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『汀なる永劫の虚白〜綴り織る 玉響と星霜〜』


序章 あるマンションの一室



物語の始まりは、神奈川県。


県内の東部に位置する、人口およそ三百七十八万人を抱える日本最大の政令指定都市。


首都・東京の中心部まで電車で僅か三十分というアクセスの良さを誇りながら、衛星都市という枠に収まらず、独立した巨大な経済圏を形成している。

古くは開港の地として日本の近代化を牽引したこの街の海沿いには、今も赤レンガの西洋建築や歴史的な遺構が保存され、異国情緒の面影を色濃く残す。

その一方で、視線を少し上げれば、湾岸に拓かれた新たな街区を象徴する超高層建築が聳(そび)える。周囲には多様なビル群が並び立つ。空へ向かって稜線(りょうせん)を描きながら、都市の輪郭を切り取るようにして端正な街並みを形づくっている。

過去の重厚な歴史と、最新鋭の都市開発。

週末になれば全国から観光客が押し寄せる活気ある海辺の行楽地でありながら、同時に様々な企業が活動し、多くの人々が凛とした日常を営む広大な居住区でもある。


観光と生活。歴史と最先端。

休日の華やかな喧騒と、数百万人の静かな日常。

そのすべてを内包し、今この瞬間も絶え間なく稼働し続ける巨大都市。


――その街の名は、横浜市。



内陸へと視線を移せば、都市部の賑わいとは打って変わった景色が広がる。

起伏に富んだ丘陵地帯を活かして計画的に切り拓かれた、緑豊かな郊外の住宅都市である。


なだらかな高台が連なるその一帯は、手入れの行き届いた街路樹が四季折々の表情を見せ、歩道と車道がゆったりと分離された道が整然と続いている。治安の良さと洗練された生活環境から、子育て世代を中心に高い人気を誇っている。

都心の主要ターミナルまで電車一本でアクセスできる利便性を持ちながら、街全体には穏やかで落ち着いた空気が保たれている。


幾重もの坂道が収束する丘の上の駅から、歩いて二十分ほどのエリアには、駅前の賑やかな商業区画から適度に離れ、中堅クラスのファミリー向けマンションと一戸建てが静かに混在する住宅街が広がっている。

地形の起伏が織りなす緩やかな坂道が日常の風景となり、街路樹の緑の木陰がほどよい落ち着きを与えてくれる。


太陽が少しずつ高度を上げ、路地には駅へ向かう人影がまばらに見え始めつつある時間帯。

アスファルトの路面と建物の壁を、明快な朝の光がくっきりと浮かび上がらせる。

その閑静な住宅街に、溶け込んで建つマンション。無数に並ぶ四角い窓の一つに、その部屋はあった。








(一)今日もまた、当たり前を守るために

   [西暦二〇二X年 三月某日 朝]



深く沈み込むような気だるさが、容赦なく新たな一日を告げる……。


白濁した意識の底で、己が鈴川輪太郎(すずかわ りんたろう)という四十二歳の男であり、中堅企業の営業三課主任であるという空疎(くうそ)で透明な現実が、ゆっくりと輪郭を結んでいく。


もはや、心身の疲労は限界の淵にあった。


連日、終電で帰宅し、家に帰ってからも睡眠時間を削って仕事を片付ける日々。

そのせいか、このところ疲労困憊で朝起きることができず、会社への遅刻が常習になっていた。

昏(くら)い虚脱の波が眼(まなこ)を覆い、水底に沈んだ船の残骸と化した身体が軋む。眠気が骨身に染み、深い海の淵から見上げる水面ほどに現実感が遠い。濡れた帆布(はんぷ)にも似た重い瞼の裏で、光が鈍く瞬いている。

枕元の携帯は静まり、煩いはずの目覚ましは、最初から無かったかのように沈黙している。


「アラーム掛け忘れた…。また、やってしまった……」

自嘲気味に零すと、冷え切った後悔が、逃れようのない奔流となって打ち寄せてきた。


(何度目だ、この感覚は……)


焦りで心臓がドクドクと不規則に鳴り、頭痛と吐き気が襲ってくる。蓄積した疲労に焦心が重なり、指先が冷たく震える。ただ呼吸をするだけでも、みるみる体力が削られていくようだ……。


再度、時計に目をやると、身支度を急げば間に合う時刻に葛藤の波が揺らめく。落ち着いて考えれば直ぐに会社へ遅刻の連絡をすべきなのに、自責の念と叱責の恐怖からか、意識が混濁の渦に呑まれ逡巡を彷徨う。

何より、疲弊に溺れた身体では判断も覚束ず、携帯を握り締めたまま思考を手放すと、それは焦燥の濁流に押し浚(さら)われ不安の沖へと果てなく希釈していった……。


脳裏に走る疼(うず)きが、現実の岸辺へと引きずり戻す。

潮が満ちると共に、幾度となく繰り返された朝の習慣だけが流れ込んできた。


布団から這い出すと、Tシャツとスウェットの寝間着が汗に濡れて体に纏(まと)わり付いている。肩が強張り、背中には錆び付く鉄鎖を引きずるような鈍い痛みが張りつく。

ふらつく足取りで洗面所へ向かい、洗顔と歯磨きを済ませる。鏡の中では、寝癖乱れる黒髪とチラつく白髪、目の下には深い影が刻まれていた。


「俺、こんな顔だったか……?」

そう呟くと、心が底冷えした。


映り込む蒼白な顔は昨夜の疲れを隠しきれず、ずしりと重石が食い込む鈍痛に、肩は深く沈み込む。


ダイニングルームへ向かう廊下をゆっくりと歩くと、出汁を効かせた味噌汁の風味が、ふわりと鼻先を掠めた。その温かい香りに、ほんの少しだけ心が緩むのを感じる。

ドアを開けると、妻の美咲がエプロン姿でキッチンに立っていた。出来立ての料理を整えながら、俺の気配に気づいて振り返る。


「輪ちゃん、おはよう。顔色…、ひどいわよ」

心配そうに眉を寄せ、すぐさま駆け寄ってくる。


「ああ…、おはよう。大丈夫だよ」

かろうじて声を絞り出す。


「……最近は仕事が遅いから。無理しないでね」

そう声を添え、なおも気にかけるようにキッチンへ戻っていった。


テーブルに目をやると、一人息子の悠斗が、自分の茶碗にご飯をよそっているところだった。小さな手つきは危なっかしいが、一生懸命だ。


「パパ、おはよう!早く座ってー」


その無邪気な笑顔に、胸の奥がチクリと痛む。きちんと起きてさえいれば、この穏やかな時間に寄り添えていたのに。

悠斗は気を遣って、明るく振る舞ってくれているのだろうか。仕事の重圧に追われるあまり、父親として並んで笑う余裕さえ削り取られている気がしてならない……。


食卓には、ほかほかのご飯に豆腐とワカメの味噌汁、軽く焦げ目のついたウィンナー、彩りの良いほうれん草のおひたしが並ぶ。そして、美咲が湯気を立てる玉子焼きを運び、黄色が鮮やかな一皿が加わる。

香りと色味が揃い、朝の支度が整う。

並べられた品々には、さりげない気遣いが見て取れる。

焼き色の揃い方や盛り付けの丁寧さに、思わず目が留まった。

その心配りに、胸の内でそっと感謝を覚える。

朝だけは、こうして家族と向き合って食事ができることが、かけがえのないものに思えた。


美咲は自分の分を軽く取り、俺たちの向かいに腰を下ろすと

「それじゃ、食べよっか」

柔らかく声をかける。


「いただきます!」

悠斗が元気よく手を合わせた。


「……いただきます」

俺も遅れて手を合わせ、か細い声で応じる。


まずは味噌汁を一口すする。

温かい液体が喉を通り過ぎていくが、味はよく分からない。おかずにも箸を付けるが、ほとんど進まない。ご飯も数口しか喉を通らず、胃の重たさが染みる。


そんな様子を見て、美咲が控えめに声をかけた。

「……無理しなくていいよ。辛そうだし、今日は少しでいいから。残りは取っておくね」


「……悪いな、ありがとう」

微かに頷き、短く応じる。


綺麗に巻かれた黄色の玉子焼きを見つめながら、せっかく用意してくれた美咲への申し訳なさと感謝が同時に込み上げてくる。

その空気を埋めるように、悠斗が口を開いた。


「今日ね、運動の時間に鉄棒やるんだよ」

少し照れくさそうに笑う。


けれど、すぐに拳を小さく握りしめ

「僕、今日こそ逆上がりできるようになるんだ。昨日も公園で練習したんだから」

決意に満ちた瞳を輝かせた。


疲れを見せまいと、意識を無理やり繋ぎ止めて

「そうか、しっかりな。悠斗ならきっと、あと少しだぞ」

大きく頷いてやるものの、頭はぼんやりとしたままだ。


(そういえば、先日の父親参観も行ってやれなかったな………)

