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『創作大賞エンタメ原作小説』                           サイレントシネマのように         借金狂時代とキッド/犬と街の灯     

◆あらすじと世界観
 本編は約49000文字あります。

 この物語はいっさい音声のない映像、無音の映像を想定して書きました。セリフはもちろん、背景音や生活音、すべての音がない世界、ナレーションも無いまったくの静寂、無音のサイレント映画のような映像世界です。
 物語を繋ぐのは人々の動きと時々出てくるメッセージボードだけです。

 主人公は生まれつきの聾唖者の男です。つまりその主人公が見ている音の無い世界を物語にしました。そして、そのサイレント映画のような世界を出来るだけ表現する為にセリフの代わりに筆談替わりのメッセージボードを使いました。
 この物語は2部構成です。

●第1章 借金狂時代とキッド

 第1章はチャップリンのサイレント映画の名作、【キッド】や【黄金郷時代】をイメージしたドタバタ喜劇です。
 聾唖者の主人公は彫像になりきる大道芸のひとつ、スターチュパフォーマーとしてその日暮らしをしている33歳の男です。その彼が投げ銭を稼ぐ為に悪戦苦闘し、さらに借金取りに追われて大ピンチに陥ります。
 そのピンチをどうやって乗り越えるのか、第1部はそんなドタバタ大騒動を巻き起こすサイレントコメディです。

●第2章 犬と街の灯
 
 第2章はチャップリンの名作【街の灯】をモチーフにした恋愛ストーリーです。
 聾唖者のスターチュパフォーマーの男が街角で見かけた路上シンガーに恋をします。名前はココです。しかし、彼女は盲目のシンガーでした。彼女はいつも盲導犬のモモと一緒でした。そして彼女には彼氏もいたのです。
 これは叶わぬ恋をした聾唖者の男の笑って泣けるラヴストーリーです。もちろん音声のないサイレント映画のような世界です。

 元々映画は『If』を積み重ねた物語だと思います。ちょっとありえない設定、都合良すぎる展開、映画だからこそ、そんな夢も許される、そう思ったのでこの物語を創作しました。聾唖者やスターチュパフォーマーについても、もしかしたら気に障る表現があるかもしれません。でもそれは、映画のような夢の世界、とご理解していただければありがたいです。
 
 それではスタートです。
 





 俺は今、ブロンズの彫像になりきって台座の上に微動だにせず、ポーズをとって立っている。今日はボルサリーノを被った紳士風の彫像姿だ。
 彫像姿の俺の前には、投げ銭入れの帽子と3分間砂時計、小さなディーゼルがある。そのディーゼルには黒いメッセージボードが載せてあり、それには挑発的なメッセージを書いておいた。

 さっそく何人かの通行人がそのメッセージボードの前で足を止めた。そしてボードの後に微動だにせず立っている紳士像の俺を見てニヤリと笑った。

俺は彫像になりきっている大道芸人、いわゆるスターチュ(彫像)パフォーマーだ。

それはイベントや街角などであたかも本物の彫像のようになるパフォーマーのことだ。

 さっそくカモがやってきた。
大学生くらいの若いカップルだ。
その彼氏がボード横のやはりブロンズ風の帽子に千円札を投げ入れ、横に置いてあった砂時計をひっくり返した。

1万円チャレンジ、スタートだ!

 彼氏は俺の目の前で何度も手を振ったり、はたまたジャンプしたり、なんだかわからないジェスチャーを必死にやっていた。それを隣で見ていた彼女はお腹を抱えて大笑いしている。

ノープロブレム!

そんなもんで俺はびくともしない。
本物のブロンズ像のごとくまったく微動だにしないのだ。

ついに3分間砂時計の砂が全部下に落ちた。

頭を抱える彼氏。
それでも大笑いしている彼女。

1000円毎度あり!

 俺は彫像になりきるスターチュパフォーマーになってもう3年あまりが過ぎていた。そんな俺はもうすぐ33歳、まともに仕事も出来ないポンコツな俺は今だに定職につかず、大道芸人としてその日暮らしをしていた。
 しかし最近は頼みの綱の大道芸の投げ銭収入もごく僅かで食べるのさえ厳しい状況だ。オマケにヤバイ所からの借金まである。日々膨れ上がっていく借金はいったいいくらくらいなのか…、最近は考えるのも恐ろしい。当然、毎月の支払いも運任せ、その取り立てに日夜怯える毎日だ。
 そして、今夜はその借金返済日だった。しかも柄の悪い男達がわざわざ俺のボロアパートまで足を運んでくださる……。
 なんせ、先週も『3日後に払うから…』と見込みのない言い訳をしてなんとか見逃してもらったばかりなのだ。だか、もう同じ言い逃れは奴らには通用しない。借金取りがそんな甘い奴らじゃないことは身に沁みてわかっていた。下手したら半殺しの目にあってしまう、それで済めばまだいい、内臓を売り飛ばされるかも…。そんな恐怖が甦ってきた。
 だから今日は何としてでも稼がなければ、せめて利子分だけでも…、少しでも投げ銭してもらわないと借金取りにホントに殺される!100円200円、そんなチマチマ稼いでいる場合ではないのだ。

 だから俺はリスクを犯すことにした。それがさっき置いたメッセージボードだ。

 これで欲深いマヌケが吸い寄せられてくるはず、微動だにしないブロンズ像の俺に1万円チャレンジ勝負を挑んでくるはず……。

 俺はブロンズ風の真四角で大きく頑丈なスーツケースを台座代わりにしていた。その上に立ってポーズを決めると、それなりのブロンズ像に見えるのだ。俺は微動だにしないまま、ネギを背負ったカモを辛抱強く待ち構えた。

するとさっそくまた1人、網にかかった。

大学生風のあんちゃんだ。

メッセージボード効果、テキメンだ!
いとも簡単にカモが罠にかかった!こんなことならもっと早くこのメッセージを書いておくんだった。

そのあんちゃんは俺の目の前で変顔をしたり、猿真似をしたり『コマネチ』をしたり、俺を笑わそうと一生懸命だ。

フン、そんなもん、面白くもなんともないわ!

あんちゃんは首をかしげながらまた財布から千円札を出し、帽子に投げ入れた。

おやっ、再挑戦する気かよ!金をドブに捨てるようなもんだぞ、あんちゃん!

ガハハ、そして予想どおり、今回も投げ銭ゲット!毎度あり!

 すると数分後、さっきのあんちゃんが学生風の男達を数人連れて戻ってきた。ギャング風の帽子の奴、いかついサングラスをした奴、ド派手な縦縞のスーツをきた奴とか5、6人でやってきた。たぶん、さっきのあんちゃんの友達だろう。リベンジマッチというわけだ。そして、この異常な服装の集団は、見たところ近くの大学の演劇部らしい。近々ギャングの芝居でもやるつもりなのだろう。

 彼らはひとしきり手前のメッセージボードを見てワイワイガヤガヤ、大騒ぎだ。そして、その中の1人、さっそくマフィアのボス役の男が帽子に千円札を投げ入れた。

1万円チャレンジ、スタート!

おっ、今度はビックリ作戦か!俺を驚かすつもりらしい。なんとド派手なスーツの懐に手を入れ、取り出したのはどでかいマシンガンだ。そして、俺の頭に狙いを定めた。

ガハハ、どう見ても明らかにおもちゃ、ただの演劇部の小道具だ。残念無念、そんなもんにはまったくびひらないわ!

俺はもちろん、微動だにしなかった。

そしてマフィアのボスは小道具のマシンガンを豪快にぶっ放した!周りの子分達は耳を塞いでいる。よほど大きな音がしているのだろう。だか、俺の目の前には無音状態のパントマイム、いやもっとひどい、マヌケな三文芝居が繰り広げられているようにしか見えなかった。当然、俺は1ミリも驚かないしもちろん動きもしない、まったく微動だにしなかった。

なぜなら、俺にはそのマシンガンの音がまったく聴こえないからだ。

そう、俺は生まれついての聴覚障害、聾唖者なのだ。本当になんにも聴こえないのだ。俺の目の前の世界は常にサイレント映画のよう、ただひたすら無音の映像が流れていくだけ、人々の動きはみなパントマイムにしか見えないのだ。

仇討ち、とばかりにマフィアの子分達も次々と千円札を投げ入れていく。

子分の腹から血がドバーッ!もちろん見え見えの血のりだ。
と思ったら、今度は子分の頭が取れたし……。どんな仕掛けだよ……。

ギャング芝居がいつの間にかホラーに変わっていた。

怖くもなんともないわ!
残念無念、ただのパントマイムにしか見えん、いや、パントマイムにも失礼すぎるぞ、アマチュア劇団が!とりあえず毎度あり!

 その後も何人も立ち止まり、1万円チャレンジを挑んできた。俺を驚かそうとしたり、笑わせようとしたり、無駄な抵抗が続いた。

俺はことごとく勝利した。

笑いながらも悔しそうに立ち去る人々。
気がつけばわずか1時間弱の間に帽子の中には10枚ほどの千円札が入っていた。

クソッ!こんなことなら朝イチからやるべきだった!

俺は嬉しい後悔をしたくらいだ。

よし、これでなんとか利子分は払えるぞ。
でも、せっかくだからもう少し稼いでおくとするか、

 俺はスーツケースの台座に立ち続け、次なる獲物が網に引っかかるのを辛抱強く待った。

すると、二人組の警察官が近づいてきた。

ヤバッ!

なぜか警察官を見ると身構えてしまう。
最近は悪い事はしてないはずだ、
それなのに……。

 俺は昔、大道芸人になる前に食えなくてすこしばかり詐欺などを働いた事があった。

 聾唖者というのは横の繋がりが強い。俺も小さい頃から同じ聴覚障害者達と励まし合いながらそれなりに楽しく学校生活を送ってきた。
 聾唖者をかわいそうに思う人もいるかもしれないが、俺みたいに生まれつきの聾唖者だとそれが当たり前で、特に何の不自由も感じない。学校でも同じような仲間に囲まれ、手話での会話も楽しかった。手話というのはお互い遠く離れた場所からでも相手が見えさえすれば会話が出来るのだ。知らない人から見ればまるでテレパシーである。それに、就職だって聴覚障害者がつける会社を紹介してもらえたし、何の不満もないはずだった。

しかし、俺は捻くれていた。
せっかく普通の会社に入る事が出来たのに……、しかも聾唖者の俺を周りの同僚は丁寧にやさしくサポートまでしてくれていたのに……、

ただ俺は自立したかった。

 聴覚障害者の狭い社会、その強い絆に守られ、生きていくのはなんか違う!自力で生きてみたい!
 なんにも出来ないクソガキがそんな事をほざいて聴覚障害者の社会を飛び出したのだ。

 そんな時、俺はチャップリンのサイレント映画と出会った。

その映画は音声がいっさいないのにめっちゃ笑った。周りのお客さんも笑っているのが見えた。

俺は感動した。

動きひとつで、言葉がなくてもあんなにお客さんを笑わせる、楽しませる事ができるんだ!

俺はチャップリンになりたい!そう思った。

映画の中のチャップリンの動きはコミカルで抜群に面白かった。詳しく調べてみると、チャップリンは若い頃、パントマイム劇団にいた事がわかった。
そうなのだ、あのチャップリンの独特の動きはパントマイムが基礎になっていたのだ。

俺はパントマイムをやりたい、そう思った。それに聾唖者にとってパントマイムは向いているはずだ。 

なぜなら聾唖者というのは人に言葉を伝える為に普段からジェスチャーが大きくなりがちだからだ。

 少し前にファミレスで食事した時だ。
俺はメニューなどを伝えたくて一生懸命ジェスチャーをした。
 指を1本立てて、それを腕ごと大きく振リ『ハンバーグ1個』を伝えた。お冷がほしくて、遠くの店員に見えるように水をゴクゴク飲む仕草をしてみせた。片付けにきた女性店員に『美味しかった』と伝えたくて口を大きく開け美味しそうに食べる仕草をしてみせた、さらに自分のお腹をポンポンたたいて満足した事を満面の笑みで伝えた。
 すると女性店員がなにやら喋りだした。俺はその唇を見た。

しかし、まったくその唇が読めない。

 簡単な言葉なら聾唖者の俺には口の動きでだいたい読み取れる、いわゆる読唇術だ。それなのに…、全然わからない。

俺のジェスチャーが伝わっていないのか?
そう思い、何度もジェスチャーを繰り返した。

今度は『コップか?』とか言ってる?
いやいや、コップがほしいわけじゃない……、

しかし、店員の唇の動きは相変わらず意味不明だった。俺は店員の言葉が知りたくてさらにジェスチャーが大きくなった。

そして気づいた。

店員は英語で話していたのだ。英語がダメなら次はアジア人と思ったのか中国語、タイ語でも答えていたことに気づいた。
その唇は『サンキュー』『シェイシェイ』『コップンカー』と伝えていたのだ。

ジェスチャーの大げさな俺は外国人観光客と間違われていたのだ。

俺はいつも持ち歩いている筆談用の小さなメモ帳を出して書いてみせた。

メモ帳を見た店員も私も大笑いだった。

こんな笑い話もあるくらい、聾唖者というのはジェスチャーが外国人みたいに大げさになりがちなのだ。

それならパントマイムこそ聾唖者の天職ではないか!

 それから俺は大道芸人の仲間を探し、パントマイムを教えてもらい、数カ月後には路上デビューすることができた。

しかし結果は散々だった。

 パントマイムといえども、集客には面白いトークがある程度は必要だった。それよりも何よりも俺は不器用だった。見切り発車でデビューしたパントマイムの技術が下手だったのだ。聾唖者の大げさなだけのジェスチャーとパントマイムは全然違う、むしろ、その動きには音に対する反応、つまり健常者の感覚が必要だったことにも気づかされた。

案の定、半端な大道芸で食えるはずがなかった。

それでも聴覚障害者のコミュニティには頼ろうとしなかった。生意気な事をほざいて飛び出してきた手前、戻りづらかったのだ。

 俺はいつしかパチンコ屋に通うようになり、いつしか借金までするようになってしまった。生活はボロボロだった。

 そんなある時、いよいよどうしようもなくなった俺はついに犯罪に手を染めてしまった。

無銭飲食だ。

俺はその日、猛烈に腹が減っていた。

パチンコで有り金をほとんどすった帰り、ふらりと入った大衆イタリアンレストランでのことだ。

そこで1番安いパスタを一皿注文した。そして食べている間に気がついた。

お金、大丈夫かな?

焦った俺はトイレに入って財布の中身を確認した。

ない…、全然足りない!

財布に入っていたはずの千円札がなかったのだ。

そこで思い出した。

パチンコ屋で熱くなってしまった俺はなけなしの最後の千円札をパチンコ台に無意識に突っ込んでしまっていたのだ。

 焦った俺は店員の隙をうかがって食い逃げするしかないと思った。それで逃げるチャンスをうかがう為に何度かトイレに行ったり来たりした。念の為、トイレで財布の中身を何度も確認したが、やはり、お金が増えているわけがなかった。

だから俺はめちゃくちゃ時間をかけてパスタを食べることにした。

店員がニコニコしながら何度もやってくる。

ヤバイ、ほぼ完食してしまったぞ。
もう限界だ。

追い込まれた俺はピザを追加注文してしまった。

会計の時間を少しでも遅らせる為だ。その間に逃げるチャンスをうかがうのだ。

その後も店員が『そろそろ食事も終わりかな』みたいな態度でお代わりのコーヒーを入れにきた。

払えない、そして帰れない……。

俺はまたしても注文した。今度はグラタンを。

気がつくとなんだかんだで5品も食べていた。

俺はいよいよ怪しい人になっていた……。
そして店員の目が怖い。 

俺は作り笑顔で『本当にお腹がペコペコなんだ!』と大げさなジェスチャーをして見せた。
そして、睨んでいる店員にもう一皿パスタを注文してしまった。店員の目はさすがに疑っていた。

でもこれ以上もう食えない、でも払えない、

俺は作り笑顔でパスタを食べながらゲップした。いっこうにパスタは減らない。食べながら何度も吐きそうになったがそれもなんとか耐えた。

店員の目がますます冷たくなっていく。

もうお腹がヤバイ、食べれない……。

店員がテーブルに来る度に、俺はフォークとナイフで楽しそうに食べるフリをした。
口を美味しそうにモグモグさせた。

そんなことをしても、もちろんいっこうに減らないパスタ。

すると店員がレシートを持ってきて、呆れたようにそれをテーブルに叩きつけた。

『三文芝居はもうおしまいだ、さっさと払え!』ということだ。

店員の顔は怒っていた。

怖くなった俺はゲップをしながらピザを追加注文してしまった。

呆れた店員は目をつり上げて下がっていった。

そして、その追加のピザはなかなかこなかった。

しばらくして、ピザの代わりにやってきたのは警察官だった。

俺は無銭飲食で逮捕された。

俺はどうしようもない馬鹿だったのだ。

 その後も苦しい生活は続いた。

それでもバカな俺は聴覚障害者コミュニティを頼ろうとしなかった。

結局、半端な大道芸しか出来ない……。

それでパントマイムがダメなら、ということで今度はジャグリングなんかも習ってみたがまったく使い物にならなかった。音楽に合わせてパフォーマンスが出来ないのだ。そもそも音が聴こえない、まして不器用な俺には無理だった。

そして、勧められたのが彫像になりきるパフォーマンス、スターチュパフォーマーだった。

これなら不器用な俺にも出来そうだ!なんたって動かなくていいんだから!

