【note論】 noteで、あなたは何を売っているのか
人は今、躊躇なく自分を開示している。 仕事の失敗。昔のコンプレックス。うまくいかなかった恋愛。家庭での出来事。 SNSで、ブログで、noteで。しかも、かなりたくさん。
なぜこんなに躊躇がないのか。少し考えてみた。
まず、自己開示には二種類ある気がしている。
一つは、作品としての開示。
経験や感情を一度咀嚼して、普遍的な何かに昇華する。 読者が受け取るのは「その人の話」ではなく「自分にも当てはまる作品」だ。
もう一つは、生の個人情報の開示。
元彼の話、職場の人間関係、家族の愚痴。 咀嚼なしに、そのまま出てくる。
この二つを分けるのは、編集の有無。 作品には「これを出す、これは出さない」という選択がある。 生の開示には、それがない。あるいは、あまり意識されていない。
そして、生の開示の方がよく読まれる。 編集された作品より、編集されていない本音の方が、共感を呼びやすい。 プラットフォームの設計と、人間の受容の構造が、両方とも同じ方向に働いている。
ここで少し、プラットフォームの話をしたい。
GoogleやFacebookのビジネスモデルは広告だ。 ユーザーに無料でサービスを提供する。その代わり、行動データをもとに広告収益を得る。 ユーザーは自分のデータがどう使われているか、よく分からないまま使っている。
noteは違う。広告を使わない。 クリエイターが直接、読者にコンテンツを売る。 対価も見える。何をどこまで出すかは、クリエイター自身が決める。
その意味では、noteはGoogleやFBより透明だ。 自分で決められる仕組みが、構造として用意されている。
ただ、ここに逆説がある。
「自分で決められる」という仕組みがあっても、それを意識して使っている人はどれだけいるか。
「広告に使われているわけじゃない」という安心感が、むしろ深い自己開示を引き出す。 透明なプラットフォームほど、人は無自覚に深く自分を売っているようにも見える。
そして、この場を提供するnoteは、その自己開示を文化として積極的に促進している。 「ありのままを書こう」「あなたの経験に価値がある」というメッセージで。
クリエイターが深く開示するほど、読者がつき、有料購読が生まれ、noteも収益を得る。 構造としては、きれいに整合している。
ただ、自己開示のリスク——炎上、プライバシーの侵害、精神的な消耗——は、クリエイター個人が負う。 プラットフォームは収益を得て、リスクは書いた人が引き受ける。構造として、非対称だ。
私自身はどうか。
創作として書いているつもりだ。 経験を咀嚼して、構造として見せる。でも、どこまでが創作で、どこからが生の開示なのか。 その境界線は、あいまいなところもある。
それは私だけの話ではないと思う。
作品として書いているつもりが、気づかないうちに内側を売っている。 安全な場所だと思っているから、むしろ深く開示してしまう。
noteが「安全な場所」かどうか——構造としては、GoogleやFBよりずっとましだと思う。
でも、noteは場所を提供しているだけだ。 何をどこまで出すかは、自分で決めるしかない。
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