心のどこかに、小さな後ろめたさが残る。


そんな思いに沈んでいるうちに、箸の音も次第に途切れていった。


やがて悠斗が

「ごちそうさま!学校の準備してくるね」

元気な笑顔でパチンと両手を合わせる。


食器を台所へ片付けると、足音を気にするように歩調を緩め、ランドセルを取りに部屋へと向かっていった。


その背中を見送りながら、俺は力なく立ち上がり、リビングのソファへと歩を進める。

春先の穏やかな光が差し込み、部屋全体にはエアコンの微かな温風が循環しているはずなのに、なぜか足裏に感じる床の冷たさが妙に現実的で、それが却って苦い記憶を呼び起こす。


昨夜の残業、徹夜の資料作成、重くのしかかる締め切りの圧力。

色褪せたオフィスと、デスクに聳え立つ山積みの書類が影を落とし、パソコン画面で未読メールのアイコンが無機質に点滅する。キーボードを叩く音は、一定の間隔で神経を切り崩す。その負荷が、逃げ場のない雪崩の勢いで心を押し潰していく。


力なく溜め息を吐き出して視線を上げると、見慣れた3LDKの慎ましい空間が俺を包む。少し日に焼けた壁紙、柱に残る小さな傷、すっかり馴染んだソファが、共に歩んできた月日を物語っている。

窓の外には住宅の屋根が連なり、街はまだ朝の静寂が満ちている。遠くに見える桜並木の蕾が、ガラス越しにも春の色を淡く映していた。

ソファに沈むと膝が軋む。

テレビは切れたまま、昨夜、持ち帰り残業の圧迫感から逃れるため、縋(すが)るような思いで観たアニメ、『無◯転生』のシーンが俄(にわか)に頭をよぎる。


「はぁ…、俺も異世界に行きたいな……」


終わりの見えない連日の激務で疲れ果て、束の間のアニメで現実を忘れる。そうでもしないと心が砕けてしまいそうな日々に、ポツリとぼやく。


「異世界なら、俺も英雄になれるかな?」

救いのない馬鹿げた妄想が、霞んだ脳を埋め尽くした。


「でも、現実じゃ無理だよな…。職場は俺なしでは回らない案件ばかりで、ただ仕事に忙殺される日々……」

容赦のない日常が、責任という碇(いかり)を降ろして俺をここに繋ぎ止める。


何よりも、美咲と悠斗、大切な家族を守らなくては、という思いが先立つ。


だが、思考の歯車が軋んでうまく回らない。錆びついた頭の底から、仕事と身体への不安が濁水(だくすい)となり込み上げる。


「逃げたいな…、どこでもいいから」

言葉は誰にも届かず、リビングの空気へと吸い込まれていった。


どんよりとした沈黙が部屋を支配する中で、キッチンからは食器を洗う水の音が、やけに大きく聞こえてくる。


「輪ちゃん、コーヒー淹れるわね。温かくして、少しでも疲れが解れるといいんだけど」

投げかけられた美咲の優しい声が、重苦しい空気をふわりと揺らした。


すぐに、手早く支度を整える気配とともに、お湯の沸く音が続く。程なくして、リビングには芳醇なコーヒーの香りが満ちてきた。立ち昇る香りが、少しだけ現実世界に引き戻してくれる気がする。


美咲が淹れてくれたコーヒーカップを受け取り、両手で控えめに包み持つ。掌(てのひら)にゆっくりと熱が広がり指先へ伝わる。


「ありがとう」

ぽつりと答えて一口飲むと、深い苦みが喉を通り、心の内側をじんわりと温めた。


美咲はコーヒーを口にしながら、壁に立てかけてあったトートバッグを手に取り中身を確かめている。その隙間からは、畳まれた白い布がちらりと覗いている。おそらく仕事で使う白衣だろう。彼女もこれから仕事だ。

表向きは職場の慢性的な人手不足を理由にしているが、それは俺に余計な気遣いをさせまいとする配慮でもあるのだと受け取っている。

本当は、少しでも家計を支え、悠斗の将来に備えるために、自分から進んでシフトを増やしてくれているのだと感じている。


先日、美咲が遠慮がちに働く日数を増やしたいと話してくれたときの、申し訳なさと気遣いの滲む面差しが思い出された。


深夜に及ぶ酷使の末、俺はどうにか生活の均衡を保っている。

ここで自分が倒れれば、その負担はすべて美咲の細い肩にのしかかってしまう。夫として、父親として、絶対に折れるわけにはいかない。


(俺も、頑張らないと)

そう自らを奮い立てるも、芯まで染み込んだ疲労が深く、動くことすら儘(まま)ならない。


コーヒーを飲み干し、カップをテーブルに置く。

カーテンの隙間から朝陽が差し込み、薄い光が埃の粒をほのかに照らす。

三月の春だ。窓越しに、鳥のさえずりがわずかに届く。

「……そろそろ、支度しないと」


遠くで低く唸る街の気配が、否応なく出勤時間を意識させる。

今日もまた、あのスーツに身を固めなければならない。倦怠感に沈む腰を上げ、体を引きずる歩みで寝室へ向かう。床の冷たさが、まだ覚醒しきらない足裏をひやりとさせた。


クローゼットを開け、ワイシャツに袖を通していく。一つ一つボタンを留めていく指先が、やけに不器用だ。ネクタイを手に取り、首元で形を整えようとする。しかし、指先に力が入らないのか、また遅刻するという焦りに心を掻き乱され、うまく結べず、何度かやり直す羽目になった。

ようやくジャケットに手を伸ばし、羽織ろうとした時、その背中に残る僅かな皺に気がついた。


(ああ…、そうか)


いつもなら美咲が前夜に丁寧にハンガーへ掛け、軽くスチームを当ててくれている。

だが、連日の終電帰りが続く中、昨夜はついに疲労が限界に達したのだろう。俺が帰宅すると、力尽きたようにソファでうたた寝していた。テーブルの上には、俺のために温めればすぐに食べられる夕食が用意されていて、その丹念な心遣いが胸に染みた。

目を覚ました彼女に、無理をせずもう休んでほしいと声をかけたのは俺自身だ。

ジャケットの手入れをする余裕などなかったのだろう。

普段、当たり前に整えてくれていた事への感謝が、不意に胸を突く。​その皺は、共に慌ただしい日々を分かち合っている証のようで、少しだけ安らぎを覚えた。俺は、確かめる手つきでジャケットの前を留めた。


リビングへ戻り支度を続けていると、自分の部屋から出てきた悠斗が、ランドセルを背負い顔を出した。


「じゃあ、行ってきます!」

屈託のない元気な声が、部屋の空気をパッと明るくする。


その一点の曇りもない純真さに、思わず目を細めた。


「行ってらっしゃい。気をつけてね」

出勤の準備を終えた美咲が、リビングの奥から笑顔で声をかける。


「ああ、いってらっしゃい。今度こそ早く帰れたら、一緒にゲームしような」

努めて明るく声をかけ、玄関へ向かう小さな後ろ姿を視線で追う。


昨夜も、暗い部屋で寝息を立てる横顔を見ただけだった。


(今度こそ、か……。いつになったら、本当に遊んでやれるんだろう)

罪悪感が、じわりと深く肩へと食い込む。


悠斗の姿が玄関の奥へ消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。


「輪ちゃん……」

すぐ傍で、優しく名前を呼ばれた。

隣に立つ美咲が、心配そうな顔で俺を見上げている。


「昨日も遅かったんだから、…無理しないでね。いつも、本当にありがとう」


その労いの言葉が、ささくれだった心を柔らかく満たしていく。

彼女の支えがなければ、とっくに壊れていただろう。


(無理しないなんて…、もう無理かもしれないな……)

心の奥で、脆くも本音が静かに零れそうになる。


それでも、美咲のためにも、悠斗のためにも、まだもう少しだけ踏みとどまらなければ。彼女が安心して自分の仕事に打ち込めるよう願い、俺は今の自分にできる事を、しっかりこなすしかない。


「ありがとう。美咲こそ、あんまり無理するなよ」

そう言って、弱々しく笑ってみせるのが精一杯だった。


鞄を手に取り、玄関へ向かう。

ふと、視界の片隅に姿見が入る。何気なしに視線が滑り、鏡の中の自分と目が合う。映り込む姿は、疲れ切ったアニメの脇役そのままの惨めな影だった。

いや、脇役どころか、もし俺が主役の物語だったら、このあと劇的な転生イベントが来る場面だな。あの『転◯ラ』の主人公、三◯悟とまでは行かなくとも、転生チートな展開を妄想したくなる。


(でも俺に、そんな都合のいい奇跡が起こるわけ、……ないよな)