甘かった……。

 もしかしたら、大道芸の中で1番厳しい、1番辛いかもしれない……、そう感じるようになった。
 彫像になりきり、微動だにしない……、それにはものすごい集中力、忍耐力が必要だ。そして超人的な体力も不可欠だ。
 腕を上げ続けるのがいかにしんどいか。足を浮かせる浮遊ポーズなどは、特殊な鉄の支柱で支える仕掛けでやれないこともないが、それでもしんどいのだ。それに瞬きもそうそう出来ない。お客さんが一瞬目をそらした瞬間に瞬きする技術、これはプロの技術なのだ。
 そして何より、夏は熱中症、冬は寒さとの戦いだ。スターチュパフォーマーは生身の人間なのである。暑さ寒さがとにかく一番きつかった。

 それでも俺にはもうこれしかなかった。
だからスターチュパフォーマーの先輩に何度もその極意や技を教えてもらった。

そのひとつがメッセージボードの活用だ。

ただ突っ立っているだけではお客さんは寄ってこない。ボードに面白いメッセージ、興味を引くメッセージを書くのも技術のひとつなのである。

 そんな物思いにふけっていたら警察官がジロジロ俺を見出した。
 そして、足元の1万円チャレンジと書いたボードを見て首をかしげていた。

こ……こ…、これは商売だ!
今は何も悪い事はしてないはずだ!
この場所でのパフォーマンス許可もちゃんともらっているし……、
営業妨害だ、もうどっか行ってくれ!
 
心の中で俺は何度もそう叫んだ。

 警察官はニヤニヤしながら投げ銭が入れてあるブロンズ風の帽子を覗いた。
 中には先程稼いだばかりの数枚の千円札が無造作に入れられていた。

 それを見た警察官は何か俺に話し掛けて去っていった。

『スリに気をつけて』

警察官の唇はそう見えた。

 たしかにスリや泥棒には気をつけなければいけない。帽子の中身をごっそり盗られて逃げられたら、こんなブロンズ像の姿で追いかけるなんてそりゃ無理だろう。
 兎にも角にも警察官がいなくなってホッとした。前科者のせいか、警察官は苦手なのだ。

 すると今度は派手なスーツを着た顎髭男と見た目もグラマラスな若い女性が俺の前で立ち止まった。

 おいおい、すごい大物がきたぞ!
この男女カップルはめっちゃお金持ちそうだ、うまくいけばものすごいチップを弾んでくれるかもしれないぞ!

よ〜し、ここは稼ぎ時だ、
ビッグチャンス到来!
さっ、1万円チャレンジ、カモン!

俺は微動だにせずに身構えた。

 そのグラマラスな女性は真っ赤なミニスカに大きな胸を強調した黒い肩出しの服を着ていた。着ていた、というより申し訳程度に布を体に乗っけてるだけ、そんな感じだ。
 隣の顎髭男は苦笑いしながら、その女性を小突いていた。

『1万円チャレンジやってみろよ!』

 そんな感じでグラマラスな女性をさらに煽っているように見えた。

 女性はうなづきながら俺を見上げ微笑んだ。

あれっ?
この人どっかで見た事ある?

あっ!

彼女は白石愛奈だ!
なんてことだ!

 彼女は言わずとしれた人気AV女優、白石愛奈だった。すると、彼女の隣で笑っている金持ちそうな顎髭男はAV女優のマネージャーなのか?

 俺は何度も彼女にお世話になっていた。
そういえば昨晩も彼女のAVで………。

 マネージャーらしき顎髭男が笑いながら帽子に千円入れて砂時計をひっくり返した。

1万円チャレンジ、スタートだ!

 白石愛奈は上目遣いで微笑むと、さっそくセクシーポーズだ。

うわぁ~綺麗な足が丸見え〜、
パ、パンツも見えそう、
うわぁ~、胸元もバッチリ見える〜、
もう隠す気ないよね〜、
おっぱい大きい〜、柔らかそう〜さわりた〜い、

『これでどう?』

そんな感じで微笑みながら髪をかきあげる白石愛奈、

ヤバッ!
ヤバすぎるーー!

微動だにしないはずの俺の体の一部分が早くも形を変えてきた。

それでもセクシーポーズをやめない白石愛奈

 昨晩観たあのAVの彼女のプレイが頭の中に再生された。

ヤバ、見るな見るな!これ以上見るな!

アーーッ、ダメだ〜、
どうしてもおっぱいに目がいってしまう、

そうだ、他の事を考えるんだ!
性欲に支配されたこのエロ頭をなんとかしなきゃ、
性欲に勝つには……、

そうだ、食欲だ!
美味しい食べ物の事を考えるんだ!
何がいい、何食べたい?

そうだ、ラーメン、美味しい豚骨ラーメンだ!

おっ、いいぞ、
エロ頭がラーメンになってきたぞ、
極上のスープをまずは一口、う〜ん美味しい!
そんで麺をツルツルすするんだ!

美味い!
なんてラーメンは美味いんだ!

よし、この調子でもう一口、
ツルツル、ツルツルッ
すする……すする……、

あれっ?白石愛奈もラーメンをツルツルすすってる?
すすってるのはラーメン?
あれっ?ラーメンじゃない?
あの口ですすってるのは……、

ヤバッ!

もうダメだーー!

 俺のブロンズ風のズボンの中心は盛り上がり、その先端は突き破るくらいになり、行場が詰まって逆に痛いくらいだ。

お前は中学生か!
俺はそう、自分を呪った。
なんで前かがみのポーズにしていなかったんだ、それなら多少は誤魔化せるのに……、例えば杖を付いて前ががみに歩いている老人とか…、でもこんな時に限って堂々としたポーズになっていた。

 白石愛奈は俺の下半身を指差し、笑いだした。隣の顎髭男も笑いだした。

 もう隠しようがなかった。完敗だ。
たまらず俺は体をかがめた。

 いつの間にかブロンズ像の周りにはたくさんのお客さんが集まっていた。AV女優、白石愛奈効果なのだ。

 そんなブロンズ像の醜態を見てみんな笑っていた。口を開けて大笑いしていた。その笑い声がハッキリと見えた。

 俺は帽子からさっき回収したばかりの千円札10枚を取り出し、彼女に手渡した。
 マネージャーらしき顎髭男は俺を慰めるようにポンポンと俺の肩をたたき、胸のポケットから1枚のチケットを取り出した。それを投げ銭入れの帽子に入れると、親指を立て『good』ポーズをしてみせた。そして、楽しませてもらった、とでも言いたげに、笑いながら2人は去っていった。
 かわいそうに思ったのか、なにかのチケットを投げ銭の代わりに入れてくれたのだろう。

クソッ、さすがに恥ずかしい!

 俺は場所を変える事にした。
慌てて後片付けを始めた。投げ銭入れの帽子の中には小銭が360円、千円札1枚が残っていただけだった。
 だか、このお金はお客様からの投げ銭ではない。このわずかばかりの半端なお金は見せ金だ。お客様がチップを投げ入れ安くする為に最初から自分で入れてあったお金だ。つまり、元から俺のお金、つまり、今日の俺の稼ぎはほぼゼロ。という事は現在の収入は、わけのわからないチケットが1枚のみ、さっきの顎髭男が俺を憐れんで投げ入れたものだけだった。

 そのチケットやらをひっくり返し表を見た。

 そのチケットはアダルトビデオ50%割引券だった。

クソッ、バカにしやがって!

そう思いながらもちょっと喜んでしまったクズな自分がいた。

 でも、この割引券をもらってわかった事があった。コスモエージェンシーはアダルトビデオ製作の有名な会社だ。と、いう事は、あの顎髭男は、アダルトビデオ製作会社、コスモエージェンシーの社員に違いない。いや、でもあの偉そうな態度はただの社員ではない、もしかしたら役員、いや社長かもしれないぞ。
 
 などと人の事をとやかく推察している場合ではなかった。そんな事より、AV女優に1万円取られて俺はほぼ一文無しになってしまったのだ。

 マジでヤバイ!
今夜、めっちゃ怖い借金取りがやってくる!
サボっている場合ではないのだ!

 俺は場所を変え、パフォーマンスする事にした。
 しかし、さっきまでの駅前以外は許可を取っていない。したがって長居できない。警察官がウロウロする度にヒヤヒヤした。まったくもって落ち着かない。こんなことではまともに稼げないのも道理である。
 だか、少しでも稼がないと借金取りに殺される。だからと言って、もう1万円チャレンジなんてギャンブルはリスクが大きすぎて出来ない。万が一チャレンジが成功してしまったら大変だ、お客さんに支払うお金がもう手元にないのだから。
 そんな時は何をやっても上手くいかないものだ。

 そして俺は警察官の目を避ける為、駅から離れた住宅街近くの小さな公園でブロンズ像になっていた。

そばにやってきたのは鳩が数羽だけ。

ポタッ!

頬になにかが落ちてきた。

 鳩の奴ら、俺の顔に、はたまたブロンズ像の肩にウンコを垂らして逃げた。俺は鳩にまであざ笑われていた。

と思ったら、今度は鳩が仲間をたくさん連れて戻ってきた!

頭に、肩に、足に、鳩が群がった。

鳩にだけ好かれた。 

あっち行けーー!

急に動いたブロンズ像に驚いたのか、鳩達がいっせいに飛び去った。

そして俺は糞まみれになった。鳩の糞が投げ銭だった。

ヤバイ、鳩と遊んでる場所ではなーい!稼がなければ!

 焦った俺はブロンズ像にかかった糞を、つまり俺自身を掃除して、さらにボードのメッセージを書き直した。

なんだかわからないがこれでいい。
いい事って何だよ?
そう思わせればとりあえずOKだ。
とにかく、この仕事はどんな手を使ってでもまずはお客さんを集めなきゃ話にならないのだ!

それじゃいい事って何だよ?って話だが……、

俺の100万ドルの笑顔で勘弁してくれ、そんなんで大丈夫か?知るか!

 そんな追いつめられた気持ちで俺はブロンズ像になっていた。しばらくするとようやくお客さんが寄ってきた。

ちっ、何だよガキかよ…、

 学校帰りなのか、その少年は大きなランドセルを背負っていた。たぶん小学3年生くらいに見えた。
 少年はブロンズ像の俺を不思議そうに見つめて、それから手前のメッセージボードを見ていた。

俺は願った。せめて100円でも入れてくれ、頼んます…。

 すると、その少年はニタリ笑った。
そして、ランドセルを背負ったまま走ってすぐ近くの家に飛び込んで行った。

 少ししたらその少年がバケツと何やら手に紐状の物を数本持って家から出てきた。そしてポケットからライターを取り出し、俺を見てまたニタリ笑った。

このガキ…、何をする気だ!

少年はライターでそれに火をつけた。

少年が持っていたのは何だ?
わかった!あれはバクチクだ!

バクチクで俺を驚かすつもりらしい。
しかし、残念無念、馬鹿め悪ガキよ!
そんなもんで俺はびくともしないわ、
なんたって俺は音が聴こえないんだから!

 少年はニタニタしながら火がついたバクチクをバケツに放ると、そのバケツを俺の足元に置いた。そして、耳を塞ぎながらその場から3、4メートル離れてしゃがんだ。

 バケツから火花が散っているのが見えた。
少年は耳を塞ぎなから笑っている。

ガハハハハハ、
残念無念、悪ガキよ、そんなもんで俺を驚かすなんて100年早いわ!

俺は心の中で笑った。

 すると少年は悔しそうな顔をして、また家に帰っていった。そして今度は銃を持って俺の前に戻ってきた。

カラフルなおもちゃの銃だ。

なんだよ、おもちゃじゃねえか、どうせ何かのキャラクターグッズだろ、

少年がまたニタニタ笑った。

さっそくそれを俺に向かって撃ち始めた。

痛っ痛っ!
これ、ビービー弾じゃねえか!
このクソガキ!

それでも俺は我慢した。
たかがガキの遊びに切れても大人げないからだ。
痛みを我慢し、俺はブロンズ像を貫き、ピクリともしなかった。

 それでもいつまでもやめないガキ、
ついにビービー弾が鼻の穴に入った。

グワ〜!

さすがの俺も切れた。台座をちょっと降りるフリをした。

 それを見たクソガキは笑いながら走って逃げていった。

しかし、最近のガキはなんなんだ!親の顔が見たいわ!

 俺はすかさずボードに書き足した。

 【BB弾禁止!】

このメッセージを付け加えたのだ。

 するとまたあのガキが袋を持ってやってきた。まったく凝りないガキだ。今度は何を企んでる?

 少年はビービー弾禁止のボードを見てニタリ笑った。そして持ってきた袋から何か取り出した。

出てきたのはさっき見たおもちゃと似たような鉄砲だ!

おいおい、またビービー弾じゃねえのか!
ボードが読めねえのか?

案の定、あのガキ、また撃ち始めた。

ぴゅ〜ぴゅ〜ぴゅ〜

顔に水がぶち当たってきた。

み…み…水鉄砲だー!

あのクソガキーー!

 俺はたまらず、動かないはずのブロンズの腕を振り上げた。

 クソガキは笑いながら走って逃げた。

 俺はすかさずボードにさらに書き足した。

これでどうだ!
もう、なんにも撃てないぞ!

 すると、さっそくあのガキがやってきた。
そしてボードを見てまた笑った。

な…な…なんだ?
次は何をする気だ?
もう撃つのは禁止だし、もちろんお触りNGだ。
さあクソガキよ、どうするつもりだ?

 少年は袋から今度はパンを取り出した。

な…なんだよ、パンかよ…。

少年は美味しそうにパンを食べ始めた。

カレーの匂いだ。

あれはカレーパンだ。俺の大好物のカレーパンじゃないか!

それにしても美味そうに食いやがるガキだ。
見てたら腹が減ってきたぞ、
そういえば朝からパン1枚しか食ってねえ、
クソッ、このガキなんなんだよ、今度は兵糧攻めかよ!

 少年は次にコロッケを取り出した。そのコロッケをわざわざ俺の目の前にさらしてから、ゆっくりゆっくり食い始めた。

憎たらしいガキだ、腹が減った〜、
あまりの空腹に耐えきれず、俺の腹がゴロゴロ動いたのがわかった。

 少年は俺の腹を指差し、大笑いした。

あっ、これはもしかして俺の腹の虫が鳴ったのか?

あのガキ〜、

だがまだこの少年に俺は負けてない!
腹の虫は鳴ったかもしれないが、俺はとりあえず微動だにしていないはずだ。ブロンズ像のプライドは守られている。

さぁ〜どうする少年よ!

 すると少年は運動靴を脱ぎ捨てた。
そして、あろうことか靴下まで脱ぎだした。

ま…まさか……、
嫌な予感が……、

 少年は脱いだばかりの自分の靴下……だいぶ汚れてるぞ……それを自分でクンクンしだした。すると案の定、顔をしかめ、ゲボゲボしだした。

馬鹿め、自分の匂いにむせてどうする、

俺は目で笑った。しかし、笑っていられたのも一瞬だった。

 少年は自分の鼻をつまみながらその靴下をぶらぶらさせ、今度は俺の鼻先にそれを近づけてきた。少年はなにか企んだような顔で笑っている。

止めろ、止めろ、くるな!臭い靴下を近づけるなーー!

