見出し画像

『マルチバースの缶コーヒー』

​「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。


第2話:因果の逆転

「桐生副代表、おはようございます」
「おはようございます、桐生さん」

 翌朝。全面ガラス張りのオフィスビル、その最上階にある『レザリア・ホールディングス』の本社に足を踏み入れた瞬間、蓮は目眩を覚えた。
 行き交う社員たちが、仕立ての良いスーツに身を包んだ蓮に向かって、次々と恭しく頭を下げていく。昨日まで、ホームセンターのバックヤードで「おい、契約の」と呼ばれていた男に対する態度ではない。

 蓮の脳内には、まだ強烈な違和感と共に、この世界線の記憶が断続的に流れ込み続けていた。
 この世界での桐生蓮は、確かに東堂と共に起業し、数々の修羅場を潜り抜けて会社をここまで大きくした『天才肌の副代表』だった。

(本当に、俺がこの場所を動かしているのか……?)

 自分の執務室に入り、デスクに置かれた5000円のデリカフェのコーヒーを口に含む。洗練された苦味が広がるが、蓮の舌が求めているのは、あの狭いトイレで握りしめていた140円の缶コーヒーの、安っぽい砂糖の甘みだった。環境が変わっても、魂はまだあのうだつの上がらないフロア主任のままだ。

「おい、蓮。入るぞ」

 ノックもなしにドアが開いた。
 現れたのは、東堂だった。第1話でスマートフォンの画面越しに見ていた、時代の寵児。高級なスリーピースのスーツを着こなし、完璧な体躯をしたかつての親友が、そこに立っていた。

「東堂……」
「なんだ、妙に他人のような顔をして。夕べのシリコンバレーとのテレカンで疲れてるのか? だが、休んでる暇はねえぞ。例の下請けのバカどもがやらかした」

 東堂の目が、ふっと冷酷な光を帯びる。蓮の記憶にある、大学時代の温厚で夢見がちだったあいつの面影は、その合理性を極めた瞳のどこにも残っていなかった。

「ついてこい。直々にトドメを刺す」

 東堂の後を追い、役員会議室へと向かう。
 重厚な防音ドアを開けた瞬間、蓮は自分の目を疑った。

「――っ!?」

 会議室の長机の向こう側。
 青ざめた顔で、何度も何度も頭を下げている初老の男がいた。
 仕立ての悪い、シワだらけのグレーのスーツ。薄くなった頭髪。
 間違いない。昨日、ホームセンターのサービスカウンターで、蓮に向かって「俺の無駄になった時間をどうしてくれるんだ!」と激昂し、唾沫をまき散らしていた、あのクレーマーの男だった。

 だが、ここでは立場が完全に逆転していた。

「レ、レザリア様……! 今回の資材納入の遅れに関しましては、我が社の確認不足でありまして……どうか、どうか今回ばかりは契約解除だけはご容赦いただきたく……!」

 男は震える声で懇願し、今にも床に膝をつきそうなほど深く一礼を捧げている。

「確認不足、ですか」

 東堂が、冷徹な声で遮った。彼は椅子に深く腰掛け、書類を一瞥すらしない。

「我が社が提示した納期は絶対だ。それによって我が社のプロジェクト全体が一日遅れれば、どれだけの損失が出るか理解していますか? 往復のガソリン代や、あなたの無駄な時間を言い訳にするような、その矮小なビジネス感覚が命取りなんですよ」

 男の顔から、みるみる血の気が引いていく。
 蓮の心臓が、ドクドクと不快に脈打ち始めた。目の前で行われているのは、昨日自分が受けた屈辱の、完璧な「裏返し」だった。
 あの時、自分をいたぶった怪物を、今の自分は上から踏み潰せる立場にいる。

 カタルシス――を覚えるはずだった。
 しかし、蓮の胸を満たしたのは、底冷えするような恐怖だった。

 男を冷酷に追い詰める東堂の横顔は、あのホームセンターで出会ったどんなクレーマーよりも、はるかに理不尽で、圧倒的な「怪物」に見えた。成功を手に入れたあいつは、引き換えに人間としての何かを完全に捨て去っていた。

「桐生副代表……! どうか、あなたからも東堂代表にお口添えを……!」

 すがるような目で、クレーマーだった男が蓮を見る。その目には、昨日蓮に向けられていた傲慢さは微塵もなく、ただ強者に怯える弱者の絶望だけがあった。

「東堂、これは――」

 蓮が口を開きかけた、その時だった。

「蓮」

 東堂が、極めて低い、感情の失せた声で蓮の言葉を遮った。

「お前、まさか同情してんのか? そんな甘い割り切りで、この会社の副代表が務まると思っているなら、お前のその椅子も、明日には別の誰かに座らせる。代わりなんて、いくらでもいるんだよ」

 代わりなんて、いくらでもいる。
 その言葉が、蓮の脳内で鋭い刃となって突き刺さった。

 ホームセンターでも、この洗練されたIT企業でも、結局は同じだった。自分はシステムに生かされ、数字を求められ、冷酷な歯車として機能することを強要されている。どれだけ華やかな世界にシフトしようが、世界の「本質」は何も変わっていない。

 頭の奥が、再びズキリと痛んだ。

(違う。俺が求めていたのは、こんな冷たい世界じゃない――)

 強烈な嫌悪と、この世界線に対する「後悔」が、蓮の胸の中で爆発する。
 あいつの手を取らなければよかった。こんな怪物になるくらいなら、あの退屈な日常の方が、まだ――。

 引き金(トリガー)が引かれた。

 視界が、ぐにゃりと歪む。
 会議室の白い壁、東堂の冷徹な顔、怯える男の姿。そのすべてに、あの不気味な幾何学模様――青と赤の「モアレ」が走り始める。

「おい、蓮? 顔色が悪いぞ……」

 東堂の声が、二重、三重にブレて遠ざかっていく。
 パリン、と頭の中で再びガラスが砕ける音が響いた。世界が万華鏡のようにひび割れ、蓮の意識は、再び次元の濁流へと真っ逆さまに落ちていった。

(第3話へ続く)


📖 バックナンバー
前回のストーリーはこちらからお読みいただけます

【第1話】​【第1話】確率のバグhttps://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74



#創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

いいなと思ったら応援しよう!