諦念(ていねん)の色が滲み、鬱屈(うっくつ)した疲労感が胸全体に広がっていく。


いや…、奇跡など起きては困る。転生するには一度命を落とす必要があるのだから……。美咲や悠斗を残して逝くなんて、あり得ない話だ。

だからこそ、この過酷な日常を這ってでも進むしかない。


ドアの隙間から忍び込んだのだろうか。どこからか、春の柔らかな香りが薄っすらと漂ってきた。

その生命力に満ちた季節の匂いが、すり減っていく自分の身体と、残酷なまでに落差を突き付けてくる。


瞬間、自分の中の何かが、いつか音を立てて崩れてしまいそうな、そんな漠然とした不安が心に湧き上がった。


それを打ち消すように、込み上げた弱気を吐き出し、なんとか震える心を抑えつけて振り返る。


「いってらっしゃい」


「……いってくるよ」


玄関で見送る美咲のいつもの声に、精一杯の平穏を装って頷き返した。


扉の向こうに待っているのは、息もつけない無慈悲な現実だ。それでも、このささやかな日常を守るためなら、立ち止まるわけにはいかない。

俺は今日もまた、重たいマンションのドアをゆっくりと開けた。




(二)ため息は雑踏に紛れ、足早に過ぎる午後

   [西暦二〇二X年 三月某日 昼]



朝日がアスファルトを優しく暖め、マンションの壁と街路樹の影が交互に揺れる。

吹き抜ける一陣の風は、春のうららかな香気を運んでくるが、気持ちは裏腹に不安へと押し込められていく。


「今日も一日、頑張らないと……」

独り言ちながら、俺は駅への道を歩き出した。


足は思い通りに上がらず、手に提げた鞄は容赦なく指先に食い込んでくる。疲れに抗いながら、乾いた心に無理やり風を送り込み、帆を張り直すように意識を仕事へと切り替える。だが、それを引き裂く勢いで、ある事実が突風と化して吹き抜けた。


「やばい……!会社へ遅刻の連絡してなかった!」


起床時の混乱と極度の疲労が荒れ狂い、一番肝心な記憶が彼方へ吹き飛ばされていた事に気づく。


携帯を握り、焦る指先で連絡先を検索する。

「………あった!佐藤課長の番号……」


「すぐに…、電話しなきゃいけないよな。……遅刻確定だし」

手が震え、画面は嵐の前の不気味な凪を装う。


「なんで、もっと早く掛けなかったんだろう……。今からじゃ、苦しい言い訳にしかならない……」

木枯らしめいた、虚しい後悔が胸裏を通過した。


通勤途中の住宅街、犬の遠吠えが風に攫(さら)われ、サラリーマンの足音が颯爽と俺を追い越していく。

画面の文字を見つめていると、佐藤課長の低い声が耳の奥で吹き荒(すさ)び、胃が痙攣とも付かぬ震えで締め付けられる。


「……駅に着いたら、…かけよう」

消え入りそうな声が漏れた。


どうしても発信ボタンを押すことができず、心が完全に折れるのを防ぐため、逃げ去る思いで携帯をポケットへ滑り込ませた。



心ざわめき竦む足で駅に辿り着き、改札を抜ける。

息を整えるべくホームに立ち尽くしていると、やがて電車が鈍く軋みながら近づいてきた。

開いた扉から降りる客はまばらだが、乗り込もうとする人々の群れが犇(ひし)めき合う。その奔風(ほんぷう)へ巻き込まれるまま、俺も車内へと押し流された。超満員の車内で暖房は滞留し、汗と香水が混じった匂いが鼻を刺す。


身動き一つ取れない圧迫感の中、ポケットの奥の携帯が異様に重く感じられる。

ホームで連絡できなかった言い訳を、この環境のせいにして正当化しようとする自分がいた。そればかりか、この状況に心のどこかで安堵してしまう。電話越しの怒声から逃げ出したい一心で、このまま直接オフィスへ駆け込もうと思案し、ただただ先へ先へと空回りしていった。


窓の外を陽光が流れ、景色は淡く形を変えていく。

次第に高く立ち並ぶビルの影が、次々と現れては過ぎ去り消えていく。巨大なターミナル駅が近づくにつれ、車窓の風景は息を詰まらせるコンクリートの壁へと変わっていった。


弾き出される恰好で駅のホームへ降り立ち、地上へと続く階段を、足元を掬う這い風に膝を折りつつ上りきる。駅前の逆巻く喧騒を背に、緩やかな上り坂を歩き出した。行き交う人々の活気が、気流を成して通り過ぎていく。職場までの道のりが、もはや果てしなく遠く感じられた。


坂道を上りきる頃、視界の端に小さな公園の緑が入り込む。木立が風にそよぐ向こう側に、目的のモダンなオフィスビルが立っていた。朝の陽射しを反射するガラス張りの外観は、言い訳の利かない現実そのものとして俺を見下ろしている。


自動ドアを抜け、エントランスへ足を踏み入れた。

外気はここで完全に遮断され、代わりに空調の効いた人工的な空気が肺を満たす。足元に澱んだ空気を掻き分けエレベーターへ乗り込み、営業三課のあるフロアのボタンを押す。上昇する密室の中、課長の低い怒声を想像して胃の奥が激しく軋んだ。


虚ろな電子音と共に扉が開く。

途端に、絶え間ないキーボードの乱打音。電話越しに響く、営業スマイルを張り付かせた乾いた声。それらが疾風となって押し寄せ、鼓膜を激しく打ち据えた。

公園を臨む大きな窓からは、陽の光が差し込んでいる。照らし出される室内は張り詰めた焦燥感で白々しく染まり、網膜を刺激するほどの明るさで、淀んだ熱気と共にフロア全体を覆っていた。


朝礼はとうに終わっており、時刻は始業時間をやや過ぎている。ホワイトボードには、今日の過酷なノルマが赤いマーカーで書き殴られていた。俺は逆風に押し戻されそうな足を無理やり動かし、最奥に鎮座する猛風の中心、佐藤課長のデスクへと視線を走らせる。


……空白のごとき空席。


覚悟を決めて向けた先には主がいない。そこは嵐の前を予感させる、妙な静けさを湛えている。朝一番のミーティングなのか、運良く課長は不在であった。だが、いつ吹き荒れるか分からない暴風雨を待つに等しい猶予状態に、かえって胃の底が冷え切っていく。


自分のデスクへと歩を進めながら、すでに業務の渦中にいる部下たちへ向けて小さく頭を下げた。


「……遅れて申し訳ない。おはよう」

腹の底から絞り出した声は、かつての張りを失い、空調のノイズに容易く呑まれていく。


終わりの見えない連日の深夜残業が、少しずつ営業主任としての自信や矜持を削り落としていた。


隣の席で受話器を肩に挟んでいた山田が、コーヒーを啜(すす)りながら、同情と疲労の入り混じった目で

「……おはようございます」

と会釈だけを返してきた。


窓際の佐々木がイヤホンを外して

「お、鈴川さん、遅いっスね」

と無神経に笑う。


途端に周囲の空気が凪へと変わり、冷たい隙間風が首筋を撫でた気がした。マウスを乱暴にクリックする単調な音が割り込み、どこからか漏れた咳払いが、いっそう気まずさを際立たせる。


​そこへ、気心の知れた部下である田中が、コーヒー片手に近づいてきた。


「おはようございます、鈴川さん。……寝坊ですか?」

口元には、からかい気味の笑みを浮かべているが、声のトーンは躊躇いを含んでいる。


耳元へ寄せる仕草で

「顔色、最悪ですよ。……課長なら部長に呼ばれて上の階なんで、当分戻りませんから」

と囁く小声には、冗談めかした態度の中に、確かな気遣いを滲ませていた。


掛けられた言葉に、頷いて謝意を示す。そして、強張った頬を緩めて笑い返そうとするが、引きつっているのが自分でも分かった。


「……遅刻して済まない。電車が遅れたなんて言い訳、お前には通用しそうにないな」


「今どき、運行状況なんてネットを見れば一秒でバレますよ」

田中は呆れ顔で短く息をつき、控えめに微笑むと、自分のデスクへ戻っていった。


交わした軽口に、胸の内で安堵しながら自席へと沈み込む。パソコンのスリープを解除したモニターは青白く発光する。メールアイコンに表示される件数は上限値で止まり、未読の赤い数字が目の前に突きつけられる。


(これを全部さばく頃には、今日の気力は尽きているだろうな……)

腹部にどっしりと痛みが広がる。


(……いや、その前に……、課長が戻ったら遅刻の謝罪をしなければ)


自分からあの席へ出向いて頭を下げなければならない。

嵐の中心へ足を踏み入れる瞬間を想像するだけで、モニターの文字がまったく頭に入ってこなかった。ひりつく緊張を少しでも紛らわそうと、隣のデスクへ目をやる。


「……なぁ、山田。先日の案件、結局どう落ち着いた?」


業務確認という正当な言い訳を盾に、俺は掠れきった声で、受話器を置いたばかりの山田へ逃避の言葉を投げかけたのだった……。



昼休み。

一階のエントランス横にあるカフェでサンドイッチと温かい紅茶を買い、四階のラウンジへと足を運んだ。

全面ガラス張りの窓からは隣接する公園の緑が眩しく見え、吹き抜けの空間には明るい自然光が満ちている。しかし、その穏やかな光も、酷使された神経と疲労の底に沈む身体には、ひどく空々しく感じられた。