そんな俺の心の声など届くはずがない。

 少年は精一杯背伸びするように手を伸ばして、ちょうど俺の鼻先でそれをぶらぶらさせやがった。

グハーーーーーッ!くさッ!

ブロンズ像の俺は身悶えしながら、それでもギリギリ耐えた。

こんなクソガキに負けてたまるか!
 
しかし、あまりの臭さに目がチカチカしてきた。

このガキの足は何なんだよ、ウンコでも踏んだのかよ!

目から涙まで出てきた。
少年はめっちゃ笑っていた。

耐えろ耐えろ耐えろ、
俺はブロンズ像、動くわけがないのだ!

しかし、ガキの二重三重の波状攻撃に俺は陥落寸前だ!
しかし……、耐えた………。

 ようやく諦めたのか、少年は荷物をまとめて家に帰った。

クソッ、まじでヤバかった。
俺はなんとか耐えた…、頑張った…、ブロンズ像としての意地をみせてやったぜ!

しかし、あのクソガキ、100円くらい入れていけよ!

そんな泣き言のひとつも言いたくなった。


やれやれ、クソガキもどうやら帰ったようだし、腹も減った。そろそろ休憩しよう。

そう思っていたらなんと、またあのクソガキがやってきた!

なんだよ、まだ諦めてないのかよ!

 少年は今度は缶詰を出してきた。

馬鹿め、また兵糧攻めかよ、
同じ手は通用しないわ、
俺は微動だにしないブロンズ像だぞ!

 少年は缶切りで缶詰を開けだした。

グハーーーーーッ!

 缶詰を開けた瞬間、そのあたり一帯が地獄と化した。

 俺も少年もそのあまりの臭さに悶えて転がった。
 少年はその開けたばかりの缶詰を放り投げ、悶えだした。缶詰の中身は路上に散らばった。
 俺は口を押さえてブロンズ像のまま、走ってその場から逃げた。もうブロンズ像の意地とか言ってる場合ではない!

あれは…、あの缶詰は…、

クサヤ…、クサヤの缶詰だーー!
あんなもん食べる奴の気がしれない!

 少年がむせながら家に帰っていくのが見えた。

『馬鹿め、あのクソガキ、自爆じゃねえか』

 そう笑ったが、この状況、笑ってる場合ではなかった。台座代わりのスーツケースがまだクサヤ地獄に置き去りなのだ。もう臭い、とか言ってる場合ではない。

 口を押さえ、鼻をつまみ、俺は地獄の現場に戻った。

もうこんな地獄の現場は即撤収だ!

 俺は目から涙を流しながらボードなどを片付け始めた。
 
 そこへさっきの少年と母親らしい人がペコペコしながら近づいてきた。

まじかよ、今度は親子で俺を攻めるのか?

俺は急いで逃げようとした。

 するとあえなく母親に腕を掴まれた。
そして、母親は少年の頭を押さえ、謝るように促しているのがわかった。この少年は手に負えないイタズラっ子に違いない。母親はその度に謝っているのだろう。
 だが、謝罪なんてもういらない、一刻も早くこのクサヤ地獄から逃れたい!

 そんな気も知らず、ペコペコする母親、隣で面倒くさそうに一応誤っている体の少年。

 すると母親は俺の手になにやら紙袋を押し付けてきた。お詫びのつもりなのだろう。俺はそれを渋々受け取った。
 どうせならお金の方がいいが、まあ何もないよりマシだ。

 そんなこんなで、這々の体で俺はようやくクサヤ地獄から生還した。

 次の現場で俺はさっき母親に無理矢理持たされた紙袋を覗いた。

 どうせガキのオヤツの余り物だろ、腹が減ってるし、ちょうどいいかもしれない。でもちょっと重いな…。

紙袋の中には缶詰が入っていた。
しかも3個も…、
まさかのクサヤの缶詰が……。

 俺はその場で飛び上がってしまったのは言うまでもない。

もうこんな所には1秒たりともいられない!

 俺は再び場所を変えた。
今度は駅から少しだけ離れたちょっと広めの遊歩道にした。

 だが俺はとにかく疲れていた。それに腹も減っていた。もうブロンズ像として立ち続けるのもしんどい。少し休憩も取りたい。

 すると、遊歩道の先におあつらえ向きのオシャレなベンチがあった。
 俺はその右隅に腰を下ろした。

 しばし、そのベンチで水を飲んだりゆっくりしていたが、思い直した。

やはり休んでる場合ではない!

しかし、今日はいろいろありすぎて体力がもう限界だった。

俺は考えた。
そしてひらめいた。

このベンチに座ったままブロンズ像になればいいじゃないか!これなら休憩しながら仕事ができるぞ!

 俺はさっそく足元にスーツケースを置き、その上に投げ銭用の帽子を置いた。

そうだ、見せ金も用意しなきゃ!

 俺はスーツケースから財布を取り出し、ひっくり返した。出てきたのは千円札1枚と360円だった。

1360円…、見せ金にしてはあまりにショボすぎる。

何かないか?
あるにはある………、あの缶詰が……。


 俺はさっきクソガキの母親からもらったばかりのクサヤの缶詰を取り出し、それをシゲシゲと眺めた。

まぁ開いてなければ大丈夫だろ、

 こうして、クサヤの缶詰を3個、帽子の中に入れた。

これで準備万端だ。
しかもまだ夕方4時だ。
時間はある、
奇跡の一発逆転、太客に出会えるかもしれないじゃないか、諦めたらそこでゲームセットなんだ!

どこかで見た事あるセリフだが……。

そして、こんな時の為に用意してある必殺アイテムを用意した。

それは本だ。

 もちろん、ブロンズ像が持つ本なのだからブロンズ色だし、オマケに英字だ。だが、これでそれなりに銅像らしい雰囲気がでる。
 俺は低い位置で本を持ち、読んでいるフリをした。本は低い位置に持つのがコツだ。高いと腕が疲れてしまうからだ。
 こうして俺はベンチに座って本を読んでいる紳士像になった。

目の前を何人も人が通り過ぎていく。

さあ、早く誰か立ち止まってくれ!
誰でもいい……!

しかし誰もこない。

時間が悪かったか……。
誰かいないかな……。

 俺は首を動かさずに目をキョロキョロさせた。

 すると、数十メートル先のベンチにくたびれたサラリーマンオヤジが座っているのが見えた。しかも何か飲んでいるみたいだ。

こんな時間にベンチで休んでいるなんて…、
たぶんあのサラリーマンは営業中にサボって休んでるんだろう。いい気なもんだ。

俺は自分の事を棚にあげてそんな事を思った。

まあ人の事はいい、それより仕事仕事。

 俺は再び微動だにせず、読めない本を読んだ。

 すると数十メートル先のベンチにいたくたびれたサラリーマンがヨロヨロとこっちに向かって歩いてくるのが目に入った。

おっ、ようやくきたぞ、さあ仕事だ!

俺は身構えた。

ヨロヨロ、ヨロヨロ、近づいてくるサラリーマン。

頭は薄そうだ。
スーツもしわくちゃ、
50代後半くらいか、

 あれじゃあんまりチップは期待できない、
でもいいさ、せめて500円だけでもお願いします!

 俺は祈るようにくたびれたサラリーマンオヤジを見つめた。

 そのサラリーマンが喋りながら近寄ってきた。しかもずっと喋リながら。何言ってるかは全然わからないが…、

それにしてもあのサラリーマン、ちょっとヨロヨロすぎないか?

あれっ?
あっ、転びそうになったぞ!

やっぱ転んだ!

起きあがった!

うそ…、あのサラリーマンかなり酔っ払ってるぞ!
よく見たら千鳥足だし…、
ゲゲッ、缶ビール持ってるし…、

これはヤバイ奴かも……、

 案の定、その酔っ払いサラリーマンはブロンズ像の俺などお構いなしに俺の真横にドサッと腰掛けた。ピタリ真横にだ。

最悪だ!

うわぁ~、しかもお構いなしに話し掛けてきたぞ!
しかも酒臭っ!

おい、俺がブロンズ像だってわかってるのか!もしかしてわかってない?

この感じだとわかってない可能性が高いぞ。
俺をただの顔色の悪い人間だとしか思ってないかも……。

 あろうことか、今度はその酔っ払いサラリーマン、俺の肩を抱き、しなだれかかり、また猛烈に酒臭い息を吐きながらぐちゃぐちゃ喋りだした。と思ったら今度は泣き出した。しかも俺に抱きついて泣き出した。

いったい何なんだよ、このオヤジ!
しかし我慢だ、金の為だ、

 その酔っ払いサラリーマン、泣き出したと思ったら持っていたバッグをまさぐり、また缶ビールを出してきた。

ゲッ、まだ飲むつもりかよ!しかも、この強烈な酒臭さはシコタマ飲んでる感じだ。まさかこのオヤジ、朝から飲んでる?
じゃあこのサラリーマン、仕事はどうしたんだ?

俺は思った。

もしかしてこのくたびれたサラリーマン、リストラされたのかも!

リストラされた事を家族に言えず、会社に行くふりをして公園で日がな時間を潰している…、最近、そんな惨めな話をよく聞くが、まさにこのくたびれたサラリーマンはそんな感じだ。だから、悲しくて辛くて泣いていたんだ。

 そのサラリーマン、俺に缶ビールを勧めてきた。

『お前も飲め飲め、一緒に飲もう』

明らかにそんな態度で俺の肩をたたき、缶ビールを何度も俺の目の前で揺らした。

このオヤジ、俺がブロンズ像になっている事がまったくわかってない……、それが確定した。

それでも俺が微動だにせず、無視していると、『俺の酒が飲めねえのか!』と今度は怒り出した。

そこからは地獄の第2章だった。

 泣いたり怒ったり、抱きついたり、しまいにはどこぞのクラブの姐ちゃんと見間違えたのか『さちこさちこ』と言いながら俺の頬をナデナデしてきやがった。

もうダメダメだ!
まったく仕事にならない!

 近所の奥さん達が気持ち悪いものでも見るように通り過ぎていった。

このハゲオヤジー!
仕事の邪魔ばかりしやがって!
早くどっかいけよー!

 いい加減頭にきた俺は酔っ払いオヤジが後を見た瞬間に持っていたブロンズの本で酔っ払いの後頭部をぶっ叩いた。

 オヤジは一瞬、キョトンとしていたがさすがに酔っ払いだ、効果などまるでなしだった。

 もう一発、後からブロンズの本でぶっ叩いてやった。

やはりキョトンとする酔っ払いオヤジ、
叩かれた頭のてっぺんを押さえてキョロキョロ。

 ちょうどその時、俺達が座っていたベンチの前をラケットを持った高校生くらいの男の子が歩いていた。たぶん近くのテニス部の高校生だろう。

 俺は『アイツが叩いた』と通りかかった高校生を指さした。

 すると、酔っ払いオヤジがそのテニス部の高校生になにやら文句を言い、急にベンチから立ち上がり突っ込んでいった。

 そして、高校生が持っていたラケットを指差し、『お前に叩かれた!』と因縁をつけ始めた。

 濡れ衣を着せられた高校生は、『違う違う、叩いたのはアイツだ!』そんな感じで俺を指差した。高校生は俺が酔っ払いオヤジを叩く所をしっかり見ていたのだ。

どういうこと?って顔の酔っ払いオヤジ。

申し訳ないが俺は責任転嫁、容疑を全否定してテニス部高校生に罪をなすりつけた。

 それから俺、酔っ払い、高校生の三人で押し問答にあいなった。もう支離滅裂である。

 結局、濡れ衣を着せられたテニス部高校生は文句を言いながら逃げていった。

 一騒動終わり、俺はようやくベンチに座った。するとあろうことか、酔っ払いもまた真横にピタリ座って、またまた缶ビールを飲み始めてしまった。
 酔っ払いサラリーマンは帰る気がまったくないらしい。とことん、ここで飲む気なのだ。そしてブロンズの俺のことは友達と思っているらしい。

こうなったらもうヤケクソである。

 俺は酔っ払いオヤジの缶ビールをいただくことにした。

プハーッ!

うますぎた!

アルコールが空きっ腹にめちゃくちゃ染み渡った。
 気を良くした酔っ払いオヤジは今度は缶酎ハイを出してきた。

この酔っ払いオヤジ、いったい、何本お酒隠し持ってるんだ!

 そして俺は飲んだ。飲むしかなかった。ヤケクソだ!二人でシコタマ飲んだ。
もう借金のこと、仕事のことなどどうでもよくなっていた。

 すると酔っ払いオヤジが目の前の投げ銭帽子に気づいた。そして、帽子の中の缶詰を勝手に取り出した。

ヤバイ、オヤジはそれをツマミにする気だ!

俺は必死に止めた。
もうクサヤ地獄は勘弁なのだ!

そうして2人で缶詰の取り合いになった。

 が、しかし、こんな時の酔っ払いはなぜか馬鹿力を発揮する。あえなくその缶詰は奪われ、オヤジの手であえなく開けられてしまった。

クサヤ地獄の再登場にあいなった。

ゲボゲボむせる俺、

しかし、酔っ払いオヤジは平気なのか手づかみでそれを食い始めた。それも美味そうに食べ始めた。酒の飲み過ぎで味覚が麻痺したのだろう。あげくに『ほれほれ』と満面の笑みで勧めてきた。

俺は涙を流して全力で拒否した。

そこからも地獄だった。

クサヤ缶詰を互いに押し付けあった。

『食え、うまいぞ』『けっこうです』

 酔っ払いオヤジは一向に引き下がらない。俺はヤケクソになり、缶酎ハイをがぶ飲みし、結局、いつの間にかクサヤも食べる羽目になってしまった。

酔っ払った。食った。
そして、いつしか気絶した。

 どれくらい時間が過ぎたのかわからない。気がついたら俺はベンチに1人死んだように横たわっていた。
 あたりはもうだいぶ薄暗い。そして、あのハゲの酔っ払いオヤジはもういなかった。

しかし飲み過ぎた、
それにクサヤも臭すぎる……。

俺はなんとか体を起こした。
すると近くにいた年配女性が腰を抜かさんばかりに後にひっくり返った。

まさか俺を本物のブロンズ像だと思ってた?

 そして、よくみると駅前広場のあたりに人がたくさん群がっているのが見えた。誰もがなぜか一様に慌てていたし、騒いでいる感じだった。しかもたくさんの赤色灯がチカチカ点滅していた。よく見ると近くにパトカーや救急車がたくさん停まっていた。
 さらに俺の前を何人もの警察官や救急隊員らしき人が走っていった。

何か事件があったのだ。
たくさんの警察官が出動していた。

これは大量殺人事件?まさかテロとか?

そんな物騒な考えも浮かんだ。

 俺は通りかかった女性に身振り手振りで何があったのか聞いてみた。しかし、何人かはブロンズ男が急に動いたのに驚いて逃げていった。ようやく若い奥さんが相手してくれた。でも、やはりなかなか身振り手振りだけでは通じない。

 首をかしげながら俺を見ていた若奥さんは俺の身振り手振りが伝わったのか、大きくうなづいた。そしてなぜか財布から100円玉を出して帽子に入れようとした。投げ銭を催促されたと思われたらしい。

俺は『違う違う!』と大きく腕を振った。

 若奥様は首をかしげながら、今度は買ったばかりの大根を出して見せた。

腹は減ってるが、それがほしいわけではない、
俺は頭をかかえた。

 すると今度はバッグに手を突っ込み何かを取りだし満面の笑みで俺に見せた。

バファリンだった…。

頭を抱えはしたが、頭痛ではない…、

俺は呆れたように『違う違う』と顔の前で手を振った。

 すると若奥様、うなづいて今度は満面の笑みで団扇を取り出し、俺の顔をあおぎはじめた。

なんで団扇持ってる?たしかに暑いが『暑い暑い』と手を振ったわけではない…。

俺は目の前のボードを手にとった。

早くこうすべきだったのだ。

 すると若奥さんがうなづきながら、ボードに答えを書いてくれた。

異臭騒ぎ?

それは、まさか……クサヤのことでは?

倒れてる犯人?

それはもしや、さっきの酔っ払いオヤジ?

