第2章 発達障害者と就労:高機能広汎性発達障害者への就労前支援に向けて【3】(元明神下診療所・米田衆介)
私が嘲笑するのは、いわゆる「実際的な」人々や彼らの知恵なのです。もし人が牛のようなものでありたいと思えば、もちろん人類の苦しみには背を向けて、自分自身のことだけ心配していることもできるでしょう。
1働くことの意味を考える
就労支援を考えるときに、「なぜ働くのか」という問いは、つい置き忘れられがちである。この問いの答えは簡単ではないが、支援者は、そのことについて考えることを怠るべきではない。そうでなければ、ただ単に働いているという形を作るだけになってしまう。
また、精神医学的に考えても、精神科的リハビリテーションにおいては、患者にとっての働くことの意味や動機が治療上の問題になるのであって、ただ働くことそのものが治療の目標であるわけではない。また、就労以外のかたちで社会参加が可能であれば、当然それも選択肢として考えられる。たとえば、家から一歩も出ないけれども、社会的に有用なデータベースを構築してインターネットで公開している、というような社会参加のあり方が存在してもよい。本稿は、就労支援をテーマとしているので、企業就労を中心に以下の議論を進めていくが、それだけがすべてではないということは一応理解しておく必要がある。
2発達障害者にとって就労の意味とは
発達障害の当事者に働きたい理由を聞くと、ひとの役に立ちたい、意味のあることがしたい、生活するお金を自分で稼ぎたい、金持ちになりたい、自分のやりたい仕事につきたい、みんな働いているから、親に言われるから、あるいは、世間並に働いていないのは恥ずかしいから、など、いろいろな理由が出てくる。
これを大きく分けると、1)社会的有用性指向型2)金銭指向型3)自己実現型4)受動調和型というように分けられそうである。もちろん、これらは固定的なものではなく、個人の成長の過程で移行していくものであるし、移行途中の中間型もあると想定される。
1)社会的有用性指向型
働く理由は何であっても構わないのだが、実際には就労の実現性から、就労後の生き方にいたるまで、それに左右されてしまうのも事実である。経験的には、もっとも就労の可能性が高く、就労後も安定しやすいのは、社会的有用性指向型である。社会的有用性指向型では、仕事そのものの意味と、本人にとっての動機が基本的に一致している。たとえば、農作物を作るのは、それを食べる人の役に立つからとか、掃除をするときれいになって皆の気持ちが良いからというようなことである。
2)金銭指向型
金銭指向型は、ごく常識的な考えという意味ではよいようだが、実際には実力に見合わない高い賃金を希望することが多く、就労の段階で折り合わなかったり、就労後に給料が上がらないとすぐにやめたがることがある。細かくみると、
金銭消費型:あれがほしい、これがしたいという物欲に駆動されるという、ある意味健康なタイプ。いわゆる正常者の若者にも多くいるであろう。
金銭権力型:金持ちになって見返してやるというタイプで、中身としては自己実現型に近い。実力が伴わない場合は、不適応につながることがある。
金銭不安型:金がないこと自体が不安でたまらないという病理をもったタイプで、強迫性に関連していることがある。
このような3種に分かれるが、はっきりした境界はない。
3)自己実現型
自己実現型は、ある意味で、一番難しいかもしれない。ぜひ消防士になるのだとか、研究者になるのだとか、社長になって株式を上場するのだなど、非現実的な目標を持つことが多いし、仮に現実的な目標に落ち着いても、少し仕事に慣れると空想的な新しい目標が出てきて地に足がつかないことがある。細かくいうと、
内容志向:鉄道が好きだから鉄道員になりたい等というタイプ
権力志向:立身出世をしたいという発想をするタイプ
以上の二種類に分かれるが、明確にはわけられない。たとえば、政治が好きだから総理大臣になりたいとか、野球が好きだから大リーガーになって尊敬されたいなどというのは、両者が混じっている。
4) 受動調和型
受動調和型は、動機として低く見られがちだが、実際には正常者に多く見られ、かつ健康的な動機といってよい。細かくは、
他者受動型:信頼している誰かの意見を受け入れて、受動的に動機づけられるタイプ
対人調和型:職場の中で信頼され受け入れられることに価値を見出すタイプ
以上の2種に分かれる。特に、広汎性発達障害スペクトラムにとっては、他者の意見を受け入れて自分の動機にするとか、周囲と調和して職場の同僚に受け入れられたいというような目標を持てること自体、病理を克服しているということであり、治療上は高く評価されてもよい。これらのタイプは、環境に恵まれると非常に安定するのだが、具体的な就労ヘ向けて動き出すまでが大変なことが多い。また、環境設定が適切でないと無理をして合わせようとするので、結局は持ちこたえられずに破綻してしまう。
こうした分類の妥当性はともかく、働くことには多様な意味づけがありうるのだから、相手を見て、状況を判断して働きかけなければ、見当違いの介入になってしまう。
3家族にとっての意味
発達障害者の支援においては、本人の利益と家族の希望が矛盾することが珍しくない。理由はいろいろあるが、本質的な利害対立が存在する場合もあるだろうし、家族の誤った状況判断による場合もあるだろう。
よくあるのは、家族が何が何でも就労させなくてはならないと焦るケースである。多くの場合は、就労しないと生きていけないのではないかと誤解している。実際には、年金や生活保護の制度が利用できるので、本当に就労できない場合には他の生きる手段があることをよく説明しなくてはならない。将来にわたって生きていけるだけの資産がある場合は、なおのこと就労以外の生き方の選択がありうることを理解すべきである。