窓際のカウンター席に座り、手に持つ紅茶からは熱い芳香が揺れ立っている。一口含むと、弾けんばかりの爽やかな香りに、瑞々しい刺激が鼻腔を満たす。アールグレイが喉を清涼に駆け抜け、胃の鋭い痛みを一瞬だけ遠ざけてくれる。

それを飲み下してやり過ごしていると、隣に田中が腰を下ろした。彼の手には、俺と同じカフェで買ったらしい、分厚いバゲットサンドの包みとコーヒーが握られている。


「鈴川さん、お疲れ様です」


包みを解くと、バルサミコソースの微かな酸味が風味豊かに漂った。田中は両手で掴んだ無骨なバゲットを頬張り、はみ出した生ハムと真っ白なマスカルポーネを器用に口へ運ぶ。


そして、周囲を気兼ねしながら声を落とし尋ねてきた。

「……あのあと、課長に何か言われました?」


俺は紅茶の薫る紙コップを置き、努めて軽い調子を作って口を開く。

「いや、『電車が遅れまして』って言ったらさ、課長も『お前、またかよ』って笑って許してくれたよ」


田中はバゲットを齧(かじ)る手を止め、呆れた風に鼻先で軽く笑った。

「鈴川さん……、その死にそうな顔で言われても、微塵も説得力ないですよ。あの人がそんな優しいわけないじゃないですか」


田中の的確なツッコミに、無理に貼り付けていた薄っぺらい笑顔がポロリと剥がれ落ちる。


俺は観念して首を振り、力なく口角を上げた。

「……バレたか」


苦笑いを浮かべて紅茶を啜り、深い溜息ごと流し込む。


「あの地を這いずる低い声で、『お前は主任として、部下に背中を見せる立場だろうが』って、裏の会議室でみっちり絞られたよ。……本気で胃に穴が空くかと思った」


田中は同情を隠さず眉を下げ、咀嚼していたバゲットをコーヒーでごくりと飲み込んだ。

「うわぁ……、それはキツいっすね。いくらなんでも、朝イチからエグすぎますよ。……鈴川さん、マジで胃薬買ってきましょうか?午後が始まる前に、少し休んだ方がいいですよ」


「ありがとうな。でも大丈夫だ、薬はもう飲んだから……」

田中の不器用な優しさに感謝しつつ、俺は力なく手を振った。


これ以上気を使わせまいと、そして、這い上がってくる鬱屈した空気をどうにか振り払いたくて、強引に別の話題を引っ張り出した。


「……そういえば田中。先週末の『転生したら剣で◯た』の再放送、見たか?剣の視点で敵をバンバン薙ぎ倒していくやつ」


「あ、見ましたよ!あの無双っぷり、ヤバいっすよね!」

田中が一気に表情を明るくして乗ってくる。


「ああいうの見てると、なんというか……、無性に救われるんだよな。俺もあんな剣になって、物理的に理不尽をぶった斬りたいぜ」

俺は戯(おど)け半分に笑った。


「昔からの友人や同年代の知り合いは、集まっても子育てかゴルフ、あとはローンの話ばっかりでさ。こういう二次元の趣味をまともに話せるのは、お前くらい……」


苦笑しながら言いかけて、ふと、いつかネットニュースの片隅で拾い読みした『今の三十代、四十代は、趣味を後輩かSNSでしか共有できない』という一文が思い出される。


(……完全に、今の自分じゃないか)


自嘲が胸をよぎったが、直ぐ隣でこちらへ向き直り、アニメの話題に目を輝かせている後輩の姿をまじまじと見つめる。

その屈託のない表情を見ていると、大人らしい話題の付き合いも大事だが、こうして空想を本気で語り合える関係の方が、自分にとっては心地良かった。


(……そう、俺はこのままでいい)


密かに結論づけたとき

「鈴川さんなら、異世界に行っても営業トークで魔王を丸め込めそうっすけどね!」

田中が茶目っ気たっぷりに満面の笑みで言い放った。


「おい、俺なら圧倒的な理詰めの交渉術で、魔王を土下座させて詫び状の一枚でも書かせてやるよ」


透かさず笑って返したが、無理に繕ったその明るさは、心根でギシリと軋んで歪むのを感じた。

直後に胃の裏側が引き攣(つ)り、鉛を飲んだような鈍い疲労感が全身を巡る。

ここ数ヶ月、まともな睡眠すら取れていないのだ。いつか、ぷつりと糸が切れ、そのまま倒れてしまう。得体の知れないリアルで切実な危機感が、凍てついた澱(おり)となって腹の奥へと沈下していく。


目線を宙に泳がせ、冷めた紅茶のカップを指でなぞった。


「……でもさ、田中。本当のところ、異世界に行けるなら俺は無双する力より、とにかく『絶対に疲れない体』が欲しいよ。現実じゃ、もうすっかりガタがきたポンコツ仕様だからな」

溜め息交じりにぼやき、肩を落とす。


気を紛らわせるための他愛のない雑談すら、極限まですり減った満身創痍の身には、一言ごとに体力を消耗する作業だった。


窓の外へ目を向けると、昼下がりの太陽がビルを照らし、遠くの木立が風にそよいでいる。


「さて、そろそろ仕事に戻るか……。午後も長いぞ」

自分に言い聞かせるべく呟いて立ち上がるが、疲れが体の芯にべったりと絡み付いて離れない。


気を抜けば、頭痛がズキリと走る。

誤魔化すように髪を掻き上げる仕草のまま、冷や汗の滲む額をそっと押さえていた……。





(三)家族の時間、一日の終わりに

   [西暦二〇二X年 三月某日 夜]



夕暮れの空は茜色に移りゆく。

視界に大きく入る公園では、西の空が淡く染まっていた。

エントランスの自動扉を背に、半ば茫然と黄昏れる。


定時直前、これといった具体的な理由は告げられないまま、短い帰宅命令だけを受けてオフィスを後にしていた。

隠しきれない体調悪化が、課長の目に留まったのだろうか。あるいは、倒れて数字を落とされては困るという、管理者としての打算も透けて見えた。俺自身、主任という立場である以上、ここで穴を空けて会社に迷惑を掛けるわけにはいかない。

背後にある意図が何であれ、定時で解放されたことは、素直に僥倖(ぎょうこう)として受け取るのが健全だろう。

しかし、終業の開放感は節々の痛みで暈(ぼや)け思考が霞む……。


「とにかくも、やっと終わった……、久々に早く帰れる」

安堵を乗せた声も疲労で掠れている。


思い返せば、昼休みに本気で胃薬を買いに行こうとしていた田中の顔が頭に浮かぶ。あの真っ直ぐな後輩のことだ。見えないところで、それとなく課長へ体調の悪さを口添えしてくれたのか、それとも、無謀にも諫言(かんげん)めいたことまで言ってくれたのかもしれない。そう推測すると、この唐突な帰宅にも合点がいった。


(田中、ありがとうな……)


陰ながら尽力してくれたであろう後輩の気遣いに、強張っていた胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。

さり気ない献身に背中を押され、俺は帰路へと歩みを進めた。



大通りへ出て歩調を整えたところで、真っ先に知らせたい顔が浮かぶ。

美咲への吉報だ。

携帯を取り出し、いつもなら帰宅時間が読めずメッセージアプリで済ませてしまうところだが、迷わず発信ボタンをタップする。短いコールの後、定時で上がれた旨を伝えると、通話越しに驚きと安堵が入り混じった気配が伝わってきた。


心軽やかに自然と進む足取りで、暮れなずむ街路樹の脇を抜けていく。

思い描くのは、悠斗が無邪気に喜ぶ姿。

久しぶりに息子のゲームへ付き合ってやれる。今夜は父親としての約束を全うできるのだ。あどけない笑顔を想像するだけで、心にぽっと灯りが燈るのを感じた。


緩やかな坂を下りきると視界が一気に開け、駅前の巨大なスクランブル交差点が目の前に広がった。

見上げる空は、次第に暗い赤みを帯びた蘇芳(すおう)から、青く濃い二藍(ふたあい)へと移ろい、深い暮色へと沈みゆく。街の喧噪を映す色みは、瑠璃や琥珀の瞬きを散らし揺れている。天上の残照と地上の彩光(さいこう)とが、盈虚(えいきょ)の光を織りなし奇妙に溶け合っていた。

帰宅を急ぐサラリーマンや待ち合わせの若者たちが通りを埋め尽くし、信号が変わるたび、大波と化した人影が一斉にアスファルトを飲み込んでいく。ネオンや巨大ビジョンの極彩色が乱反射する熱狂の輪郭を、すり抜けるようにして改札へと向かった。



十八時半を過ぎ、夕方のラッシュでごった返すホームは、帰宅するサラリーマンと昼飲み帰りの酔いどれ客が肩をぶつけ合い、雑多に混じり合っている。彼らの陽気な笑い声に気持ちが逸(はや)り、不思議と身体の軋みを覆い隠してくれた。