 俺は若奥様に頭を下げると、すぐに人だかりをかき分け、その異臭の元、駅前広場に近寄っていった。

 前方にいくと規制線が引かれ、たくさんの防毒マスクをした人や警察官がガードしていた。

 その駅前広場には大小様々なオブジェがいくつかあった。その中心には裸体の女性が膝をついてお祈りしているようなブロンズのオブジェがあった。
その横に男が倒れているのが見えた。

あのヨレヨレスーツ、あのボロいカバン、その蓋が開いていて、そこから食べかけの缶詰がチラッと見えた。

倒れていたのはやはりあの酔っ払いオヤジだった。あれが異臭騒ぎの元凶だ。

そして裸体像の横には缶酎ハイが4本並んでいた。

あの酔っ払いオヤジの姿が想像できた。
オヤジはあの裸体像の女神と仲良く飲んでいたのだ。そして、クサヤの缶詰をツマミに食い散らかしていたのだ。

でもピクリともしていない。
まさか本当に死んでる?

あの酔っ払いオヤジは死んだのか?

するとその死体がもそっと動いた。

なんだ、酔っ払って寝ていただけじゃないかよ。まったく人騒がせなオヤジだ。

 救急隊員に抱きかかえられなんとか起き上がった酔っ払いオヤジはまだフラフラしていて倒れそうだった。。

 結局、酔っ払いオヤジは救急隊員に担架に載せられた。そして人混みをかき分けながら運ばれていった。

 その担架が俺のすぐ横を通った。

 その瞬間、担架に寝かされていた酔っ払いオヤジが俺を指差し、何かを叫んだ。
何度も俺を指差し、何度も叫んでいた。

 それを見た数人の警察官が指さされた先、つまり、俺を見た。

ヤバイ、見つかった。

でも、なんであの酔っ払い、俺を指さすんだよ、もう面倒はゴメンなんだよ…、

 俺はその時、人混みの後、駅前広場の端っこにいた。

 しかし、俺を見た警察官が首をかしげていた。
何人かの警察官も俺をジロジロ見ていたが、やはり首をかしげてどっかいってしまった。

どういうことだ?

俺は隣を見た。

右隣には母親に抱かれた赤ちゃんのがオブジェがあった。
俺はたまたまそのオブジェの左側でピタリ静止、そして抱かれた赤ちゃん像を撫でていた。実際はまだ酔いが覚めていなくて、赤ちゃんの頭につかまっていただけなのだが……、とにかく俺はたまたま赤ちゃんを可愛がるお父さん像になっていたのだ。

酔っ払いオヤジが指差した先には仲睦まじいブロンズ像の俺達夫婦と赤ちゃんしかいなかったのだ。それを見た警察官は酔っ払いの戯言だと思ったらしい。

でも、もうあの酔っ払いと金輪際関わるのはゴメンだ。

俺は警察官がいなくなった隙にそっと逃げる事にした。

 人混みをかき分けながら、駅近の公衆トイレに素早く駆け込んだ。そして、ブロンズのウイッグを外し、真っ黒のアフロヘアのウイッグを被リ、濃いサングラスと大きなマスクをし、仕上げにブロンズ像の服を覆い隠す大きな黒いコートに素早く身を包んだ。これがいつもの変装スタイルだ。いつもこの変装スタイルで俺は仕事場とボロいアパートを行き来しているのだ。

こうしてなんとかその場を脱出した。

 変装した俺の横を警察官が走り抜けていった。

警察は嫌いだ。ホントに危ないところだった。

 俺は至急退散することにした。
ホントにこれ以上の面倒はゴメンなのだ。
しかし、それ以上に大問題があった。忘れていたわけではない、今夜やってくる借金取りだ!

しかし、辺りはもうだいぶくなってしまった。
借金取りが諦めてくれるはずがない……。
少しでも稼がなければ……。

 その後も別の場所で粘ったがまったくダメだった。

 酔いが冷めきらず、俺のブロンズ像はフラフラしたし、立ちながら寝てしまい、いきなりぶっ倒れたリもした。

 これではいけない、そう思った俺は、腰掛けるのにちょうど良い石碑の台座があったのでそこに座り、眠れる紳士像になった。ナイスアイデアである。

そして……、寝た。
石碑にもたれて完全に寝た。

 最終的にはブロンズ像のまま、石碑の台座のそばで死体のように転がっていた。そのまま一ミリも動かずに。まるで本物の彫像が壊れて台座から落ちたみたいに、台座の横で倒れていたのだ。

 どれくらい寝ていたのかわからない、散歩中の柴犬にオシッコを顔にかけられてようやく目が覚めた。

 動いた俺を見て柴犬と飼い主の婆さんが飛び退いた。ブロンズ紳士の俺はペコリしながらその場から逃げたのは言うまでもない。

散々だった。

 その日は真っ暗になるまで頑張ったが収入は結局、千円ちょいくらいとクサヤの缶詰残り1個だった。

 これで借金取りに半殺しにされる事が確定した。

 もうあたりは真っ暗だ。
これではいくらなんでも仕事にならない。

 俺は恐る恐るボロアパートに帰る事にした。パフォーマンス道具をたくさん入れた重いスーツケースを引きずリながらトボトボ帰った。
 疲れ果てていた俺は顔のドーランも落とさず、サングラスとマスクをしただけの姿だった。

万が一、なにかの手違いで怖い借金取りも回収予定日を変更するかもしれないじゃないか……、

帰る道すがら、ダメ男はそんな都合のいい事ばかり考えてしまう。

 ようやく暗闇の先に俺の慎ましい寝るだけの我が家、2階建てのボロアパートが見えてきた。
 
しかしなんてことだ!

 暗闇に2人の男の影が見えた。チビデブの影とノッポの影、いつもの2人組のデコボコ借金取りだ。彼らが待ちくたびれて吸っていたであろう何本目かのタバコの煙が俺の鼻先にまとわりついてきた。

 やはり借金取りが待伏せしていたのだ。
俺の淡い期待はあっけなく裏切られた。そもそも、そんな都合のいい事なんて起こるわけがなかった。

こうなったら逃げるしかない!
死んでも痛い目にはもうあいたくない!
そうだ、とりあえず商店街の先の公園、そこの女子トイレに隠れよう!

 俺はこっそり今来た道を引き返した。
しかし、重いスーツケースを引きずって歩くわけにはいかない。こんな物を引きずったりしたら想像つかないがそれなりにすごい音かするはずだ。

仕方ない、俺は重いスーツケースを抱えて歩く事にした。が、やはり重すぎた!

案の定、躓いて転んでしまった!

ヤバイ!見つかる!

 後を振り返ると2人の走ってくる影が見えた。
そこは公園の手前、シャッター商店街の外れだった。

もうダメだ、見つかる!

 俺は覚悟を決めた。
そして、ブロンズ像を覆い隠す為に着ていたいた大きなコートを脱ぎ、サングラスとマスクも外し、それをスーツケースにしまい、急遽、シャッター商店街の街角でブロンズ紳士像になり、静止した。
 そこはちょうど潰れかけの青田紳士服店の前だった。
俺はメッセージボードも急いで書いた。

 これでよし!

 ブロンズ紳士像の俺は胸の前でこのメッセージボードを持ち、ブロンズ風ボルサリーノを斜めに渋く被り、ニヒルなスマイルで静止した。

 静止した俺の目の前を2人の借金取りが幸運にもドタバタと走り去っていった。

と、思ったら戻ってきた。

そして、ブロンズ紳士像の俺が持っていたメッセージボードを疑い深そうに見るチビデブ。

ヤバイ、気づかれる……。

 しかしチビデブは自分が着ていたスーツをシゲシゲと見つめ、微笑んだ。
 そこへ、近くを探していたのか相棒のノッポがやってきた。

 チビデブはシャッターの降りている青田紳士服店を指差し、なにやら騒いでいるようだった。

『アルマーニめっちゃ安いぞ!明日買いにこようぜ』

そんな口ぶりで借金取り2人は話しあっているのだろう。

バカな借金取りだ。

 2人は『いいもの見つけたぜ』という感じで満足そうに薄暗い商店街をまた先へ歩いていった。

 俺はしばらく青田紳士服店の前で紳士像になっていた。

早く逃げたいが、奴らがいつまたこっちに戻ってくるかわからない。

 その間も、会社帰りの酔っ払いサラリーマンや夜遊び帰りの学生達が俺の前を歩いていった。そして紳士像の俺が持っているメッセージボードを見ては一様にうなづいていた。

そろそろ移動しよう……。

 そう思ったら、またしても借金取りがこっちに戻ってきた。俺を探しにアチコチ回ったが、結局見つからず、仕方なくボロアパートで待伏せする事にしたのかもしれない。

 俺は再び紳士像になり、彼らが通り過ぎるのを息を潜めて待った。

 借金取りはニタニタしながら俺の前を歩いて通り過ぎ、ボロアパートの方へ歩いていった。

 すると前方から散歩中のお姉さんと秋田犬も近づいてきた。

ヤバイ、犬だ!

でもこんな時間に犬の散歩かよ。
飼い主はハイミスっぽいお姉さんだ。という事は……、たぶん仕事一筋のハイミスで帰りが遅いのだ。それで散歩はいつもこんな遅い時間になってしまうのだろう…。

でもワンちゃん……、吠えるなよ、頼むから吠えるなよ……
借金取りの奴ら、まだ近くにいるはず、
気づかれたらヤバイからね……、

 案の定、ブロンズ像紳士の俺をシゲシゲと見つめる飼い主のお姉さんと秋田犬。

『こんな所にブロンズ像なんてあったっけ?』

そんな表情で俺を見ているハイミスお姉さん。

 そして俺の匂いをクンクン嗅ぎ出した秋田犬。

吠えるなよ……吠えるなよ……、

 そしてなんとペロペロしだした。
俺の靴や足元にじゃれついてきた。

や…や…止めろ……、

心の中で叫んでも無駄だった。秋田犬は尻尾フリフリ、まったく止める気配はない。
秋田犬だけは気づいていた……、俺が彫像でないことに……。

『早く行こう!』とリードを引っ張るハイミスお姉さん。
それでもペロペロをやめない秋田犬。

お姉さんがよそ見している隙に俺は秋田犬を怖い顔で睨んだ。追い払おうと目も見開いた。

逆効果だった。

ビックリした秋田犬が口を大きく開けて吠えやがった!

まずい!

たまらず、俺は紳士像のまま走リ去った。

 それを見た飼い主のお姉さんが驚いたのは言うまでもない。

 お姉さんと秋田犬を置き去りにして夜のシャッター商店街を走っていくブロンズ紳士の俺。

 なんとか辿り着いた公園の入り口で俺は商店街を振り返リ見た。デコボコの影が2つ揺れ動くのが見えた。

ヤバイ、見つかったかも……、
秋田犬が吠えたせいだ!

それでも俺は必死に逃げた。

 そして、今度は公園の女子トイレに一目散に駆け込んだ。借金取りもまさか男の俺が女子トイレに入るとは思わないだろう。俺は奴らの裏をかいたのだ。
 それにこんな重いスーツケースをいつまでも引きずって逃げる事なんてできるわけがない。俺は女子トイレの個室にその重いスーツケースを突っ込んだ。

そしてしばらく女子トイレに籠もることにした。出来れば早く出たいが……。

 しかし、音が聴こえないので借金取りがどの辺りを探しているのかがわからない。まだこの近くにいて、トイレの周りで張り込んでいるかもしれない。
 そうなると、女子トイレから出てきた瞬間に御用!となってしまう。しかし、だからと言っていつまでも女子トイレに籠もっていても仕方がない。

 俺は意を決してブロンズ像の姿で恐る恐る女子トイレから顔を出した。そして男子トイレの入り口の方を見た。公園の薄暗い街灯が男子トイレの入り口を照らしていた。

すると出てきた!

借金取りのチビデブだ!

奴らは男子トイレの中を探していたのだ。

 俺はすかさず首を引っ込め、再び女子トイレに籠もった。
 間一髪、ちょっとでも首を引っ込めるのが遅かったら見つかっていた。

危ない危ない……。

ここはしばらく女子トイレの中で成り行きを見守るしかない。

今はもう夜の23時くらいだろう。
あと1時間だけ我慢しよう。
真夜中の12時を過ぎたら借金取りもさすがに諦めてくれるはずだ。

懲りもせず俺はそんな甘い期待をしてしまう。

ヤクザというのはめちゃくちゃ執念深いということを嫌というほど身に沁みてわかっているはずなのに…。

それにしても、腹が減った。とてつもなく腹が……。

 個室の中はいつもの静寂に包まれていた。俺は常にそんな静寂の世界にいる。だが真夜中のこの時間は、静寂よりさらに静寂だった。

 そうして1円にもならないのに1時間ばかり個室の中で固まっていた。

そろそろ大丈夫だろう…。

 俺は空腹に耐えきれず、女子トイレから出る決心をした。 

ゆっくり個室のドアを開けた。


ギャ〰️〰️〰️〰️〰️!

 目の前に黒い妖怪が現れた!
しかも2人現れた!
髪もジャラジャラ長くて気持ち悪かった!

『アーーーーッ!』

 あまりの恐怖に俺は口を大きく開けて叫んでいた!

 すると目の前の黒い妖怪2人も目も口も大きく開いて叫んで逃げるように女子トイレから出ていった。

さすがの妖怪もブロンズ男に驚いたのか?

しかしなんなんだ!このトイレは!
やっぱりトイレっていうのはお化けとやらが出るもんなのか!

俺は恐ろしくなった。 
たしかに真夜中だし、時間も時間だ、お化けが出てもおかしくないのだ。

でもあの黒い妖怪はヤマンバに似ていたような…、と言っても本物のヤマンバなんて見た事はないが…、

ちょっと冷静になって考えてみた。

あの黒い妖怪……、あれってもしかしてヤマンバ……、ヤマンバギャル?

最近流行りの顔面真っ黒のギャルかもしれない。それならTVで見た事あるかも…。そうか、そうなのだ!さっきの妖怪はヤマンバギャルだ!

 女子トイレの個室からまさかのブロンズ像が出てきたら、しかもこんな真夜中に動いて出てきたら、そりゃさすがのヤマンバギャルでも腰を抜かすだろう。
 しかし、いつまでも女子トイレに籠もっているわけにはいかない。

 俺は再び女子トイレから恐る恐る顔を出した。

 辺りはもう真っ暗だ。
あの妖怪、いや、ヤマンバギャルもどこかに逃げていったようだ。

もう誰もいない……。

助かった…、
借金取りも今夜は諦めてくれたんだ…。

 俺はすぐさま女子トイレに戻リ、スーツケースを引きずり出し、ボロアパートへ歩き出した。
 その帰り道、無人のシャッター商店街を歩いていると男の影が2つ揺れているのが見えた。

甘かった。

奴ら、借金取りはやはり諦めていなかったのだ。このままでは見つかってしまう。

俺は再び公園に引き返すことにした。
だが、背後から人が追いかけてくる気配をビシビシ感じた。聾唖者というのは音が聴こえない代わりにそういう気配だけは人一倍感じるものなのだ。

もし捕まったら、またゴミのように奴らに殴られ半殺しにされてしまう。

 俺は気配を消してゆっくりゆっくり逃げた。なんとかもう一度女子トイレに逃げこむしかない。

 ようやく公園が見える所まで辿り着いた時、背後の暗闇に2つの影がまた見えた。街灯に照らされ、その影が大きくなり、揺れながら徐々に近づいてくる。

ダメだ、女子トイレまでは間に合わない!

 俺はまたしてもシャッター商店街の外れ、青田紳士服店の前でポーズをとった。急遽、街角のブロンズ像になったのだ。微動だにしない青田紳士服店のブロンズ紳士像だ。

 薄暗い街灯が俺を、ブロンズの紳士を怪しく照らしていた。

 そこへ借金取り2人組がウロウロしながらまたしてもやってきた。そして、チラチラ、ブロンズ像の俺を見ていた。

 俺は覚悟を決めて今度も青田紳士服店のブロンズ像になりきっていた。

 2人組は首をかしげながら公園の方へ走っていった。

やっぱりバレてない?

