)は、古代ギリシャやローマの古典的な芸術を復興します。知識と美が再び尊ばれ、人間の能力や知識を重視する思想(人文主義運動)が興りました。
〜ルネサンス・メモ〜
・リアリズムと精密な描写
・自然主義の表現
・人間を中心とした文化への志向
・人間の人格や個性への尊重
代表作
サンドロ・ボッティチェリ「ヴィーナス誕生」
ラファエロ・サンティ「アテナイの学堂」、「システィーナの聖母」
ミケランジェロ・ブオナローティ「ダビデ像」「システィーナ礼拝堂天井画」
レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」「モナ・リザ」
時代の背景
十字軍遠征によるイスラム圏との接触
東方貿易による富の蓄積と自治都市の勃興
ビザンツ帝国へのオスマン帝国の侵攻
教皇の権力の衰退
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記
レオナルドの『手記』の序には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能を用いるにあらず」の文句が示されている。その次に「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。
「終わりを考えよ」とは何のことなのか。なぜ「終わり」が重要なのか。絵画や彫刻や建築を仕事にする者たちへのアドバイスなのか。それなら、こんなことはごくあたりまえのことになる。仕上がりを考えておくだなんて、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になるだろうが、きっとそんな意味なのではない。
これはおそらく「当初の完了」ということなのであろう。初めて『手記』を読んだ学生時代、ぼくはそう思ったものだったが、そのうちまた考えなおした。これは「当初の完了」とともにひょっとして「掉尾(ちょうび)の未了」を告げているのではあるまいか。そこからレオナルドの未完成の哲学が出来(しゅったい)していったのではないか。だんだんそう思うようになっていった。
この『手記』はモンテーニュやパスカルの随想録のように読める。それほど明晰で、深遠だ。随所に「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」とか「想像力は諸感覚の手綱である」といった章句がちりばめられていて、レオナルドとともに何度も思索ができるようになっている。なかには、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」「点とは精神も分割もしえないものである」といったヴィトゲンシュタインやカンディンスキー顔負けの章句もあるし、「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は主位を占める」といったハイデカーや西田 幾多郎顔負けの章句も少なくない。
こんなふうに読めるのだから、この『手記』に学べることはたんなる芸術論や視覚論ではない。むろん人生論にはとどまらない。透徹された方法は芸術と思想になりうるということ、もっとはっきりいえば、そういう方法だけが芸術思想であることをレオナルドが示したというふうに読める。
仮にそれを芸術論といったとしてもおよそ抽象的なものではなく、一種の名人の言葉や達人の言葉に近かった。たとえば、レオナルドは彫刻と絵画を区別するにあたってどうしたか。彫刻は上からの光に左右されるが、絵画はいたるところに光と影を携えられるとみた。この着目は何でもないようでいて、なかなか凄い。タブローは横から水平光を浴びつつも、そこに描かれた技法によってほぼ完璧な空間を出現させることができると宣言しているわけなのだ。それこそがレオナルドが工夫を尽くしたキアロスクーロ(明暗法)であり、スフマート(対照法)という方法だった。
また、「鋳物は型次第」というメモがある。これはなんでもないようだが、職人の達成を感じさせるメモだ。
レオナルドにとって「型」とは世界を象(かたど)り、世界を表象するための方法であり、その方法が世界にほかならないということなのである。おそらくヴェロッキオから教わったことでもあろう。とくにぼくが好きなのは「喉仏は必ず立っている足の踵(かかと)の中心線上に存在しなければならぬ」といった"極意"のメモである。いったいレオナルド以外のだれが上前部の喉仏を下後部の踵とつなげて見られたか。そこに一本の見えないキリキリ舞を見いだしえたか。いまなおロボット工学者によっても気がつかれていないにちがいない。
初版発行: 2021年10月
ルネサンスは何を「再生」し、レオナルドはヴェロッキオの工房から何を「昇華」したのか。
p44-46「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」より
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452~1519)は、15世紀末から16世紀にかけて、フィレンツェ、ミラノやローマを拠点に画家、彫刻家として活動した「万能人」。さまざまな機械の発明、土木建築、武器の開発なども行う、技術者でもありました。軍事技術者として自薦状を提出してミラノ公に仕えることとなり、あるときは音楽家(リラ演奏家)や余興係、あるときは都市計画者あるいは軍事技術者か水利工事監督者として活躍したといいます。それらの仕事をしながら思索したノートが『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』だそうです。