電車の車輪がレールを捉え、金属音を響かせながら滑り込む。人波に押され、よろめきながら車内へ乗り込んだ。空調の暖気がじわりと体を包み込み、汗と酒の入り混じった臭いが鼻腔を突く。窓ガラスは熱気で霞み、車内灯の反照で朧(おぼろ)げる。


(一刻も早く、我が家へ帰りたい)


窓外に映る景色は、夕暮れの最後の残光が溶けていた。

落ち着いた滅紫(けしむらさき)を抜け、藍が増す深縹(こきはなだ)へと階調を移し、薄れゆく残滓の中で静かに色を失っていく。飛ぶ速さで流れる街灯りは夜の帳(とばり)と重なり、光の帯を描き連続する。

まるで、現実から切り離された淡い絵画のようだ。


(……あの空へ、自由に飛び立ちたいな)


西の空の最後の輝きがビルや街路樹のシルエットをぼんやりと縁取り、景色は電車の揺れとともにゆっくりと遠ざかっていった。


夜の闇を背にした窓ガラスには、自分の顔が映り込んでいた。目元の陰こそ深かったが、家で待つ二人の顔を思い浮かべているせいか、その表情にはひと筋の血色が滲み、確かに活力が宿って見える。


(ああ、俺はまだやれる。元気じゃないか)


そう自分に言い聞かせ、口角を無理に引き上げた。身体はもう限界を超えているのかも知れない。けれど必死に抗い気力を振り絞る。それは、あまりに脆く哀しい錯覚なのか、待つ者のために燃え上がる命の輝きなのか。今の俺にはどちらでも良かった。


最寄り駅に到着し改札を抜けると、駅前の商店街は暖かな明かりに包まれ、生活の営みに息づいていた。

焼き鳥の煙が薄く立ち上り、香ばしい匂いが冷えた夜気に溶け込む。居酒屋の軒先から漏れる笑い声とグラスの触れ合う音が、通りをそっと彩る。


「みんな、元気だな……」

周囲の賑わいにつられ、気づけば自然と有り触れた言葉を口にしていた。


普段なら自分とは無縁の遠い世界だと目を背ける人熱(ひといき)れも、今夜ばかりは、いつになく心地よい活気として乾いた奥底を優しく解きほぐした。


商店街を抜け、閑静な住宅街から自宅マンションへ向かう道すがら。

アスファルトの坂道で足音が鈍く返る。なだらかな勾配を登るにつれて息が上がり、動悸と頭痛が胸とこめかみを激しく締めつけてくる。

だが、間もなく愛する家族のもとへ帰れるという確かな高揚感が、身体の危険な警鐘すらも塗り潰し、気力だけで前のめりに足を踏み出していく。


街路樹の新芽が街灯の淡い光に浮かび上がり、春の気配がほのかに漂っていた。

一歩一歩、刻み踏みしめるごとに、季節は確かに巡っている。日々の激務で見落としていた、そのささやかな息吹が、どうしようもなく愛おしく感じられた。



緩やかな上り坂の先に、ようやく馴染みのある輪郭が現れた。

外壁には街灯と植栽の影が柔らかく落ち、周囲の緑に溶け込み、派手さのない落ち着いた暮らしが滲むマンション。その見慣れた建築が、宵闇の中でひっそりと佇んでいた。


夜風を背にエントランスを抜け、エレベーターへと乗り込む。

密室が滑らかに上昇を始めた途端、不意に視野の端が明滅した。足元の床がふわりと遠のき、支えを失った膝ががくりと折れそうになる。階層を刻々と昇るたび、心臓の鼓動も速くなる。

肉体は限界だと悲鳴を上げているというのに、胸を打つ激しい動悸は、むしろ確かな歓喜へとすり替わっていった。


目的の階に到着し、静まり返った廊下へ踏み出す。

玄関前に立つと、いつもの景色がようやく現実味を帯びてくる。伸ばした手が、冷え切ったドアハンドルを力強く握りしめた。その硬質な感触を確かめるほどに、奥から漏れ伝わる家族の温もりが胸に沁みる。張り詰めていた頬は、気づけば自ずと緩んでいた。



扉を押し開けると、玄関の向こうから眩いほどの光が拓(ひら)ける。

久しく忘れていた色鮮やかな光景。

一瞬だけ目を細め、少しばかりの気恥ずかしさを覚える。

けれどその明るさは、慈しみに満ちた陽だまりを思わせた。


「ただいま」

掠れそうな声を気力で支えて告げる。


廊下の向こうから、まろやかで香ばしい匂いと共に

「パパ、おかえり!」

元気な声が返ってきた。


ダイニングルームから顔を出した悠斗は、嬉しそうに廊下を進んでくる。足取りは弾んで軽く、抑えきれない喜びが全身から溢れ出していた。手には箸が大切そうに握られている。


「今日はパパと一緒にご飯だね!」

玄関先でパッと顔を輝かせ、純粋な瞳をキラキラとさせる。


靴を脱ぎながら、小さな手の中に揃えられた多めの箸に目をやり

「悠斗、お箸並べてくれてたのか。お手伝い、偉いな」

膝の震えを押し隠し、悠斗の頭を撫でる。


息子のはにかむ表情に、限界を超えたはずの身体へ活力が注ぎ込まれるようだった。


覚束ない動作を隠しつつ廊下を抜けてダイニングへ入ると、カウンター越しのキッチンから美咲が明るく声を上げた。


「輪ちゃん、おかえり!連絡ありがとう」

エプロン姿で綻(ほころ)ぶように微笑む。


「久しぶりに早く帰ってくるから、急いで一品増やしちゃった。あと少しでできるからね」

そう言って手際よくコンロへと向き直った。


微かな深みを含んだ音が聞こえる。湯気と共に、出汁の優しい香りと、鶏肉と滋味深く煮えた野菜が混じり合う、どこか懐かしい匂いが漂ってくる。

立ち込める芳醇な熱気が、張り詰めていた意識をゆっくりと解きほぐしていく。


背後で聞こえる小気味よい盛り付けの音に包まれながら、自室へと足を進めた。

手に深く食い込んでいた鞄をそっと下ろし、脱力した指先で一つずつ、どうにかボタンを外しジャケットを脱ぐ。ネクタイを解くわずかな動作さえも今の身体には重労働だったが、家族の待つ食卓が心にやんわりと安らぎを与えてくれた。

応えるように、俺は一つ、深く息を吐く。そうして纏っていた仕事の余韻を、徐々に脱ぎ捨てていった。

洗面所で外の汚れを丁寧に洗い流すと、ようやく一人の父親としての顔に戻れた気がした。再びダイニングへ戻れば、悠斗が炊飯器を前に、最後の一杯を誇らしげによそい終えた姿があった。



待ち焦がれていた家族団欒。

テーブルには彩り豊かな料理が広がる。

香気が踊る熱々の主菜は美咲が追加してくれた一品だ。

薄く切り揃えられた鶏むね肉と色鮮やかな野菜のあんかけ。琥珀色のあんがとろりと絡むそれは、見るからに喉越しが良く、胃にも優しく寄り添ってくれそうだ。

その脇を固めるのは、豆腐と白菜の味噌汁。

具材がしっかり煮込まれているのか、微かなとろみを帯びており、白く揺らめく先に広がる、ふくよかな香りが鼻腔を優しく撫でる。

さらに、キャベツと卵の炒め物が黄色い彩りを添え、小鉢にはじっくりと味が染みた大根の煮物。

そして、いつもより少し柔らかめに炊かれた白いご飯が三膳。

どれもが消化と栄養を何よりも優先しながらも、育ち盛りの悠斗の満足感まで考慮した心尽くしの布陣だ。


美咲がどれほどの想いでこの食卓を整えてくれたのかが、痛いほど伝わってくる。俺の身体を深く慮(おもんばか)ってくれたことが一目でわかる品々に、気づけば心の芯が熱くなっていた。


三つの椅子が引かれ食卓を囲む。


「いただきます!」


悠斗が待ちきれない様子で元気よく両手を合わせると、俺と美咲もそっと声を重ね、食前の言葉を添えた。


ようやく一日の終わりを実感し、掌に伝わる茶碗の温みを確かめる。その手応えに導かれ、真っ先に箸をつけた逸品をゆっくりと口へ運んだ。


「どう?今日の鶏肉、消化に良さそうに煮てみたんだけど、……味はどうかな?」


俺が最初に鶏肉へと手を伸ばすのを見て、美咲が期待と不安の混じった様子で声をかけた。


「うん、すごくまろやかでいい味だ。お腹に優しく染み渡っていくよ」


感謝を込めて笑みを返そうとするが、頬が引き攣り思うように動かない。それをどうにか、努めて穏やかな表情に整えていく。


「美咲のご飯は、身体の芯まで温まるな。こうして三人で食卓を囲めるなんて、最高のご褒美だよ。……ありがとう」


胸を突き上げる熱い昂ぶりが、今は何より心地良い。家族への愛おしさが熱気を帯びるほど、限界まで壊れかけた全身を強引に燃え立たせてくれた。

それでもなお、指先は小刻みに震え、額からは冷たい汗が滲み出している。時折、底なしの沼へ呑まれそうな虚脱感も顔を覗かせる。

それらを、ただ一途な情熱だけで、どうにか上書きし続けていた。


「あのね、パパ!」

言葉が途切れるのを待っていたのか、悠斗が弾んだ声を上げる。


「今日ね、学校の鉄棒で逆上がりができるようになったんだよ!先生がちょっとだけ背中を支えてくれたら、くるんって回れたの。すっごく嬉しかった!」


そう言いながら、悠斗は空いた手を宙で回す仕草をして、くすぐったそうに微笑む。瞳は食卓を照らす穏やかな黄金色を受け、誇らしげに煌めいていた。


息子の成長に心が沸き立ち

「そうか、ついに成功したのか。悠斗、頑張ったな。……今度、パパにも見せてくれるか?」

身体の不調を押して問いかける。


「うん!いいよ!」

得意気に大きく頷くと、はじける笑みを浮かべた。


嬉しそうな笑顔を見つめながら、ふと現実的な問題が思考をよぎる。

連日終電と休日出勤で回している今の業務状況で、まともな時間を作れる保証などどこにもなかった。


(約束、果たせるのか……?いや、何がなんでも守ってみせる)