 たしかに借金取り2人組はこの辺の商店街のことなどあまり知らないのだろう。近所の人だったらこんな商店街の外れ、青田紳士服店の前にブロンズ像があるのはおかしい……、ってなるはずだ。最も奴らはそんな事にはまったく興味がないのだと思うが。

でも、どっちにしても助かった。

しかし、油断は禁物だ。いつここに戻ってくるかもわからない。俺は気を引き締めてブロンズ像になりきった。

 この場所からは視界の外れにさっきの公園を見る事ができた。見ていると、借金取り2人組がまた男子トイレに入っていった。

相変わらず馬鹿な借金取りだ。

 誰もいなかったのか、男子トイレから出てくると、今度は二手に別れて探しにいった。

 チビデブの方がまた俺の近くをウロウロしだした。チビデブは怒らせたらホントにヤバイ奴なのだ。前に前歯を一本折られたことがある。

ヤバイ、

チビが俺をジロジロ見てる。

俺はブロンズ像だ俺はブロンズ像だ、
心の中で念仏のように何度もそう唱えた。

首をかしげるチビデブ。

俺の額から脂汗が滲み出てきた。

俺は薄目を開けてチビデブを見ていた。

やはりチビデブは俺をまだ見ている。

気づかれたか……、

その時、蛾が俺の鼻の上に止まった。

まじか!

よく見ると、俺は薄暗い街灯の真下にいたのだ。

 真上の街灯を上目遣いで見ると蛾がわんさかいた。その何匹かがまた俺の顔に舞い降りてきた。

気色悪かった。
しかし動けない、耐えろ耐えろ、
クソッ、蛾が鼻の辺りをウロウロしやがる……、
ヤバッ、くしゃみ出そう……、

 チビデブが首をかしげながら商店街の方を振り向いた。仲間が呼んでいたのだろう。

 俺はその一瞬の隙をついて鼻先や顔に舞い降りてきた蛾を手に持っていたボードで振り払った。

うわぁ~どっか行けー!

 するとチビデブがまた俺を振り返り見た。
俺は蛾を振り払っていた手を一瞬で止めた。

ヤバッ!バレた……、

首をかしげるチビデブ。

 俺は蛾を振り払ったおかげでボードを持っていた手の位置がさっきよりだいぶ高くなっていた。

 そこへ背の高い相棒ノッポが『こっちにはいなかった』みたいなジェスチャーをしながら戻ってきた。
 チビとノッポはなにやら話しながら、タバコを吸い始めた。

蛾がまたやってきた。

クソッ、俺は2人組が公園の方を見ながらタバコを吸っている隙に再び蛾を追い払う為に
またしてもメッセージボードを振り回した。

あっち行け!

 急にノッポが振り向いた。

『あっち行け、このクソ蛾!』とボードを振り回す俺……。

今の動き、えっ、完全に見られた……?

 俺は瞬時に動きを止めたはず……。
しかし、またしても手の位置が違う。それに今度は被っていたブロンズ風のハットが顔をぶんぶん振ったせいで後にずれてしまった。

完全に最初のブロンズ像とは違うポーズだ。

首をかしげるノッポ。

まじか!コイツラ節穴なのか、この借金取り2人組、チビとノッポの2人は揃いもそろって節穴なのか!

 そしてチビデブも振り向いた。
チビデブは何度も俺を睨むように見てる。さすがに気づかれたかも……。

 するとタバコの煙をモクモク吐きながらチビデブが俺に近づいてきた。

けむっ……、煙い……、
俺は必死にむせるのを耐えた……。

 しかし、チビデブがモクモク吐いたタバコの煙を俺は吸い込んでしまった。
そして、その煙をたまらず鼻から出した。少しずつ少しずつ出した。

すーっと俺の鼻から立ち登る白い煙……。

万事休す!
さすがにバレた……。

 チビデブがニタニタしながら俺を見た。

俺は観念した。
間もなく半殺しに合うだろう。
いや、借金取りをこんな夜中まで手こずらせた、となると、そんな半殺しで赦してくれるとは思えない。

『俺はブロンズ像、俺はブロンズ像』虚しい念仏を唱えることしか出来なかった。

 するとチビデブがなにか言いながらブロンズ像の俺の足をトントンとたたきだした。

『おめえは人間だろ?』そんな感じでトントン俺のブロンズの靴を叩いてきたのだ。

 笑いながらノッポも近づいてきてやはり俺の右足をトントンたたいた。

蛾がさらに俺の顔に舞い降りてきた。

どうやら俺は鳩や蛾に好かれるようだ。
俺は薄目で見つめる事しか出来なかった。

そしていよいよ俺の処刑の時間になったようだ。

恐怖で動けなくなった俺に借金取り2人は笑いながらタバコを押し付けてきた。

俺の靴に……?

俺の靴を灰皿代わりにタバコを押し付け、火を消した。そして足元に捨てた。

 そして2人組はまた公園のトイレの方へ行った。

チビとノッポ、彼らの目はありえないくらいの節穴だった。

そして、2人組は女子トイレに入っていった。

俺はその幸運に感謝した。

今や誰もいない、空っぽの女子トイレに探しに入っていったのだ。

 しかし、奴らはどういうわけか知らないが、俺を本物のブロンズ像だと思っているらしい。あんなに不自然にポーズが変わったのに、まったく気づかれなかった。
 たしかにもう夜中で、薄暗い街灯だけではよく見えないのかもしれないが……。
 そういうことなら、ここでもう少し辛抱しよう。いつまた奴らが女子トイレから出てくるかもわからない。それにこんな真夜中でも探し回る奴らだ。諦める事は決してないだろう。女子トイレにいない事がわかったらもう一度、今度は朝まで俺のボロアパートを張り込むはずだ。そのくらい借金取りは執念深いのだ。

 というわけで、俺は街灯の真下、青田紳士服店の前で蛾にまみれながらブロンズ像になった。

 するとそこへあの黒い妖怪、いや、あのヤマンバギャル2人に連れられた警察官が自転車に乗ってやってきた。
 そして、なにやら話しをしながら女子トイレの方へ歩いて行った。

 もしかして、ヤマンバギャル2人は近くの交番に駆け込み、女子トイレに不審者がいると通報したのかもしれない。不審者とは先程遭遇したブロンズ像の紳士、つまりこの俺だ。
 警察官はヤマンバギャルに促されて一緒に女子トイレに入っていった。

 そこへ偶然にも借金取りの2人組、チビとノッポがちょうど女子トイレから出てきた。
 女子トイレの入り口で警察官と鉢合わせしたのだ。

 ヤマンバギャルは借金取り2人を指差し、騒いでいるように見えた。

『不審者は彼らよ!』

そんな感じで警察官に伝えているようだ。

 借金取りとブロンズ像の男はどう見てもまったく似ても似つかないが、ヤマンバギャルにしたらどっちもどっち、ましてや真夜中の出来事、ブロンズ像の俺と顔を合わせたのも一瞬だ。ハッキリ覚えている方がおかしい。だからこんな真夜中に大の男が女子トイレに入っている、それだけで充分不審者になってしまうのだ。
 お気の毒な借金取りデコボコ2人組である。

 警察官は借金取り2人組に激しく詰め寄っていた。2人組も言い返し、なにやらめちゃくちゃ揉めているのが見えた。

ざまあみろ!

 ところが揉み合っていた借金取りは警察官を振り切って逃げだした。

 すると警察官はヤマンバギャル2人を置き去りにして借金取りを自転車で追いかけて行ってしまった。

 しかし、なんていう幸運なのか……。
警察官が借金取りを追い払ってくれたのだ。

 すると、ヤマンバギャル2人が歩いて俺に近づいてきた。
そしてブロンズ紳士像の俺を見つめてきた。

 ジロジロ見つめてきた。

 2人のヤマンバギャルは笑いながら俺を見ていた。そして首をかしげた。

ヤバッ、俺を思い出した?

女子トイレで遭遇したブロンズ男の顔、『どっかで見たかも〜』そんな感じで思い出したのか?

 すると1人のヤマンバギャルがなぜか俺に触ってきた。嬉しそうに触ってきたのだ。そしてあろうことか、俺のブロンズの腕に腕を絡ませてきた。もしやヤマンバは紳士がお好きなのか?たしかに俺は今、紳士風のブロンズ像だが……、

 するともう1人のヤマンバギャルが笑いながら『写ルンです』をポケットから取り出し、ヤマンバギャルとブロンズ男のツーショットを撮りだした。記念写真でも撮るつもりなのだ。

 パシッパシッ、

 シャッター音は聞こえないが一枚撮るごとにヤマンバギャルはポーズを変えてきた。

ヤバイ、動けない……。

ヤマンバは今度は左腕にぶら下がり、足をぶらぶらさせてきた。

お、重い!
だが動けない…………、
俺は耐えた……、

ヤマンバ、重すぎんだろ!
俺の左腕はプルプルしていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。

ヤマンバギャルの唇が『キスの練習しよう』そう見えた。

嘘でしょ!

嘘ではなかった。

 ヤマンバは目を瞑りながらあの黒い顔を近づけてきた。そして俺の唇にキスしてきた。
逃げられるわけがなかった。

 写ルンですで撮っているもう1人のヤマンバギャルは『キャ〜』ってな感じで大盛上がリだ。

耐えた……。

 俺はヤマンバギャルにキスされた。
何度も何度もキスされた。しかし、舌の侵入だけは口をきつく閉じ、命がけで阻止した。唇が舐められてもそのくすぐったさに耐えた。その場面を写真にたくさん撮られた。

耐えた……。

 そして、写真撮影を交代してもう1人のヤマンバギャルともめでたくキスをした。

耐えた……。

 ヤバイ事にもう1人のヤマンバギャルはふざけて俺の股間を触ってきた。

耐え…………、耐え…………、られな……、

 情けなくも反応してしまった。

 もうダメだ……。

ヤマンバギャルの唇が『銅像って硬いね』と言っていた。

 ひとしきり、ヤマンバギャルは記念撮影に大忙しだった。そして、大盛上がリのまま、笑いながら帰っていった。

 街灯の下に俺は蛾とともにポツンと取り残された。

しかし、今日はなんて日だ!

いろいろな事がありすぎた。

 だが、逆にこれほどの幸運もないかもしれない。なんと言っても、警察官が怖い借金取りを追い払ってくれたのだ。それもこれも紳士好きのヤマンバギャルのおかげだ。

 俺はおかけでボロアパートに無事帰る事が出来た。
とりあえず、今夜は生き延びたようだ。

 翌朝、青田紳士服店の前にヤマンバギャルが再びやってきた。
しかし、そこにあるはずの、あのブロンズ紳士像は消えていた。
 ヤマンバギャルは昨夜キスした自分の唇を触って首をかしげた。その唇は言っていた。
『あれは夢?』

 そして、その開店前の青田紳士服店の前にはたくさんのお客さんが行列を作っていた。その先頭にチビデブがいた。



 俺は恋をした。
叶う事のない恋、片思いだ。
彼女を見た時、俺は一瞬で恋に落ちてしまった。
その彼女は盲目の女の子だった。

盲目の女性に恋する物語といえば…。

 1931年公開のモノクロ、音声のまったくないサイレント映画の傑作、チャップリンの【街の灯】だ。チャップリン映画の中でも1番好きな映画だ。
 それは、チャップリン演じる浮浪者が美しい花売り娘に叶わぬ恋をしてしまう、笑って泣ける、感動的なサイレント映画だ。
 もっとも聾唖者の俺にとっては日常がサイレント映画の世界にいるようなものだが……。

 あれはジメッとした空気が肌に纏わりついていた5月のある日の夕暮れ時だった。

 俺はいつものように、ブロンズ男の仕事を終え、重い荷物を引きずり駅まで歩いていた。
 もちろん、ブロンズ男のままでは不審者そのものだ。例によってブロンズに染められた衣装の上に大きめのコートをまとう。暑いが我慢するしかない。そして、アフロのウイッグを被り、仕上げに顔の大半が隠れてしまう大きくて濃いサングラス、大きめのマスクをしていた。
 これでもまだ怪しい人に見えるかもしれないがブロンズ男よりはマシだ。なんとか電車には乗れるだろう。
 その格好で俺は駅に向かって歩いていた。駅前にはたくさんの人々が行き交っていた。そんないつもの帰り道だった。

 駅近の歩道で1人の女の子がスタンドマイクで歌っている姿が目に入った。もちろん俺にはその歌声はいっさい聴こえない。

 彼女はジーンズに白いTシャツ、そしてトレードマークなのかサングラスをしていた。体の小さな彼女は大きなギターを抱えるように掻き鳴らし、口を大きく開け、一生懸命歌っていた。リズムを取るためにステップを踏み、その度に黒髪が揺れた。
 その彼女の右横には黒いラブラドールが大人しく座っていた。

なんて可愛い女の子とワンちゃんなのか…。

俺は、歌も聴こえないのに立ち止まるようになり、いつしか遠くから彼女を見るようになっていた。

 数回見ていてわかった事があった。
一生懸命歌っている彼女の前にはお客さんが少ない、いつ見ても、みな忙しそうに通り過ぎていくだけなのだ。
 運良く見いだされてデビューできる人なんてほんの一握りなのだろう。

 俺は彼女に会いたくて、用もないのにこの駅前にきては彼女を見るようになった。歌声なんて聴こえないのに聴こえるような気がした。

 次第に近くで見るようになった。

 そんなある日、俺はついに投げ銭をした。彼女が足元に置いてあるギターケースに500円玉を投げ入れたのだ。
 それに気づいたのか、彼女がちょこんとお辞儀をしてくれた。サングラスに隠れて彼女の目は見えなかった。でも、その仕草、その微笑み、すべてが可愛かった。

彼女は20代前半くらいだろうか、
あの年齢だとデビューはもう厳しいのだろうか…。

その後も立ち止まるお客さんは少なかった。

俺はそんな彼女を応援したかった。

 それからもほぼ毎日、夕暮れになるとこの駅前に来て彼女を探した。彼女は週に3、4日はここで歌っていた。

 俺は彼女の歌を聴いた。
もちろん何も聴こえない。
でも彼女の歌声を感じた。
彼女の息吹、彼女の汗、彼女のリズムを感じた。
聴こえないのに手拍子した。
彼女のギターを引く指先に合わせて、彼女がリズムを取ってステップを踏むのに合わせて手拍子した。

テンポがちゃんと合っているかなんて関係ない。その時間が心から楽しかった。

音楽って聴こえていなくても楽しい、素晴らしい!

 ある日、俺は思い切って千円札を投げ銭した。チラッと覗いたギターケースの中にはお金があんまり入ってなかった。

彼女の歌はあんなに素晴らしいのに…。

聴こえもしないのに俺はそう思った。

もっともっとたくさんの人に聴いてもらえれば彼女の素晴らしさがわかるはず……。

そんな悔しい気持ちでいっぱいだった。


スタンドマイクの手前にいつも置かれていたメッセージで彼女の名前を知った。 

イラスト入りの可愛いボードだった。
それで彼女とワンちゃんの名前がわかった。

彼女の名前はココ。
そしてワンちゃんのモモ。

なんて可愛いい名前なんだ。
『私はココにいるよ!』
そう呼びかけているように感じた。

かわいすぎる!名前もかわいい!全部かわいい!

 俺はますます彼女のファンになった。そして自分の大道芸の少ない稼ぎの中から出来るだけ投げ銭するようになった。

30男のバカな恋と思われてもいい、
恋人になんかならなくてもいい、
俺のような聾唖者、何事も半端な男、まして俺のような前科者が彼女の恋人になれるなんて元々無理な相談だ。そんな事は百も承知している。ただ見ているだけでいい。

俺は彼女を応援する事に決めた。
彼女の為にもっともっと投げ銭したい、
その為にはもっとたくさん稼がなければ……。

俺は昼のパフォーマンスの時間を大幅に増やした。

その努力は早くも報われた。

ものすごい幸運が訪れたのだ。

 その日、俺は初めての場所、初めての駅前でハットを被った紳士の彫像になりきっていた。でも夕方までの稼ぎはイマイチだった。
 辺りも夕暮れに染まり『今夜も発泡酒か…』そう諦めかけていた夕方5時過ぎだった。

 仕事帰りっぽいサラリーマン風の男が投げ銭入れの帽子になんと財布を投げ入れたのだ。

千円札、五千円札ではない、
財布そのもの、財布まるごとだ!