彼の研究領域は非常に広く、科学・音楽・建築・料理・数学・解剖・地質・気象・天文・物理・飛行力学・航空工学・自動車・材料・土木とありとあらゆるの分野に、顕著な業績と手稿を残したと言います。
人類史上初めてとものちに語られるような、正確な解剖スケッチ。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論に関するメモも残っていたのだとか。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かでした。彼のが書き残した膨大な手記は、長らく世間に公開されなかったため、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかったそうです。
最初に終わりを考慮せよ
(中略)
レオナルドの『手記』は、このようにライヒに見られる特異なものから、ヴァレリーや花田 清輝を唸らせた思索をへて、渦巻の科学やヘリコプターの開発におよぶまで、まことに巨大な光陰を発している。その万能の天才ぶりにあらためて言及するのがみっともないほどである。
が、いいことずくめで話をおわらせてはちょっとつまらない。レオナルドは「最初に終わりを考慮せよ」と暗示した。せっかくなので、少々妖しいことを書いておきたい。
ルネサンスには『行儀作法の書』というマニュアルが流布していた。そこには「裏切者、異端者、贋金づくり、殺人者、暗殺者、大食漢、悪口家、男色者に近づくな」という警告が入っている。なかでも男色が最も警戒されていた。ルネサンスは、異教と男色の巣窟だったのである。
レオナルドが《最後の晩餐》の準備にとりかかったころ、フィレンツェのサンマルコ修道委員長となったジロラモ・サヴォナローラは宗教革命を叫んでメディチ家と対立し、厳しい神政政治の必要を訴えた。結局、メディチ一派が追放されてサヴォナローラの恐怖政治によってフィレンツェのルネサンスは終止符を打つのだが、そのサヴォナローラが最後まで手を焼いたのが男色だった。「美青年たちと手を切りなさい、神の怒りを招く忌まわしい悪徳をやめなさい」と絶叫したにもかかわらず、そしてそれが老レオナルドにも向けられていたにもかかわらず、その「悪徳」はフィレンツェからもレオナルドからも去らなかったのだ。
レオナルドが親切にした美青年は『手記』では「サライ」の名で登場する。二十五年以上にわたって同棲した。サヴォナローラにとって恐ろしかったのは、サライが「サタン」の意味でもあったことだった。あの神聖で深遠なキリスト教絵画を描くレオナルドが、どうして男色の官能に耽るのか、この単純な宗教改革者にはまったくわからなかった。しかし、この官能とレオナルドの技能こそは不完全というものに、また未完成というものにどこかで繋がっていたのである。
ぼくが思うには、男色や少年愛というものは「未了」において成り立っている。そこには生産はない。一方、建築や芸術は「完了」をもって手放されるものである。すべては現物として残される。レオナルドはこの「未了」と「完了」の関係をあたかも得意な鏡像文字のように反転させたかったのではなかったか。
だからこそレオナルドにおいては、最初に官能が、途中に技能が、終わりに才能が暗示され、これらがことごとく「昇華」されたのである。最初に終わりを考慮せよ。今夜付け加えておきたいのは、このことだ。
参照千夜
八八八夜:モンテーニュ『エセー』
七六二夜:パスカル『パンセ』
八三三夜:ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
九一六夜:ハイデガー『存在と時間』
一〇八六夜:『西田幾多郎哲学論集』
一二夜:ヴァレリー『テスト氏』
四七二夜:花田清輝『もう一つの修羅』
初版発行: 2021年10月
ルネサンスは何を「再生」し、レオナルドはヴェロッキオの工房から何を「昇華」したのか。
p48-50「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」より
松岡 正剛さんの言葉に茶々を入れるのは烏滸がましいので、今日はここで一旦終わりにします。また、そのうちに。
いまとむかしをふりかえりながら、未来を見つめる言葉を少しずつ蒐(あつ)めてみようとおもいます。
よいお年になりますよう。
参考
書籍
柳 宗悦「工藝文化」
松岡 正剛「日本文化の核心」「全然アート」「デザイン知」「知の編集工学」
松岡 正剛 , 平尾 誠二「イメージとマネージ リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針」
ドミニク・チェン「メタファーとしての発酵」
伊藤 譲一「テクノロジーが予測する未来 web3,メタバース,NFTで世界はこうなる」
安宅和人 「シン・ニホン」「イシューからはじめよ」
落合 陽一 「デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」
note
落合 陽一「脱人間中心HCIとデジタルネイチャー(計算機自然)について / Human-Computer Interaction (HCI) Advent Calendar 2024」
落合 陽一「ASI / AGI , マタギドライブのためのいくつかの準備.」
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