頭をもたげた懸念は、ほんの一瞬で消し飛ぶ。


目の前で無邪気に笑う息子の成長を、この目にしっかり焼き付けたい。その純粋で強烈な願いの前では、仕事の都合など些末な問題でしかない。


「悠斗、楽しみにしてるぞ」


刻一刻と崩れゆく肉体は悲鳴を上げていたが、昂ぶる意志はそんなもの、一顧だにしていなかった。


「よかったね、悠斗。ママにも格好いいところ見せてほしいな」

柔(にこ)やかに耳を傾けていた美咲は、嬉しそうに目尻を下げる。


その表情を見守るうち、鮮烈に、ある情景が頭に浮かんだ。


「そうだな……、桜が咲く頃に、思い切ってまとめて休みを取ろうか。近所の公園でお花見でもしながら、悠斗の逆上がり、見せてもらおうか。お弁当持って、ゆっくりとな」


「うん、すごくいいと思う。それなら、ここから坂を少し下った先にある池の公園はどう?桜並木が綺麗だし、広場に鉄棒もあるから、ちょうどいいんじゃない?」

美咲の声が、来たる春のささやかな約束に、花が咲いたように明るく彩られる。


「ああ、あそこなら最高だ……」

期待と高揚に、心と鼓動は加速していく。


「やったー!パパとママとお花見!」

悠斗は目を零れんばかりに輝かせ、眩い笑顔を向けて椅子から身を乗り出した。


(この笑顔のためなら……休みなんて、どんな無理を通しても取ってやる)

屈託なく喜ぶ妻と息子の姿に、胸の深層へ熱い塊が込み上げてきた。


この掛け替えのない家族を、身を賭してでも守り抜きたい。なんとしても、交わした淡く尊い誓いを叶えたい。


熱を帯びた決意が心を高く舞い上げる一方で、両肩にのしかかる見えない重圧は容赦なく増していく。

それが仕事への不安か、身体の変調への戦慄かは定かでない。

胃の奥には冷たく重い痛みが居座り、もはや箸を進めることすら困難になりつつあった。

それでも俺は、軋みを上げる肉体の限界など微塵も感じさせないように。

明日への希望に胸を膨らませる普通の父親として、ただ穏やかに笑い続けた。



泥のように沈む身体の奥で、張り詰めていた心の糸は静かに解け、満ち足りた食事の時間は温かな余韻を残して過ぎ去っていった。


席を立つ美咲が手際よく食器をまとめ始めると、悠斗も背伸びをして布巾を手に取り、健気に立ち働く。

ダイニングの片付けを二人に任せ、俺は隣のリビングへと移動して、ソファに深く体を預けた。食器の触れ合う嫋(たお)やかな生活音に包まれ、睦まじい二人の姿が遠目に映る。

その光景は、切り取られた一幅の絵葉書のようだ。ただ眺めているだけで、乾ききった内側に瑞々しい雫が染み渡っていく。


一息つくと、摩耗した身体をどうにか引きずって短いシャワーを浴びる。

仕事の汗は落とせても、身体の芯に根を張った困憊(こんぱい)までは到底洗い流せそうにない。

蝕み続ける身の内の不調と、それに伴う得体の知れない不安が、時折、泥濘(ぬかるみ)から湧き立ち顔を覗かせていた。


リビングへ戻りソファにもたれるが、意識は闇に飲まれそうになる。

ふと、廊下の奥から水音と明るい笑い声が舞い込んできた。入れ替わりで風呂へと向かった、妻と息子の朗らかな語らい。

すると、あの底知れぬ禍々しさが塗り替えられていく。乱れた音階は清らかな音色へと収束を遂げ、ゆっくりと意識の下へと追いやられていった。

今の俺には二人のつつがない気配さえ、擦り切れた精神(こころ)を静かに調律してくれる、何よりも清冽(せいれつ)な調べだった。



やがて、湯上がりの火照った頬をした悠斗が、待ってましたとばかりにお気に入りのゲーム機を抱えてリビングへ駆け込んでくる。

期待に満ちた瞳でコントローラーを差し出され、並んでソファに腰を下ろした。

小さな手から受け取った簡素な感触が、ひどく懐かしかった。


画面の中では、剣を携えた異世界の英雄たちが派手な閃光とともに宙を舞い、魔法の軌跡が夜の部屋を鮮やかに染め上げる。

悠斗がずっとやりたがっていた、人気のアニメを模した対戦ゲーム。

めくるめく残光の中で何が起きているか、どんな会話を交わしたかなど、もはや記憶の表面を滑り落ちていくように定かではない。

ただ、隣で上下する小さな肩の揺れ。

必殺技が決まるたびに弾ける、鈴を転がしたような笑い声。

テレビの強い光に照らされ、瞬(まばた)きする間にも豊かに表情を変えていく息子の横顔。

それらの輪郭や色彩、鼓膜を打つ波長までもが。

永遠に失われない光の束となって、擦り切れた命の底へと一つひとつ焼き付けられていく。


ずっと先延ばしにしていた、取るに足らない、けれど俺にとっては絶対の約束。

ようやく、父親としての得難い時間を全うできた。

この凪わたる充足感が、強張る四肢の痛みを、今は優しい薄衣(うすぎぬ)のように包み込んでいた。



「悠斗、そろそろ寝る時間だよ。パパもゆっくり休ませてあげなきゃ」

明日の支度を終え、しばらく様子を気にかけていた美咲が、労(いたわり)の滲む声で水を向ける。


「うん、わかった」

悠斗は名残惜しそうにしながらも、素直に手元の遊びを切り上げた。


「パパ、すっごく楽しかった!またやろうね。おやすみなさい」

照れくさそうに笑い、軽やかな足取りで美咲の元へ向かう。


「……おやすみ、悠斗」

満ち足りた笑顔に向けて、喉の奥からどうにか声を絞り出した。


美咲に手を引かれ、廊下の奥の寝室へと足音が遠ざかっていく。

微かな擦れ音とともに、扉が閉ざされるのを聞き届けるまで、ただじっと耳を澄ませて、確かな幸福の残響を深く胸に刻み込んでいた。



独り、リビングに取り残される。


途端に、張り詰めていた気力の堤(つつみ)が決壊し、堰き止められていた重圧が一気に全身へのしかかってきた。


ソファの背もたれへ、崩れ落ちるように身を預ける。

先程までの賑わいが泡沫(うたかた)に帰し、深夜の静寂が耳底(じてい)を容赦なく塞いだ。家族の体温で満たされていたはずの空間に、今は荒く短い呼吸だけが不規則に響いている。


胃の底を蠢く、どろりとした淀んだ吐き気。

指先からじわじわと這い上がってくる、血の気が引くような悪寒。

とうに摩滅(まめつ)の果てた躯(からだ)を置き去りに、心だけは奇妙なほどに澄み切っている。


(……これでいい。今日は、立派に父親をやれた)


目を閉じれば、瞼の裏にはまだ、眩い光に照らされた息子の笑顔と、それを見守る妻の慈しみを湛えた眼差しが焼き付いている。


薄氷の硝子を隔てた先には、見慣れた夜景が瞬く。

己のすべてを焚(く)べ尽くそうとも、あの光の先へ続く二人の未来は、明日へと繋ぎ止めてみせる。

泥沼の底へ落ちゆく意識の淵で、最後に残った唯一の灯火(ともしび)を、深く胸に抱きしめていた。





(四)過ぎゆく日々の名残と、還りつく果てに

   [西暦二〇二X年 三月某日 深夜]



深夜の静寂は、耳鳴(じめい)を伴い降り積もる。

耳の奥で張り詰めた空気が高鳴り、沈黙を震わせる。


ソファに埋もれる身は、泥土に深く嵌まり込んだ岩と化し、もはや指先一つ動かすことすら億劫だった。


(……やっと、一日を、終えられたか)


​安堵とともに深く息を吐き出そうとして、思うように呼吸のリズムが整わないことに気づく。ただ座っているだけだというのに、荒く浅い呼吸が喉元で不規則に空回りしていた。


(……この身体、……何かが、おかしい……?)