でもまじか!

 俺は呆気にとられながらもちょこんとロボット風にお辞儀して見せた。するとその男はニヤリ笑ってすぐに人混みに消えてしまった。一瞬だった。その神様みたいなサラリーマンはあっという間に雑踏に消えた。

 しかし、あの男性はいつから俺のパフォーマンスを見ていたのだろう?

 俺は近くに寄ってくる人々は常に観察していた。そのお客さんの反応を見ながら、わざとちょっと動いて見せたりする。
 例えばお客さんがちょっと後を振り向いた瞬間に持っている杖でそのお客さんの肩を軽く叩く、ビックリしたお客さんがキョロキョロする、その反応を見ていた周りのお客さんがクスクス笑ったりする……。そんな面白い演出も出来るのだ。
 だから常に周りを観察していた。投げ銭してくれたお客さんはどの辺で見ていたのか、どんな反応をしていたのか、だいたいわかった。
 しかし、さっき、財布ごと投げ入れたサラリーマンには全然気がつかなかった。 

 でもそんな事はもうどうでもいい。
きっとちょっと遠くで見ていたのだろう。
 それにしても財布ごと投げ銭するなんて太っ腹なお客さんもいるもんだ。まるで神様だ。たしかに不要になった古い財布なのかもしれない。でも財布ごと投げ入れられたのは初めての経験だった。

 俺はすぐさま休憩をとって興奮しながら財布の中身を確認した。

ものすごい大金が入っていたらどうしょう!
いやが上にもそんな期待が膨らんだ。

そして……。

中身は空っぽだった……。

なんてことはない、あのサラリーマンは神様でもなんでもなかった、ただ古い財布を投げ捨てただけなのだ!

クソッ、期待させやがって!
帽子はゴミ箱じゃない!
俺はバカにされたのだ。

 頭にきたのでその財布を、その日の夜に近くの質屋に持っていった。
 グッチかなんか知らないがかなり古そうだし、それでもとりあえず数百円にでもなればいい……。そんな軽い気持ちだった。

 質屋の高齢のヨボヨボ爺さんがその財布を何度もひっくり返しながら拡大鏡で顔をしかめて見ていた。
 そして、ジロっと俺の方も見て、ブツブツ何か独り言を呟いた。しかし、ブツブツすぎて唇がまったく読めない。

きっと『こんなショボい物、持ち込むんじゃないよ』そう言ってるような気がした。

 そのヨボヨボ爺さん、また財布を見たかと思ったら首をかしげてまたまた俺を見た。そしてまたまたブツブツ独り言。

 もしかして、アフロにサングラスの俺が怪しく見えたのだろうか。もしかしなくても充分怪しいが……、俺はまともな人間だという事を身振り手振りでアピールした。

 するとヨボヨボ爺さんが俺の目を何度も指差した。

 サングラスを外して顔を見せろ、ということらしい。

それはまずい、非常にまずい、なぜなら俺の顔は濃い茶色、つまりブロンズ像そのものだからだ。

 するとヨボヨボ爺さん、やはり口からマスクも取れ、というようなジェスチャーもしてきた。
 ますますまずい、マスクを外したら顔面ブロンズ男が登場してしまう。こんな所で公開するのはまずい、それではあまりに怪しすぎるからだ。
 でも、俺は考え直した。だってそうだろう、俺はなんにも悪い事はしていない!もらった財布をただ換金しようとしただけだ。
 俺は意を決してサングラスをとり、マスクを外した。

 ヨボヨボ爺さんが椅子からひっくり返った。その場で……。

 俺は急いでヨボヨボ爺さんから財布を奪い返すと、質屋を飛び出した。そして夜の人混みに紛れた。

クソッ、なんで逃げなきゃならない?
そう思ったがどうしょうもない。

 そして、俺は急いでボロアパートに帰り、ブロンズ風のドーランを30分かけて綺麗に落とし、ブロンズ衣装を脱ぎ捨て、カジュアルな普段着に着替え、今度は別の質屋へ行った。その質屋はさっきのヨボヨボ爺さんより、はるかにヨボヨボだった。持ち込んだ財布を見ながらその超ヨボヨボ爺さん、拡大鏡を覗きながら途中で寝ていたし……。質屋の業界も後継者問題で悩んでいるのかも……そんな事まで考えてしまった。そして……、

奇跡が起きた!

その超ヨボヨボ爺さんからなんと5万円もらったのだ!

よくわからなかったがあれはすごいレアなブランド財布だったのだ!なんてラッキーなんだ!あのサラリーマンは神様だった。俺はこの信じられない幸運に感謝し、心の興奮を見せない様に小躍りした。そして、その5万円をビニール財布に即しまい、逃げる様にその場を離れた。
 もしかして超ヨボヨボ爺さんが5千円と間違えて5万円渡したのかも……。それくらいの超ヨボヨボ爺さんだったのだ。

間違いに気づかれないうちにとっととこの質屋を離れるのみだ! 

俺は人混みをすり抜け、走って逃げた。


 そして、次の日から、このお金のほとんどをココちゃんに投げ銭した。一度に全部ではない。毎回少しずつ少しずつだ。
 ココちゃんはいつもちょこんと必ずお辞儀をしてくれた。

嬉しかった。

でも、それだけではまだ足りない。
もっともっと応援したい!

 俺はパフォーマンスで使うメッセージボードに応援メッセージを書いて見せる事にした。

 俺はそのボードを振りながらココちゃんを応援した。しかし、彼女はそのボードにはいっさい反応を示さなかった。

やりすぎたのかな…、これは迷惑なんだろうか?

 よく考えたら、パフォーマンス帰りの俺は暑いのに黒いコートを着てサングラスにマスク姿だ。

普通に考えたら怪しすぎる。

これでは、危ない奴、と思われていたとしてもしかたがない。変な奴に目をつけられた…、下手したら、あのサングラスの男ってストーカーかも……、なんて勘違いされ、怯えているのかもしれない。 

こんな応援、あまりやりすぎない方がいいかもしれない。

それでも俺は彼女の近くにいたかった、彼女を見ていたかった。だから次からは投げ銭する時だけ近づくようにした。そして、投げ銭をしたらすぐその場を離れた。

 俺はその後も投げ銭をやり続けた。
日に日にその金額は大きくなっていった。
あの5万円もあっという間になくなった。
 それからは唯一の楽しみだったビールも控えて投げ銭に出来るだけ回した。
 彼女は俺がギターケースに投げ銭する時だけ、いつものようにちょこんとお辞儀をしてくれた。
 所詮、お金なのか……、そんな淋しい気持ちになる時もあったが、それでも彼女の事が好きだった。

 それからも俺は投げ銭をし続けた。

 最近は彼女の横に大人しく座っている黒いラブラドールのワンちゃん、モモの為にと、ドッグフードも投げ入れるようになった。それを見たモモもなんだかお礼をしているようにうなづいてくれた。

 でも、いつ見てもギターケースの中には投げ銭はほとんど入っていなかった。

 その日もいつものように投げ銭をして、すぐその場を離れようと立ち上がった。

 するといきなり彼女に腕を掴まれた。

俺は慌てた!

彼女に怒られる!

なぜかわからないがそんな気がした。
だからすぐに謝った。とにかくペコペコ頭を下げながら何度も謝った。

危ない男に付きまとわれている! 彼女はそう思っているかもしれないのだ。

ただ聾唖者の俺は上手く喋れない。彼女にはそんな俺の呻くだけの謝罪がどんな風に聴こえているかわからなかった。それはただの呻き声、それならまだいい、最悪、怪物が唸っているような不気味な音かもしれない。

 うなだれながら彼女から離れようとすると、彼女に俺の服の袖を何度も引っ張られた。

 なにか伝えたい事があるらしい。でもそれはたぶん、最終警告、立ち入り禁止宣告に違いない。
 よく考えればわかることだ、こんなサングラスにマスク姿、しかもクソ暑いのにコートを着ている不審者のような男が彼女の近くを毎回毎回ウロウロしていたら、他のお客さんだって寄ってこない……、
 そうなのだ、俺は不審者、邪魔者なの、彼女の敵なのだ。

 俺はうなだれながら恐る恐る彼女の口元を見た。彼女はしきりに何かを叫んでいるようだった。その唇が見えた。

『待って!待って!』

そうも見えたが……、ハッキリとは見えない。
もう一度口元をよく見た。

『ありがとう、いつもありがとう』

今度はそう言っているのがハッキリ見えた。

 そして彼女はワンちゃんを呼んだのか、黒いラブラドールがのっそり立ち上がり、俺のそばまで来た。
 彼女はラブラドールのモモを撫でた。そして、掴んでいた俺の腕をモモの頭に導いた。

 ラブラドールを撫でてあげて、そんな感じだ。

俺は恐る恐る撫でた。
大人しくてかわいいワンちゃんだった。

そして気づいた!

その黒いラブラドールにはハーネスが付いていた。
盲導犬だったのだ。

という事は、彼女は盲目。
彼女は盲目の路上シンガーだったのだ!

だから俺が書いて見せた応援メッセージには何も反応しなかったのだ。

俺は避けられていたわけではなかった。
怪しまれていたわけではなかった。

しかし、こんな事になんで今まで気がつかなかったんだろう。よく見ればすぐわかったはずなのに……。

彼女の口元をもう一度見た。
かわいい彼女の唇が動く。柔らかい唇が微笑みながら動く。

『ありがとう、また来てね』

そう言っているのがハッキリ見えた。

もうそれだけで充分だった。
どのみち、俺の恋心が実るはずがないことは百も承知していた。俺はうだつの上がらないその日暮らしの大道芸人の端くれ、しかも前科持ちだ。さらに彼女は20代前半の若さだ。もう30半ばも近いくたびれた男なんて鼻から相手にされるわけがない。だから近くで見ているだけで良かった。それだけで幸せだった。

 すると彼女は俺の体を触ってきた。俺は固まってしまった。彼女のなすがままだ。服の上から腕、そして顔、顎、耳、鼻、唇を順番にやさしく確かめるようにゆっくりゆっくり触ってきた。

 彼女の唇が可愛く動いた。

『覚えたわ』

 そう見えた。

 すると、そこへ20代くらいの若い男の人がやってきた。
 その若者はカラフルなスタジャンに今流行りなのだろう、ヒザ下に破れがあるダメージジーンズを穿いていた。しかも尻まで下げて履いていた。

 そのスタジャン男は彼女の頭をポンポンすると『調子はどう?』みたいな感じで、さらにお尻も当たり前のように撫でていた。
 なんだか彼女も微笑んでいて嬉しそうに見えた。

そうなのだ!
彼女にはちゃんと彼氏がいたのだ。
あんなにかわいい彼女だ、彼氏がいないはずがなかったのだ。

 スタジャン男はタバコに火をつけながら彼女と笑いながら談笑中だ。
 
これではお邪魔虫になっちまう。

俺はもう帰ろうと立ち上がった。

 すると、スタジャン男が俺に話し掛けてきた。
しかし、早口すぎて唇が読めない。
その表情は笑っているようだが、怒っているようにも見えた。

 俺は戸惑った。
でも、彼氏も登場したことだし、俺がいつまでもこの場所にいるのはおかしい。そう思い、ペコペコしながら退散しようとした。
 しかし、帰ろうとすると、また彼女に腕を掴まれた。

 彼女の唇が『待って!』と言っていた。

 その横でスタジャン男がギターケースから俺が先程、投げ銭したばかりの5千円札を掴み、その5千円札を俺の目の前で何度も何度も振って話し掛けてきた。

やはり早口すぎて言葉が見えない。

スタジャン男の唇は『この五千円はお前か?』そう言っている、と推測した。だが合っているかはわからない。

たしかにギターケースの中にお札は5千円札1枚しか入ってなかった。それは俺が投げ銭したものだ。彼女にはわかっていたのかもしれない。

 でも俺は戸惑い首をかしげた。

 すると、スタジャン男が自分の耳を何度も指差し、さらに顔の前で大きなバッテンマークを作る動作をした。

 首をかしげていると、スタジャン男はその動作を何度も繰り返した。最初に俺を指差し、さらに、

 耳、バッテン、耳、バッテン、耳、バッテン、そのジェスチャーを繰り返した。

それでわかった。

『お前、耳、ダメ?』

 スタジャン男が何を聞いても俺が首を傾げ、まともな言葉も話さないので、きっと気づいたのだろう。俺が聴覚障害者だということに……。

 俺はうなづいた。

 するとスタジャン男は大笑いした。
そして、彼女にその事を伝えているようだった。

 すると、彼女は気配がするのか、俺の方を振り返りちょこんと頭を下げた。何度も何度も頭を下げた。
 
5千円くらい、どうってことない、
そんなに感謝されても……、これは俺が好きでやっているだけなんだから……。

 俺は思いついてボードにメッセージを書いてスタジャン男に見せた。

 彼女に俺のメッセージを伝えてほしかったのだ。

 それを見たスタジャン男がなぜか今度は怒ったように俺のボードをひったくり、消してから何か書いて俺に見せた。

『違う違う!』俺は首を大きく何度も振った。
 
 俺はスタジャン男に誤解されていた。
何度もオーバーアクションで『違う違う!』とジェスチャーして誤解を解こうと焦った。

 スタジャン男は怪訝な顔で再びメッセージを書いて俺に見せた。

 好きだ……。ココが好きだ……。

 俺は唖然とそのボードを見つめていた。そして一瞬『うん、好きだ。』そう、うなづきそうになった。

スタジャン男が詰め寄ってきた。

 俺は我にかえって、慌てて否定した。オーバーアクションで『違う違う、そんなんじゃない!』そう何度も伝えた。

 スタジャン男がそのイケメン顔を俺の顔の真ん前まで近づけてきた。そして俺のサングラスが外された。

目を見開くスタジャン男、

俺の茶色いブロンズ顔が見られてしまった。まだブロンズ像のドーランが完全に落とし切れていない、怪しいブロンズ男そのものの顔をスタジャン男に見られたのだ。

 スタジャン男が笑いながら怒り出したのがわかった。『やべえやつ』スタジャン男の唇がそう怒鳴っていた。

 俺はボードを奪い返し、素早く書いて見せた。

 それでもスタジャン男は疑わしい目を俺に向けて罵ってきた。

 彼の気持ちもわかった。
音楽も聴こえないのに、高額の投げ銭までする人なんていない、これでは下心があると思われてもしかたがない……。さらにその男は顔がブロンズ風の変な男なのだ。

 俺に詰め寄り罵るスタジャン男に彼女が何か叫んでいるのが見えた。そして、俺を罵るのをやめさせようとしてなのか、スタジャン男の腕を引っ張っていた。

 そして彼女は、俺の気配のする方を見て何度も頭を下げた。
 そして、手で何か書くジェスチャーをした。

 耳の聴こえない俺に筆談で何かを伝えたいらしい。

 俺はさっきのメッセージを消してから彼女にボードを手渡した。
 彼女はそれを手探りで受け取り、手探りで文字を書き始めた。

 俺はそのボードを返してもらうと、駅の改札まで逃げる様に走った。嬉しいのと、彼氏がいるんだ……、というショックな気持ちがない混ぜになっていた。
 そして、俺が言葉もまともに話せない聾唖者だという事が彼女についにバレてしまった。
 これで俺がただの傍観者という立場が決定的になった。
 それでも俺は彼女を見ていたかった。

 俺は昼のパフォーマンスを終え、またいつものようにココちゃんの路上ライブを見に来ていた。もちろん、ブロンズ像の自分を隠す為に黒い大きなコート、アフロのウイッグ、サングラスにマスクという怪しい姿だが……。

 比較的早めの時間だとスタジャン彼氏は現れない。だからいつもより少し早めに行った。

 そして、一生懸命歌っている彼女の足元、ギターケースに近づいた。
今日もなけなしの千円札1枚とドッグフードを入れるのだ。

 その時……、

 こっちに警察官が近づいてくるのが見えた。その横にはヨボヨボの爺さんがいた。
その爺さんはしきりに俺を指差している。

なんなんだ、あの爺さん?
俺に用があるのか?

 俺は爺さんをサングラスの中から注視した。

あれっ、あの爺さん、どっかで見た事あるかも?

あっ、あのヨボヨボ爺さんは質屋のじじいだ!

