「人に迷惑をかけない」は、ルールではない 罰則でもない でも誰も破れない
「子どもに迷惑をかけたくないから」
老いた親がそう言って、一人で抱え込む。介護サービスも使わず、子どもに助けを求めることもなく、ただ静かに縮んでいく。そんな話を、一度は聞いたことがあるのではないか。
これは美談として語られることもある。でも少し立ち止まって考えてみると、何かがおかしい。親子の間でさえ、「迷惑をかける」ことへの恐れが、人と人のつながりを遠ざけている。
「人に迷惑をかけてはいけない」という規範は、日本社会に深く根を張っている。少し前の世代は、子どもの頃から親や学校にそう言われて育ってきた。最近の子育て論では「子どもにそう言ってはいけない」という反省も広まっているようだが——坪田信貴は著書『「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない』(2021年)でそう主張している——それでも若い世代も同じように、この規範に縛られているように見える。東京の電車の中はとても静かだ。誰に言われたわけでもないのに。
おかしい、息苦しい、もう少し自由でもいいんじゃないか——そう感じている人は少なくないはずだ。それなのに、誰もやめない。なぜか。
よくある答えは「日本人の国民性だから」とか「同調圧力が強いから」というものだ。でもそれは答えになっていない。なぜやめられないのかを、別の言葉で言い換えているだけだ。
鴻上尚史と佐藤直樹は『同調圧力——日本社会はなぜ息苦しいのか』(2020年)の中で、この息苦しさの源泉は「世間」にあると指摘する。日本には「社会」ではなく「世間」がある。世間のルールを守らないと排除される——だから誰に強制されたわけでもないのに、みんなが過剰に忖度し、自主規制する、と。
ではなぜ、その「世間のルール」から抜け出せないのか。もう少し正確に考えてみたい。
想像してみてほしい。
あなたが老いた親の立場だとする。子どもに助けを求めたい。でも周りを見渡せば、同じ世代の人たちはみんな「子どもに迷惑をかけまい」と一人で抱え込んでいる。そこで自分だけ「頼ってもいいじゃないか」と動くのは、なかなかできない。「わがままだ」「図々しい」と思われそうで。
ここに構造の本質がある。
「迷惑をかけない」という行動が支配的な状況では、一人だけ「自由」な行動をとることのコストが非常に高い。浮く、白い目で見られる、場合によっては排除される。だから、おかしいと思っていても、誰もが「迷惑をかけない」側にとどまり続ける。
みんながそうするから、自分もそうする。自分がそうするから、みんなもそうする。
この規範は、誰かが強制しているわけではない。明文化されたルールでもない。それでも社会全体がこの一点に吸い寄せられるように収束し、ひとたびそこに収束してしまうと、個人の力では抜け出せない。
だから、これは「意識の問題」ではない。
社会学者の竹端寛は「今の若者は日本国憲法より『迷惑をかけるな憲法』を遵守している」とまで言う。それほどこの規範は強力だ。にもかかわらず、「もっと自由に生きよう」「迷惑をかけてもいい」という啓発が効かないのはそのためだ。個人がどれだけ意識を変えようとしても、構造が変わらない限り、一人で飛び出すコストは変わらない。「みんな本当は息苦しいと思っている」という事実も、それだけでは何も変えない。みんなが息苦しいと知っていても、それぞれが「自分だけ動くのはリスクが高い」と判断し続ける限り、この状況は変わらない。
では、何が変わるきっかけになるのか。
正直に言えば、簡単な答えはない。こういう状況が変わるときは、たいてい静かにではなく、何か大きなきっかけによって一気に動く。価値観の転換も、制度の変化も、そういうものだ。
ただ一つ言えるのは、「なぜやめられないのか」の構造を正確に理解することが、出発点になるということだ。個人の意識や道徳の問題として捉えている限り、処方箋は「もっと頑張って自由になろう」にしかならない。でも構造の問題として捉えれば、変えるべきは個人ではなく、その構造の方だという話になる。
どちらの診断を下すかで、向かうべき方向はまるで変わってくる。
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