自問は浅い呼気に混じり、形を成さないまま、薄暗いリビングに溶けていく。返ってくるのは、自分のものとは思えないほど覚束ない指先の感覚だけだった。

背中から胸部にかけて、得体の知れない鈍い張りが居座っている。鋭い痛みなどはとうに通り越し、今は巨大な岩盤に身を潰される、絶望的な重苦しさが支配している。

心臓の周囲に重く冷たい塊がまとわりつき、血管をじわじわと締め上げる、ひどく不気味な圧迫感。胸を満たす鈍い圧は、左の肩口から腕の奥へと広がる。息を吸い込むたびに、どこかで空気が詰まるような感覚が、喉元へわずかに引っかかり続けた。

内側の昂ぶりが、どうしても鎮まらない。脳が焼き切れそうな、異常な冴えが続いているせいか、急速に血の気が引いていくのがわかった。

指先はひんやりと凍てつき、意識に反して頼りなく震え続けている。鏡を見なくとも、今の自分がどれほど土気色の顔をしているか、容易に想像がついた。


(……もう、戻れないところまで、来てしまったのか……!?)


疲弊が骨の髄まで浸透し、頭の芯が割れるように疼いている。

ただの過労だ、少し眠れば治る。そう自分に言い聞かせようとする思考の裏側で、本能だけが、いつもの疲労とは決定的に異なる、埋めようのない欠落を察知し始めていた。


窓外では、夜風に翻(ひるがえ)る街路樹の影が、闇を深く掻き乱している。

内部では、積み上げられた疲弊の地層が音もなく崩れ落ちようとしていた。それでも、視界の端には先ほどまで悠斗が座っていたクッションの窪みが残り、そこに、まだ密やかな熱が漂っていた。

その些細な痕跡だけが、瓦解しかけている意識をどうにか現実へと繋ぎ止めている。


(……独りになればこれほど脆くても、あの二人がいてくれるだけで……まだ、やれるのか)


荒い息をどうにか呑み込み、必死に平静を装って胸を撫で下ろした、その時だった。

廊下から近づいてくる控えめな足音とともに、ダイニングの扉がそっと開かれ、リビングの空気が揺れた。


「……輪ちゃん、まだ起きてたの?」


悠斗の寝かしつけを終えた美咲が、どこか切迫した色を浮かべ、深く案じる面持ちで姿を見せた。


「ああ。……悠斗、すぐ寝たか?」


激しく乱れる呼吸を気力で薄く引き伸ばし、喉の奥からせり上がる淀みを飲み込む。

引き攣る表情を強引に宥(なだ)め、いつも通りの、少し疲れた夫の笑みを貼り付け振り返った。

だが、近づいてきた美咲の足取りが、不意にピタリと止まる。


「……ねえ、大丈夫?顔色、本当に悪いよ。それに唇の色もどこか変だし…、変な汗、かいてない?」


ただの家族としての労いを超えた、余すところなく気遣う切実な眼差し。彼女の視線が、覆い隠したはずの歪みや制御できない身体の震えを、優しく案じているようであった。


「昨日も遅かったし、少しだけ仕事の疲れが溜まってるみたいだ。……ちょっと胃が重いだけで、なんともないよ」


彼女の心配そうな顔を見た途端、反射的に大丈夫だと体裁を繕ってしまう。ただ安心させたいという思いばかりが先行し、不調を気付かれるわけにはいかなかった。


「今夜は悠斗と三人でご飯食べられてよかったよ……。最近ちょっと無理してたみたいで、悪いな」


内奥(ないおう)を締め上げる桎梏(しっこく)にも似た逼迫感を必死に意識から切り離し、身の芯で支えながら声を整える。


幽(かす)かな不安を拭いきれないように、美咲は俺の額へそっと手を伸ばしてきた。触れた掌は沁み入るように温かく、対照的に、自分の肌の、土塊(つちくれ)めいた冷たさが浮き彫りになる。


「……熱はないみたいだけど、体が氷みたいに冷たいよ。脈、少し見せて」


その声音には、いつもの気遣いとは異なる、うっすらと張り詰めた硬さが混じる。


「本当に平気だよ。美咲も一日中、仕事に家事と大変だっただろ。……いつも、ありがとう」


気遣わしげに手首へ触れようとする美咲の手を、俺は慌てて、けれど極めて自然な動作を装って、優しく包み込むように押し留めた。


「今日は久しぶりに定時に上がれたんだ。同僚の奴が心配して、上手く口添えしてくれたみたいでさ……」


ここで手首を預けてしまえば、不自然に乱れた鼓動の刻みで彼女の不安を募らせてしまう。

ほんの一瞬だけ、彼女の動きが止まり、何かを測るような間が落ちた。


「だから、明日は何が何でも休みを取って、病院に行くよ。心配かけてごめんな」


これ以上ないほど穏やかな声色。

あと一歩踏み込めば何かが変わる、その手前で思い留まるような沈黙が、二人のあいだに静かに広がった。


彼女の手の温もりを、祈るように一瞬だけ握り返す。

崩壊の予兆に軋むこの身を、家族への愛情という一念のみで辛うじて封じ込める。己の内を削り出して演じ切った、平穏の残像だった。


「……うん、わかった。輪ちゃんも、本当にお疲れ様。でも、絶対に無理はしないでね。……もし何かあったら、すぐ呼んで」


淀みのない俺の笑顔に、美咲はわずかに戸惑いながらも、案じていた胸のざわめきを宥めるように、柔和な表情へと戻っていく。


それでもなお、自らを納得させるように、美咲は唇を結び、小さく頷いた。

「……明日の病院、私も付き添うから。一緒に行って、ちゃんと診てもらおうよ。……だから今夜は、ゆっくり休んでね」


「ああ。……おやすみ」


「……うん、おやすみなさい」


その場を離れかけて、確かめるように、もう一度だけ俺の顔を見つめる。

だが結局、それ以上は何も口にせず、後ろ髪を引かれるように何度か振り返りながら、リビングを後にした。


見送る視界からその背中が消える。

耳を澄ませていると、廊下の先へと足音が遠ざかる。乾いたラッチの音と共に寝室が閉ざされ、夜のしじまへと名残を落として消えていった。


営む音は途絶え、無音が降りてくる。


辛うじて支えていた気力の糸が切れたのか、その場から起き上がれずにいた。

衰弱しきった身体は、自室へ向かうことなど叶わないまま、ソファの深くへと澱(おり)のように沈み落ちていく。




どれほどの時間が過ぎ去ったのか。


照明を落とす気力すら既に尽き果て、天井からは白々とした明かりが降り注いだままだ。日常の連続が唐突に置き去りにされたような煌々とした光と、リビングを覆う深い静寂の中で、時計の針だけが淡々と時を刻んでいる。


前触れもなく、心の深部で拍動が抜け落ちた。

次の鼓動が来ない。

呼吸がわずかに浅くなる。吸ったはずの空気が、胸の奥まで届かない。

耳触れていたはずの時計の音が、遠のく。

規則正しかった秒針の刻みは、厚い水の層を隔てたように形を失っていく。


(……あ、)


声にならない吐息が、微かに零れる。

急速に思考の輪郭がぼやけ、視界の縁から、静かに暗がりが滲み始める。

部屋の空間が保てない。

光はあるのに、形が結ばれない。

中央だけが辛うじて残り、その外側から、ゆっくりと世界が閉じてくる。


(……あ……れ)


焼け付くような痛みも、息を呑むほどの激しい発作もない。

ただ、命の律動を刻み続けていた中心が、唐突にその役目を放棄している。

隅々まで行き渡っていた血の気が、潮が引くように一瞬にして失われた。

感覚はまだあるのに、それが自分のものではないように薄れていく。


(……や……ば)


指先の輪郭が曖昧になる。

手足の感覚が冷たい水に溶けるように消え去っていく。

足の重さが消え、身体の位置が掴めない。

ソファに沈んでいるはずの体が、境界を失っていく。

音は、もうほとんど届かない。

世界は、ひどく静かだった。


(……み……さき)


浮かぶのは、言葉ではなかった。

柔らかな手の温もり。

案じるように触れた掌の感触。


(……ゆ……う、と……)


眩い光の中で弾ける、息子の笑顔。

その像だけが、狭まる視界の中心に、強く残る。

周囲はすでに暗い。

残された一点の光も、ゆっくりと遠ざかっていく。


(……ま……っ……)


呼吸の感覚が、消える。

吸おうとする意思だけが空を掴み、次の瞬間にはそれすら途切れる。


(……あ……り……が……)