嫌な予感がした。

 俺は急いでギターケースになけなしの千円札1枚とドッグフードを投げ銭した。

 彼女がペコリとお辞儀をした。

 そして、俺は急いで立ち去ろうとした、

 遅かった……、

 警察官が俺の肩をたたいた。
そして、職質がスタートした。
隣でヨボヨボ爺さんがなにか喚いている。
近くにいたココちゃんがこっちの気配に耳をそばだてているようだった。

これは気まずい……。

 耳が聴こえない為、なかなか話しが通じない俺を見て警察官が苛立ちを見せた。俺が何を聞かれても知らんぷり、無視してのらりくらり警察の質問をかわしているように思われていたのだ。
 だが俺は必死のジェスチャーで自分が聾唖者であることを伝えようとした。しかし、やればやるほど、若い警察官は頭にきているようだった。俺が聾唖者だ、というのは、逃げ切る為の口実、警察をバカにしている、そう思われていたのだ。

これはもうコント、三文芝居だった。

 すると側で聞いていたココちゃんが若い警察官に声を掛けた。警察官はココちゃんとなにか話し始めた。
 ココちゃんは『俺が本当に聾唖者だ』ということを伝えているのがわかった。

 警察官がもう一度俺に向き直り、なにかペンで書くジェスチャーをしてきた。
筆談したいらしいことがわかった。

 ココちゃんのおかげでようやく俺が聾唖者だという事を信じてくれたようだ。

 俺はいつものボードを警察官に渡した。
警察官がなにか書いて俺に見せた。

 俺は唖然とそのメッセージを見つめた。

あれれ、俺……、もしかして疑われてる?
しかもスリ……?スリって何?

 警察官は疑い深そうに俺を睨むともう一度ボードを、今度は書いたばかりのメッセージをコンコンたたきながら見せてきた。

なんてことだ!やはり俺はスリの犯人と勘違いされている!

なぜ?
どうしてこうなる?

もしやあのグッチのレア財布…?あの時の…。

ヨボヨボ爺さん……質屋の爺さん……?

なんとなく状況がわかってきた。

 俺は必死に否定した。これは誤解だ……。あたふた否定した。否定すればするほど怪しく思われた。

 しかし、落ちついてよく考えればわかることだった。
 あの日、スリの犯人は中身だけ抜いて、財布だけ投げ銭していったのだ。つまり、あの日、あの時、一瞬現れた神様、いやサラリーマンこそがスリの犯人だったのだ。

 ヨボヨボ爺さんの唇は『この人で間違いない』ハッキリそう見えた。

 俺は身振り手振りで必死に『違う違う、俺はスリじゃない!』そう訴えた。

 だが、何をどうやっても無駄だった。
盗品の財布を質屋に持っていったのは事実なのだ。そして、その姿をヨボヨボ爺さんにハッキリ見られていたのだから……。

 俺はその場で捕らえられ、警察官に連行されてしまった。それも彼女の目の前で……。
 そして、警察官とヨボヨボ爺さんの会話は彼女の耳にも聴こえていたかもしれない。

 これで彼女に、俺はチンケなスリ、しょうもないこそ泥、ゴミ以下の人間だと思われてしまったことだろう。

 振り返ると、彼女の顔が泣きそうに見えた。


 そして3日後、俺は疑いが晴れてなんとか釈放された。

 しかし、こんなこそ泥が路上ライブの応援なんてしていたら彼女にもきっと迷惑だろう。それに彼女にはれっきとした彼氏もいるのだ。どのみち勝ち目のない恋、未来など望めない恋だったのだ。

 しかし、それでも、どうしてもこんなクズ男でも、俺は彼女を見ていたかった。

 だから俺は遠くから彼女が歌う姿を見るようになった。ただし今までのようなパフォーマンス帰りの怪しい姿ではない。ボロアパートに一旦帰り、30分かけて体のドーランを落とし、ブロンズ像から出来るだけ普通の人間に戻るようにした。そして、普通の服に着替え、彼女の近くに現れたのだ。その為に、いつもよりだいぶ早くパフォーマンスの仕事を終える必要があったが……。それでも時間が遅くなってしまい彼女の路上ライブも終盤に見る事が多くなっていた。

 でも素顔なら近づいても気づかれないはずだ。

 俺は彼女に呼び止められないように、彼女がまだ歌い終わらないうちに、ギターケースに近づき、投げ銭やドッグフードを投げ入れ、そして、逃げるようにその場を立ち去った。

 背中にココちゃんがなにか呼んでいる気配は感じたが、気づかぬフリで立ち去った。

 駅の入り口手前で振り返ると、彼女はまだ歌っていた。
 立ち止まるお客さんはほとんどいないようだった。
 
 彼女も苦労しているのだろう。
盲目のシンガー、ただそれだけで売れるほどその世界は甘くないのだ。だからこそ、もっと近くで応援したい。でも俺に出来るのはチマチマ投げ銭することだけだった。

 すると、以前見たスタジャン彼氏がココちゃんの前に現れた。だいぶ遅い時間だ。
 その彼氏はおもむろにギターケースを覗くと、中のお金を数えだし、自分のポケットになんと入れ出した。

 その後、ココちゃんと彼氏がなにか言い争っているようにも見えた。

 その時は、ただのカップルのケンカだろう、それくらいに思っていた。

 しかし、次の日の夜もまたその次の日の夜も同じ光景を見た。

 スタジャン彼氏は毎夜、遅い時間に現れては、ココちゃんが必死に稼いだ投げ銭を、俺が苦労して投げ銭したお金ももちろん入っている、それを全部巻き上げていくのだ。
 その時のスタジャン彼氏はココちゃんをなだめているようにも見えたし、時には言い争っているようにも見えた。

なんてヤツだ!

俺は確信した!

スタジャン彼氏はとんでもないひも男だ!
あんなダメ男がココちゃんの彼氏だなんて! 
あんなひも男のいったいどこが良いのか?
しかも最近はケンカばかりしているようにも見える……。

 俺はどうしようもない怒りが湧き上がってくるのを感じた。しかし人のことは言えない。彼女には、俺はチンケなスリ、犯罪者と思われてるはずだ。実際、前科者だが……。
 そして、俺は彼女の何者でもない。いつものように遠くから彼女を見守る事しか出来なかった。

 雨に降られると、俺のような路上スターチュパフォーマーはお手上げだ。
しかたない、こんな日はパチンコにでも行くとするか……。

 俺は昼過ぎから家の近くのパチンコ屋へ行った。耳が聴こえなくてもパチンコは出来るのだ。勝手に当たって勝手に玉が出てくる。

しかし今日はまったく当たらない。

 イライラしながら数字を背負ってニコニコしながら泳ぐお魚達を眺めていた。
 すると、俺の顔に煙が纏わりついてきた。
タバコの煙だ。

クソッ、誰だよ!

 俺は煙の元、横に座るクソ男を忌々しそうに睨んだ。

なんとあのスタジャン男だった。

そのスタジャン男はイライラしながら台を叩き、しきりに店員を呼んではなにか怒鳴っていた。

コイツ、とんでもない男だ!
マナーもヘッタクレもない、
こんな奴がココちゃんの彼氏だなんて……、
ココちゃんがあまりにもかわいそすぎる。

しかし、今の俺にはどうする事もできない。


 それからも度々、パチンコ屋でスタジャン男に遭遇した。

梅雨のせいか、数日、雨が続いたのだ。

 スタジャン男はいつもイライラしていた。
台を叩き、店員に文句をつけ、時には出ているお客さんにも悪態をついていた。

なんてクズ男なんだ! 
それに、仕事はどうした!
パチンコの軍資金はどこから出てるんだ!

俺は気づいた。

スタジャン男の軍資金はココちゃんの金だ。彼女が一生懸命歌って得た投げ銭をあのひも男はなんだかんだ言いくるめて巻き上げているんだ!

俺だって偉そうなことは言えないが、少なくとも自分で食べるくらいはなんとかしてるつもりだ。

 スタジャン男は隣に座る俺の顔を見てニタリとした。

 どうやら当たったらしい。
3番を乗っけたカメが3匹並んでダンスを踊っていた。

 スタジャン男は俺のことはわかっていないようだった。そうなのだ、今の俺は素顔だ。アフロでもないし、サングラスもマスクもしていない。俺がココちゃんを応援している怪しい男だと気づかれるはずがないのだ。

 それにしても彼女があまりにもかわいそうだ。盲目でただでさえ大変なのに、なんでこんなクズ男と一緒にいるのか?

俺だって偉そうな事は言えないが……、

しかし、俺は悟っていた。

世の中とは往々にしてそういうものだって事に…。

 目の見えない彼女はかわいいので、たまたまあの男にやさしくされた事があるのだろう。障害者というのはその優しさをなかなか忘れられないものなのだ。

 鬱々とした怒りは湧いたが、しかし、だからといって、俺にはもうどうする事もできない…。

 梅雨の晴れ間、俺はスターチュパフォーマーの仕事を早々に切り上げ、またココちゃんを見に行った。そして、いつものように遠くから見ていた。

 夜の7時を過ぎた頃、やはりあのスタジャン男がやってきた。そこにはもう1人、縦縞の高そうなスーツを着た背の高い男も一緒だった。

 ココちゃんとスタジャン男、そして縦縞スーツの男はなにやら3人で話し始めた。

 縦縞スーツの男、
彼はどう見ても怪しい男だった。
ヤクザ崩れのような雰囲気をそこかしこに漂わせていた。

なんなんだ、あの怪しい男は?

しかし、ココちゃんには見えないのだ。

それどころか、縦縞の男がなにか言う度にココちゃんが笑っている。

 さらにスタジャン男とココちゃんは2人で縦縞スーツの男にペコペコ頭を下げ、握手までしていた。

あんな怪しい奴、知り合いなのか……?

でも人は見かけによらない、俺の考えすぎかも……、それでも縦縞スーツの男にはどうしても反社のようなヤバイ雰囲気を感じてしかたがなかった。

 俺は通行人を装って3人が談笑しているその場に近づいていった。もちろん、彼らの話し声はまったく聴こえない。

 近づいた時、縦縞スーツ男の顔がチラッと見えた。

顎髭男だ?

あれっ?あの男、前に見たことあるかも!

俺は顎髭男を睨むように注視して、思い出した。

前にアダルトビデオの割引券をくれた男だ!

縦縞スーツの顎髭男はAV女優白石愛奈と一緒にいた男、AV製作会社の男だ!

しかし、なぜそんな男がココちゃんと談笑している?

そして、考えられる事はひとつしかなかった。

まさか…………!

もしかして、ココちゃんをAV女優に誘っている?

でも彼女がAV女優やるなんて想像つかない……、

それならなぜ?

俺は確信した。

 あのクズのスタジャン男、ひも男の彼氏がココちゃんを借金の方にAVに売ろうとしたに違いない。もちろん、いきなりAVの話はしてないはず……、近々の歌手デビューを目指して、まずはモデルからスタートしよう……、とか、うまい事を言ったに決まっている!

だから彼女は笑顔だったのだ。
AV女優にさせられる、なんて一ミリも思っていないのだ。

事務所にスカウトされた、そして、いずれ大好きな歌でデビューできる!

そう信じているに違いない。

ココちゃんは騙されている!

 ココちゃんはギターケースにギターをしまい始めた。スタジャン男も話がまとまったのか、笑顔でそれを手伝っている。縦縞スーツの顎髭男は近くに停めてあった車、真っ黒のクラウンを指差していた。

 このままではココちゃんがクラウンでどこかに連れていかれてしまう。もう逃げ場のない事務所に連れ込まれて、わけのわからない契約書にサインさせられ、すぐにカメラテストだと言って、モデルの真似事をやらされ、なんだかわからないうちに服を脱がされ、最後にはAV撮影になる……。

 俺の負の想像力は終わりがなかった。彼女はその負の連鎖から逃れようもなく追い込まれてしまう。最後には彼女が絶望の涙を流し、そして…………。まして彼女は目が見えないのだ。負の連鎖から1人で逃げられるわけがない。 
 スタジャン男はココちゃんのことなど最早どうでもいいのだ。ただの金づる、ただの道具だとしか思っていないんだ!だから借金のかたに、言葉巧みに彼女を騙したに違いない!

ココちゃんを……ココちゃんを助けなければ! 

 タバコをふかしながらニヤニヤ談笑している縦縞スーツの顎髭男。俺は意を決してその顎髭男の前までふらふらと歩いていった。そして奴の目の前で立ち止まり奴を睨んだ。

『てえめ〜、誰なんだ?』

顎髭男はそんな目をして俺を見返してきた。

俺は叫んだ!

『ココちゃん騙されてる!AV撮られちゃう!』

そう言ったつもりだが、彼らにはただ唸っているだけにしか聴こえなかっただろう。

顎髭男はキチガイにでも絡まれた、と思ったのか呆れたように笑いだした。

それでも俺は叫んだ!唸った! 
言葉にはならなくても力いっぱい叫んだ!

『ココちゃん逃げて!』

俺はそう唸り、顎髭男に掴みかかリ、ココちゃんの方を見た。

ココちゃんがサングラスを外した。
唸り声が届いたのか、俺と目があった。

その唇が『アナタなの?』そう見えた。

俺の唸り声で彼女は気づいたのだ。
俺がよく投げ銭してた男、聾唖者の男、スリ犯人の男、だって事に……。

顎髭男は俺の襟首を掴み、威嚇してきた。
やはり公衆の面前では大っぴらな暴力や大声は避けたいのだろう。
ツバを吐きながら俺の耳に何か囁いたようだ。

俺には聴こえないのに……。
だが、そのタバコ臭い息に顎髭男の苛立を、激しい怒りを感じた。

周りの人々が目をそらすように、足早に逃げるように通り過ぎていく。

俺はココちゃんを見てまた唸った。

『ココちゃん、逃げて!』

しかし、俺はただ唸っているだけだ。

『あっち行け!』

そんな感じで俺は顎髭男に突き飛ばされた。

スタジャン男も俺を威嚇してきた。

突然、わけのわからない優男が怖い物知らずで因縁をつけてきた、そんな風に思われていたのだろう。

なぜなら、俺の素顔は彼らにはバレてない。
ただ、彼女には、ココちゃんだけには俺の唸り声で俺の正体がわかってしまったかもしれない。

何としても彼女に真実を伝えなければ!
でも、俺の唸り声は伝わらない、ボードに書いても彼女には見えない、

どうすれば……、

こうなったら顎髭男を追い払うしかない!

俺は筆談用のメッセージボードを出し、書いて見せた。なぐり書きだ。

 そのボードを顎髭男とスタジャン男に見せた。

 それを見た奴らは苦笑いしながら俺を小突いてきた。

『勘違いだ』
『いい加減なこと言うな!』

 顎髭男の唇がそんな風に見えた。

 俺は諦めなかった。
ボードを振りかざし、周りにも聴こえるように叫んだ。

 もちろん、ただの怪しい唸り声かもしれない。でもそれでも叫ばずにはいられなかった。

 業を煮やしたのか顎髭男が俺に近づき、周りに見えないように俺の腹に膝を食い込ませた。

 俺は声も出せずにくの字に折れた。

それでも諦めなかった。

 顎髭男が『あっち行け!』とでも言うように俺をさらに小突くと、ココちゃんの手を引っ張リクラウンに向かって歩き出した。ココちゃんもギターケースを担ぎ、そして盲導犬のモモちゃんも大人しく横に並んで歩いていった。

 道端にくの字に折れて倒れていた俺は焦った。

 このままではココちゃんが連れていかれる!近くに停めてある黒のクラウンに乗せられたらおしまいだ。

クソーーーっ!

 俺は最後の力を振り絞り、立ち上がった。そして、立ち去る男達とココちゃんを追いかけた。
 なんとか追いつき、後からココちゃんの腕をぐいっと掴むと逆方向に走り出した。

目の見えない彼女には恐怖だったはず……、

でも、そんな事、言ってられなかった。

俺は人混みにぶつかりながらココちゃんの腕を引っ張って走った。

逃げるのだ!