最後の言葉は、音を成さないまま崩れ、意識の奥へと沈む。

光が、消える。

もがいて悲鳴を上げることもなく、身を預けた姿勢を崩すこともなく。

ただ、静かに目を閉じるように。




俺の心は、家族の眠る穏やかな空間から、音もなく切り離されようとしていた。



肉体の枷(かせ)を外れた精神は、波一つない水鏡のような静寂に浸っている。ただ、自身が不可逆の死を迎えた事実を、あるがままに悟っていた。


脳の機能が停止し、あらゆる知覚が消え去った代わりに、途方もない後悔と申し訳なさが、形を持たない思念となって止めどなく溢れ出す。


どうしてこんなになるまで、限界の身体を酷使し続けてしまったのか。明日も、明後日も、当たり前のように家族の側にいられると信じ切っていた。もっと一緒に笑い合いたかった。悠斗が大きくなっていく姿を、美咲の隣でずっと見守っていたかった。

愛する妻と息子を遺して、こんな夜更けに独り逝ってしまう己の愚かさが、なす術(すべ)もなく遣る瀬無かった。


それでも。

意識の最奥で鮮明に浮かび上がるのは、陽だまりに咲き誇る息子の笑顔と、寄り添う妻の、指先から伝わる温度。

限界の果てに、愛する家族との時間を過ごせたこと。

やり残したことへの悔いを、あの満ち足りた夜の記憶が、優しいベールとなって覆い隠す。


残された二人への謝罪と、尽きることのない感謝。

どうか幸せに生きてほしいという純粋な願いが、輪郭のない想いとなって、薄れゆく自己の境界を満たしていく。


切なる祈りは、果てのない沈黙へと吸い込まれるように還っていく。

満ち足りた記憶の残り香だけを、決して消えない熱として抱きしめながら。


俺という存在は、愛しき者たちが息づく場所から、薄れるように解き放たれていった。








水面に広がる波紋が凪ぎゆくように、意識は遠ざかり消えていく。


果て無き沖へと薄く伸びていき、どこまでも続く虚無の海へと還り、その境界線を淡く滲ませる。


現実と夢の狭間で、微睡む深閑(しんかん)の水底(みなそこ)へとゆっくり溶けていく。




揺蕩(たゆた)う流れの中、そこは始まりも終わりもない、永遠の空白。


無窮(むきゅう)に終わることのない茫漠(ぼうばく)たる間(あわい)の、何もない真っ白な世界。


沈黙の底で曖昧に揺らめく。


時間の流れは意味を失い、ただ、絶えまない幽寂(ゆうじゃく)だけがここにある。


瞬間が永遠となり、永遠が瞬間となる。


魂が、いつしか辿り着く場所。


幽(かか)げな記憶の漣(さざなみ)に、記銘(きめい)せし数多(あまた)の言葉が波打ちめくるめく。


黄泉平坂

三途の川

ニライカナイ

積尸気(せきしき)

アケローン川

ヴァルハラ

ライフストリーム

……………

……


かつて人々が、それぞれの死生観で縁取ろうとした言葉の幻影。

いかなる名を与えられ語り継がれようと、全ての魂は等しく、この白き世界へと帰趨(きすう)していく。



やがて渚を満たすように、無形に澄み渡るこの空間の真理が、消えゆく意識の表層へと浸透してくる。



――汀(みぎわ)なる永劫の虚白(こはく)



それは、彼という人間を根底で形作り、生まれ育った母国の言葉、日本語という器を借り、真の名前として深層へ結像した。




――残滓を経て


音もなく、どこまでも、奥深くへと沈んでいく。


思考も感情も、過去も未来も存在しない、ただの無へ――



最後のひと欠片は、消失していく……。





その刹那――


裡(うち)側が、激しく揺さぶられる。


時の流れは交錯し、存在が終末を迎える領域。

感覚は意味を成さぬ、無音の世界。


摂理を超えた波紋が、意識の底を打つ。


時間の概念が融解した空間ゆえか、

幾重にも重なる交響でもあり、

永遠に引き伸ばされた残響でもあり、

束の間の感響でもあった。


矛盾するただ中で、本質は一度きりの、裡へと届く澄み切った響き。


透き通ったその衝撃は、置き去りにしてきた記憶の遺珠(いしゅ)を呼び覚ます。



――チリン



響きは、かつて識(し)り得た涼やかな音色として蘇り、どこか鈴の音を彷彿させる。

そして、無へと希釈されかけていた意識を、底からふわりと掬い上げた。


見えざる力に引かれるような浮遊感を伴いながら、再び一本の糸として引き絞られていく。


ほどけた糸が結び目を繋ぎ、精緻な織物となって形を成していく。


流れに身を委ねる裡へ、綴られるまま無垢なる平穏が満ち溢れ、心の在処は安祥(あんしょう)に包まれていった。






だが突如として、無機質で冷然たる力が干渉する。


忽(たちま)ち、紡がれたばかりの意識へ、鮮烈な感覚が流れ込んできた。



それは、


映り込むほど研ぎ澄まされた御影石、


あるいは、呑み込まれるほどに凍てついた黒曜石。



深層へ粛々と沈み込み、峻厳(しゅんげん)なる理(ことわり)を以て貫流(かんりゅう)していく。


抗うという概念すら持たぬまま、悠揚(ゆうよう)と手繰り寄せられ、玄奥(げんおう)へと導かれる。



そこは、


重く滑らかな黒耀(こくよう)の闇。


常に在り、久しく長い時を、不変のまま移り変わることがなく、


巨大な磐(いわ)と石の如く、極めて堅く、微動だにしない。


――常磐(ときわ)なる黒。



ただ在るという確かさだけで、全てを填(うず)めていく。


存在の輪郭が再びゆっくりと薄れ、漆黒の深淵へと沈んでいく。


終(つい)には、全てが重厚な闇へ置き換わる。


朧げな記憶の余韻だけを留めたまま。


寂(せき)として。


粛然(しゅくぜん)と。


かくして、世界は暗転し、意識は閉じていった。










先人の足跡に、敬意を込めて



本作の執筆にあたり、物語の随所で先達の諸作に触れ、引用させていただきました。

登場人物の心境や日常の風景を描き出すうえで、これら偉大な物語が持つ普遍的な魅力、あるいは独自の視点をお借りした次第です。

未踏の道を拓き、新たな表現の地平を示してこられた先駆者の方々に対し、深く感謝の意を表します。

本項では、本作に彩りを添えていただいた各作品の軌跡を、敬意を持って紹介させていただきます。

原作者ならびに関係者各位への感謝を込めつつ、敬称は割愛いたします。




■『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』


・著者: 理不尽な孫の手

・イラスト(キャラクター原案): シロタカ

・出版社/レーベル: KADOKAWA/MFブックス

・Web連載期間: 2012年11月 〜 2015年4月(小説家になろう)


・内容紹介: 34歳無職の男が剣と魔法の異世界に転生し、「ルーデウス・グレイラット」として前世の経験と後悔を糧に、新たな人生を本気で生きていく姿を描いた大河ファンタジー。


・主なメディア展開: 多彩なコミカライズやスピンオフ、ゲーム化など多方面で展開。TVアニメシリーズも継続的に制作されており、その圧倒的なクオリティとともに、ファンタジーの金字塔として世界的な支持を広げ続けている。


・関連リンク:

公式ポータルサイト:

http://mushokutensei.jp/


Web公開ページ(小説家になろう):

https://ncode.syosetu.com/n9669bk/



■『転生したらスライムだった件』


・著者: 伏瀬

・イラスト(キャラクター原案): みっつばー

・出版社/レーベル: マイクロマガジン社/GCノベルズ

・Web連載期間: 2013年2月 〜 (小説家になろう)


・内容紹介: 不慮の死を遂げた37歳の独身サラリーマン、三上悟。彼が異世界で得た新たな姿は、最弱のイメージがある「スライム」だった。転生して「リムル」となった彼は、多種多様な種族と出会いながら知恵と度胸で仲間を増やし、魔物の国「ジュラ・テンペスト連邦国」を建国していく物語。


・主なメディア展開: コミカライズやスピンオフ、ゲーム化など多角的に展開。TVアニメシリーズは劇場版を含め継続的に制作・放送されており、今なお多くのファンを魅了し続けている。


・関連リンク:

公式ポータルサイト:


Web公開ページ(小説家になろう):

https://ncode.syosetu.com/n6316bn/



■『転生したら剣でした』


・著者: 棚架ユウ

・イラスト(キャラクター原案): るろお

・出版社/レーベル: マイクロマガジン社/GCノベルズ

・Web連載期間: 2015年9月 〜 連載中(小説家になろう)


・内容紹介: 異世界で「知性を持つ武器(剣)」として転生した主人公が、奴隷として虐げられていた黒猫族の少女・フランと出会う。彼女の装備者(師匠)となり、強さの果てにある「進化」を目指す少女の願いを叶えるための冒険を描く。


・主なメディア展開: 複数のコミカライズやブラウザゲームなど、多彩なメディアミックスを展開。TVアニメシリーズも回を重ねて制作されており、剣と少女の絆を描く独創的なファンタジーとして、幅広い層から根強い支持を集め続けている。


・関連リンク:

TVアニメ公式サイト:


Web公開ページ(小説家になろう):

https://ncode.syosetu.com/n6006cw/






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