 しかし、ココちゃんは思ったように走ってくれない。盲目のココちゃんは暗闇の世界にいるのだ。見えない人混みにどうしてもぶつかってしまう、それは恐怖に決まっている。ついにココちゃんは恐怖でしゃがみ込んでしまった。

すぐに俺は顎髭男とスタジャン男に捕まってしまった。

それでも俺は諦めなかった。

 俺はココちゃんが肩に掛けていた大きなギターケースを咄嗟に外し、それを振り回していた。助ける為に無我夢中だった。

ギターケースが男達にバコバコ当たる。
そして、俺はさらに喚いた。

辺りは騒然となった。

 野次馬がたくさん集まってきた。
それでもギターケースを振り回し、男達をバコバコ叩くのを止めなかった。

 ついに騒ぎを聞きつけた警察官が2人やってきた。そして、暴力を振るっていた俺はあえなく警察官に取り抑えられた。
 それでも俺はすかさず、警察官にさっきの【ココちゃん、AV撮られる!】と書いたボードを見せ、あの顎髭男を指差した。

 顎髭男はココちゃんに何か話し掛けていた。その目は怒っていた。

『残念だがデビューの話はなしだ!』

顎髭男の唇がそう見えた。
俺はアイツらを何度も指差し、警察官に必死に訴えた。

 しかし、顎髭男とスタジャン男は警察官に気づくと、知らないフリをして人混みに紛れて逃げていってしまった。

 ココちゃんと俺、そして盲導犬のモモがその場に取り残された。

 ココちゃんと俺は警察官にいろいろ聞かれた。

 俺は警察官に身振り手振りで唸りながらココちゃんの危機を訴えたが、まったく伝わらない。
 むしろ、傍目には気の狂った男が見も知らない赤の他人にギターケースを振り回して暴力を奮った、そう見えていても仕方なかったのだ。

 聾唖者の為、なかなか話の通じない俺に嫌気がさしたのか、警察官は今度はココちゃんと話し出した。
 彼女は泣いていた。そして、警察官に謝っていた。

 チラッと見えたその唇は『なんでもない。ただのケンカだから』そう見えた。

ひとしきりココちゃんと警察官は話しをしていた。ココちゃんは何度も警察官に謝っていた。納得したのか、警察官は帰ってしまった。

でも、兎にも角にも良かった。
彼女は助かったのだ。
AV女優に売られるのを防ぐ事が出来たのだ!

 しかし、彼女の唇、彼女の態度は俺を罵っているように見えた。泣きながら俺を非難していた。

なぜ?
助けたのに?

 彼女があまりにも怒っていて、早口すぎて、俺に何を伝えたいのか、その唇が読めなかった。

 よく見ると、俺がさっきまで振り回していた彼女のギターケースがボコボコに割れて無惨にも路上に落ちていた。蓋が開き、中のギターも壊れてしまったかもしれない。

 なんて事をしてしまったんだ…。
彼女が怒るのも無理なかった、
俺は彼女の大事な物をボコボコに壊してしまったのだ…。

 彼女はずっと俺の気配のする方を向いて俺を罵っていた。

彼女の言葉を受け止めよう…。

俺はそう思って、彼女にメッセージボードを手渡した。

 ボードを手渡された彼女は手探りで何かを書き出した。泣きながら書いていた。

そして、そのボードを俺の気配がする方に投げた。

ボードは路上に転がった。

そして彼女は壊れたギターケースを肩に担ぐと、ラブラドールとともに去っていった。

 1人取り残された俺は唖然としながら、目の前に投げ捨てられたボードを拾った。
それにはこう書いてあった。

 彼女はまだわかっていなかったのだ。
今でも本気でデビューできると思っていたのだ。だから俺はそれを邪魔した人間、大切なギターだけでなく彼女の夢までも壊した人間、そう思われてしまったのだ。

 次の日から彼女は路上に現れなくなった。

夢を壊した男、チャンスを潰した男にはもう会いたくないのだ。

俺の恋は完全に終わった。

始まってもいなかったが……、

片思いで良かった、見ているだけで良かったのに…………。それすらももう叶わない……。


 その日も俺は彫像、ブロンズ像になっていた。この日はハロウィンフェスティバルのイベントに呼ばれていた。

 東京都の外れ、多摩市の多摩センター駅からメインストリートを真っ直ぐ歩いて5分、メインストリートの先、奥の公園に繋がる大階段の手前の広間で俺はブロンズ像になっていた。

 メインストリートはカボチャのオブジェや色とりどりのランタンや飾りでいっぱいだ。屋台もたくさん出ていて、メインストリートは老若男女、たくさんの家族やカップルで溢れかえっていた。ハロウィンの仮想大会もあるらしく、魔女の衣装に変装したかわいい女の子達もたくさんいた。

 まさにハロウィン一色、歩くだけでワクワクが止まらない。

 そして、今日はスターチュパフォーマー仲間3人での合同営業だ。

 前列左右にはハロウィンらしく、迫力あるドラキュラ伯爵とそれを愛おしそうに見つめる西洋風のドレスに身を包んだドラキュラ伯爵の花嫁が向き合って静止していた。
 その真ん中、少し後の位置には、俺が怪しいマジシャンになりきって静止していた。そして俺の足元には怪しい謎の宝箱が置かれている。

 俺達ブロンズ像3体の周りには朝からたくさんのお客さんが集まってきていた。みんな不思議そうに、楽しそうに俺達ブロンズ像を見つめている。

 今ではスターチュパフォーマーとしてこんな俺でもなんとかそれなりに生活が出来るようになっていた。

そして、今日は秋晴れ、風も爽やだ。
いよいよイベントタイムの始まりだ。

 スタッフがトコトコ歩いてきて、俺の台座の前にあるイーゼルにメッセージボードを載せた。今回はフェスティバル用の特別メッセージだ。

 そのボードを見て騒ぎ出すお客さん達。

どんどんお客さんが集まってきた。

 すると、さっそく3人組高校生の女の子が100円入れてくれた。

女子高生が俺を見つめる。
じ~っと見つめる。

俺は微動だにしない。

『動かないじゃん!』

女子高生の唇がそう見えた。
俺は微動だにしない。
100円入れても全然動かない俺を見て、女子高生は『騙された〜』の表情をした。ついに諦めたのか後を振り向いてどっかに行こうとした。

その瞬間、マジシャン像の俺は持っていた杖で後ろ向きの女子高生の頭をコンコンと軽く叩いた。

『えっ?』という感じで頭を押さえて振り返る女子高生。

周りのお客さんは大笑いだ。
仲間の女子高生の顔を見てなにやら言い合っている。

『あんたが叩いた?』
『ちがうよ!』

3人の女子高生はそんな感じで揉めていた。

もう一度杖でコンコン

また大爆笑だ。

キョロキョロする女子高生。

今度はその子が俺を振り向いた瞬間に杖を振り上げた。

これでバッチリ犯人がバレた。

もちろんわざとバレたのだ。これも楽しんでもらう演出のひとつだ。

『も〜っ!』そんな感じで女子高生3人組は大笑いして盛り上がっていた。

 今度はそれを見ていた孫を連れていたおじいちゃんが500円入れてくれた。

 俺達ブロンズ像3人は帽子を取り、カクカクお辞儀をして、満面の笑みで微笑んでみせた。

見ていたお客さんがみんな笑顔になった。

 すると今度は三角帽子を被ったかわいい魔女がやってきた。仮装した5歳くらいの女の子だ。そのチビ魔女は、ちょっぴりお腹の突き出たお父さんの手を引っ張っている。さらにチビ魔女はお父さんのお腹をポコポコ叩き、何かをねだっているようだ。『千円千円千円!』チビ魔女がそう何度も言っているのが見えた。
 お父さんは根負けしたのか、チビ魔女の頭を撫でながら千円札を取り出し、頭をかきながら『エイっ!』とばかりに帽子の中に投げ銭してくれた。

 それを見ていたたくさんのお客さんの期待がいやが上にも高まった。拍手するお客さんもいた。

 はたして、千円でこのブロンズ像達は何をしてくれるのか?

 俺はウインクした。するとどこからかゾンビが現れ、手前に置かれた宝箱をゆっくり開けた。その中にはDVDプレーヤーが入っていた。ゾンビはもちろん俺達の仕込みだ。そのゾンビはDVDプレーヤーのスイッチを押した。

 音楽が始まった!

 もちろん俺には聴こえない。
DVDから流れているであろう曲は、あのマイケル・ジャクソンの『スリラー』だ。
 なんと言っても今日はハロウィン。ピッタリの選曲じゃないか。

 聴こえない耳にしていたイヤホンからは音量マックスにしていたおかげでバシバシ、リズムを感じる事ができた。

 そして俺はいきなりレッツダンス!
前列のドラキュラ伯爵と花嫁令嬢もレッツダンス!
 カクカク、ロボット風にあのスリラーダンスを踊った。

 俺達3人は、この日の為にMVを繰り返し観て何日も猛練習を重ねたのだ。

 いきなり踊りだしたブロンズ像3体を見てお客さん達が喜んでいるのがわかった。スリラーのカクカクダンスはめちゃくちゃ盛り上がった。周りで見ていたお客さん達もみんな一緒になって踊ってくれた。
 俺は前列2人の銅像、ドラキュラ夫婦に合わせて踊るだけで良かった。

楽しかった。
今日は大盛況だった。

ホントにありがたい。
感謝でいっぱいだった。
数年前、恋に破れて辛い日もあったが、頑張ってきて良かった。

午前のパフォーマンスは大盛況で終わった。

 さっきまでの熱狂はどこへやら。
さすがに疲れた俺は近くの中央公園のベンチで一休みしていた。

 ブロンズ像のまま、ベンチに座り、ポットで水を飲んでいた。その姿が不思議なのか、公園で遊んでいた子供達が不思議そうに俺を見ていく。
 
 そんな光景にはもう慣れっこだ。俺は手を振って答えた。

 そしてぼんやり公園で楽しむ家族や子供達を見ていた。ワンちゃんも幸せそうに飛び跳ねていた。

 こんな幸せ…、俺には無縁なのだ。

 ふと気づくと、黒いラブラドールを連れて散歩している年配の女性が近づいてくるのが見えた。

黒いラブラドール……。

あれからもう3年になるのか……、
俺はココちゃんと、黒いラブラドール、あの盲導犬モモの事を思い出した。

叶わぬ恋、永遠の片思い、最後には嫌われてしまった残酷な思い出だ。

今でもたまに思い出す。
AV女優に売られるのを阻止した大立ち回り、そして最後に彼女に突き付けられた拒絶のメッセージ…。

なんとか失恋の痛みを忘れかけた頃、久しぶりに訪れたレンタルビデオ店で見つけたアダルトビデオ。そのパッケージには目を隠しただけのいやらしい裸体が……。

ドキッとした。

そんなバカな、ココちゃんがそんな事するはずない…、

矢も盾もたまらずそれを借りてしまった。
でも怖くて観れなかった。
観てしまったら俺の願いが粉々に砕かれるような気がした。

でもついに観てしまった……。

……まったく知らない女優だった。
それからも【盲目】の文字がタイトルに入っているAVを見つける度に借りてしまった。

バカでダメな俺……、

でもそこにココちゃんは見つからなかった。
それだけが救いだった。

 そんな物思いにふけっていると、いつの間にか、黒いラブラドールが俺の足元で尻尾をフリフリ、ペロペロしていた。
 飼い主の年配の女性が申し訳なさそうに頭を下げ、リードを引っ張ろうとするが、ラブラドールは俺から離れようとしない。むしろ、じゃれつくようにまとわりついてきた。

こんなブロンズ男のどこが気に入ったんだか?犬の気持ちはわからない。

 年配の女性は申し訳なさそうに何か言っていた。言う事を聞いてくれないワンちゃんに戸惑っているのだろう。
 だが、迷惑なんて事は全然ない。俺は犬が大好きだし、逆にモフモフできてとても楽しい。

それでも申し訳なさそうに謝る年配女性。

だが俺には聴こえない。

 俺はいつものように大げさなジェスチャーで自分は耳が聴こえない事を伝えた。

なんとか俺が聾唖者だ、という事にようやく気づいてくれたようだ。

 すると年配女性は、俺の脇に置いてあったメッセージボードを何度も指さした。

何か筆談で伝えたい事があるらしい。

 俺はボードを年配女性に差し出した。彼女はそれを受けとると、すぐに書き出して見せてくれた。

 なるほど、そういうことか…。やはり盲導犬といえども犬なのだ。たまには自由に走り回りたいだろう。

 俺は微笑むとラブラドールの頭を撫でてあげた。するとますます喜んで尻尾フリフリ、ペロペロしてきた。

 すると年配女性はまた何かボードに書き始めた。

仕方ない…、待っててやるか…。

 俺はリードを手渡され、残されたラブラドールをひとしきりモフモフしながら待った。

 すると、年配女性に手を引かれ、若い30歳手前くらいの麦藁帽子を被った女性がやってきた。

 年配女性はこの若い女性の母親、そして手を引かれてきた若い女性が、この盲導犬ラブラドールのパートナーというわけだ。

母親は娘に何か話し掛けていた。

『ラブラドールがこの男性にまとわりついて困っている』そんなような事を伝えているに違いない。
 俺はモフモフしながら麦藁帽子の女性をもう一度見た。

『あっ!』

思わず声が出てしまった。

ココ……!

彼女はココちゃんだった。

片思いのココちゃん、
最後には彼女に嫌われてしまった……、
顔も合わせる事もできないのに……。

でも彼女は盲目だ。
俺の事がわかるはずがない。

でも俺はさっき咄嗟に驚きで声をあげてしまっていた。

ココちゃんは驚いた人がやるように口に手をあてていた。

そして手探りで俺に近づいてきた。

俺はベンチに座ったまま、しかもラブラドールにまとわりつかれていて逃げる事ができない。

大丈夫だ、彼女が俺に気づくはずがない、

ココちゃんは俺の着ているブロンズ風の服を触り、徐々にその手が腕から、指先まで辿るように触ってきた。

俺は動く事が出来なかった。

その手はついに俺の顔を探し当てた。

顎から頬、耳、そして俺の唇をやさしくなぞった。

ココちゃんが何か喋りだした。
一生懸命喋りだした。

しかし、なんにも聴こえない。
母親がココちゃんに話し掛けている。

『この人は耳が聴こえないのよ』

たぶんそう言ったのだろう。
それを聞いたココちゃんは何度もうなづいていた。

すると母親が俺のメッセージボードを取り、それをココちゃんに手渡した。

ココちゃんは母親に手を添えられ、手探りでボードに何か書き出した。
書き終わると、それを俺に見せた。

ココちゃんの目から涙がこぼれた。




 ブロンズ男は微動だにせず立っていた。その眼差しは真剣そのもの、威厳すら感じさせる紳士像だ。その手前にはメッセージボード。

 それを見た1人の若者がさっそく千円を入れ、何か喋りだした。
 この若者はお笑い芸人だった。周りにいたお客さん達がそのトークにみんな笑っていた。
 しかし、ブロンズ男は一ミリも笑わず、まったく微動だにしない。怖いくらい真剣な眼差しで一点を見つめて静止している。瞬きすらしないあまりの銅像っぷりに感嘆の表情を見せるお客さん達。

 もうすでに手前の帽子の中には溢れるくらい千円札が入っていた。誰一人、1万円チャレンジの成功者が出ていないのだ。

 見ていたお客さん達が口々に何か言っていた。

その唇は

『これ本物の彫像だよ。お客さんを騙してるんだよ』
『本物だったら何しても動かないからね』
『それに目が怖いよ、瞬きも全然しない。これ本物の銅像だよ』

そう見えた。

 すると、そこへ黒いラブラドールを連れた1人の女性が近づいてきた。
 その女性は淡い春らしいワンピースに麦藁帽子、そして濃いサングラスをしていた。その横にはハーネスに繋がれた黒いラブラドールが大人しく寄り添って歩いていた。

 女性とラブラドールはブロンズ男の前で立ち止まった。その周りにはたくさんのお客さんがいた。

 ブロンズ男の正面で女性はサングラスを外した。

ココだ。

まわりのお客さんがココを見守っていた。
ブロンズ男は今だ微動だにしなかった。

 ココはちょっと微笑むと、肩に掛けていたバッグの中から何かを取りだした。

それは小さなホワイトボードだった。

ココは手探りでそれになにやら書き始めた。

書き終わるとそのメッセージボードをブロンズ男に見せた。

 
 ブロンズ男が微笑んだ。
 満面の笑みで恥ずかしそうに……。





 
 

  

 



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