また、経済的理由よりも、家族による能力の過大評価が本人を追い詰めている場合もある。標準化された検査や、職業訓練・実習、アルバイトなどの機会を通じて、家族にも適切で客観的な能力の理解ができるように支援する必要がある。家族の認知を修正することは、場合によっては家族に大きな負担をかけるが、被支援者のために必要なことであるから、決して修正をためらうべきではない。家族の誤った認知が修正できない場合には、家族との分離も検討する。
4社会にとっての意味
対象者が就労するということの、社会の側にとっての意味も、支援者は意識している必要がある。働いていない人が働くのはよいことのように見えるが、そう単純なこととは限らない。
たとえば、ここに1人の平均的な労働能力を持った労働者がいて、その労働による会社の利益への寄与分が20万円であったとしよう。この人の1ヶ月の賃金が10万円であったとしたら、労働の材料や設備・機械類の償却費、総務・労務管理などの業務の経費を差し引くといくらかの利潤が残るというところだろう。
さて、平均的な労働生産性よりも半分程度の生産性を示し、配慮や介助などで月に5万円の費用がかかる対象者がいたとしよう。同じ条件なら、この人の会社の利益への寄与分は10万円で、必要な配慮の経費換算分5万円を引くと月5万円、その他の経費を引くとほぼゼロかそれ以下になるはずである。しかし、最低賃金があるので、この人にも約10万円の給料を払わなくてはならない。夢のない話かもしれないが、障害者を採用することは、企業にとって決して利潤に結びつくとは限らない。
障害者にも働く権利があるという主張は正しいといってよい。しかし、それは市場原理と利潤追求に反してでも、という暗黙の含意を前提としない限り成立しない。だとすれば、そのコストはだれが負担すべきなのか、企業なのか、障害者なのか、政府なのか。この問題は、実際上なかったことにされている。さいわい、企業はコストを負担することを拒否していないので、それはそれでよいのだが、問題が公然と論議されていないので、企業側はコストを最小化しようとする誘惑に打ち勝ちがたい。このことが、発達障害者に無理な生産性を要求する結果になり、例えば、抑うつ状態や錯乱状態などの(いわゆる”2次的な”)精神障害を誘発するケースも既に出現している。
考えるに、障害者には働く権利とともに、もう働けないと主張する権利も認められるべきであろう。そうでなければ、社会全体が強制収容所と変わらなくなってしまう。憲法上の基本的人権とも照らし合わせて、自明のことと思われるが、あまり明確に議論されていないことは残念である。この数年で、私自身が医師として「タオルを投げた」ことが何度かある。ノックアウトになるまで、障害者を働かせるのは間違っている。そんなものが、ノーマリゼーションだと考えてもらっても困るのである。
したがって、何が何でも企業就労が立派なことで、作業所で働くことのが「負け組」というような考え方を止めてもらう必要がある。とりわけ、被支援者自身がそのように考えてしまうことが問題である。その点を考えずに無暗に企業就労を促進することは、障害者に新たな挫折を強いることになる可能性がある。
5働くことを理解するために
正確な介入をするためには、働くことについて対象者が何を考えているかを知る必要がある。そのためには、単に受動的に傾聴するのではなく、働くことの意味について非援助者と学習を進めていくなかで確認していくのが良い。はじめに対象者に説明しておくべきことは、働くということの前提条件である。
「仕事が成り立つためには、1)自分がやろうと思うこと、2)自分の能力で実際にできること、3)誰かがお金を出してでもあなたにして欲しいと思うこと、以上の3種類のことが重ならなくてはならない」ということである。これは、労働の分野では有名な話だと聞いているが、対象者は気が付いていないことが多い。
非常にまずい支援の仕方として、「自分がやろうと思うこと」を絶対視して、後の「自分の能力で実際にできること」という、第2の前提条件を無視するパターンがある。被支援者の「気持ちを尊重する」のは結構だが、現実を無視しては支援にはならない。それは、一緒に遭難しているだけのことであるから、要するに足を引っ張っているだけであって、支援とはいわないのである。
自分の能力で実際にできることについての正確な認識を獲得することは、就労を前提に考える限り、必要不可欠である。しかし、広汎性発達障害では自己モニターの障害があるために、このことには困難が伴う。ほとんどの場合は、本人が自己の能力を過大評価している。したがって、自己評価を下方へ修正しなくてはならない。
これは誤植でも誤記でもない。広汎性発達障害者の就労支援の重要な鍵は、いかに自己評価を下げるかということにある。実際に、働けている広汎性発達障害者は例外なく、自分の相対的な無能さについて意識し、かつそれを代償する方法を意識的に工夫している。
被支援者の自己効力感を向上させる操作は容易であるが、自己評価を下方修正する操作は困難であり危険でもある。支援する側のスタッフに対しても強いストレスを与える。しかし、それを避けていては就労を含む社会復帰を促進することは不可能である。このことは、高機能広汎性発達障害者に対する支援の本質的な困難であるといってよい。そして、高機能広汎性発達障害の支援において、集団の役割が重要であるのは、このような操作の場となり、同時に、このような操作を耐える得るものとする支えの役割をはたす場ともなるからである。
さらに、やりたいことであり、できることであっても、「お金を出してでも、してほしい」と誰も思わないなら、それは仕事にはならない、ということも忘れてはいけない。これは、いわゆる定型発達者の脱サラなどでよく見るので、被支援者が誤ったとしても責められないことだが、支援者が見誤るようでは困る。たとえば、資格を取ればなんとかなるのではないかなどと考えがちだが、就労に全く結びつかない資格も多い。また、スキル自体はできることであっても、それを実際に用いるための最小限のコミュニケーション能力や例外的な事態の処理能力がなければ、そのひとには、お金を出してでもやってもらおうとは思うひとが誰もいないかもしれない。
このように、被支援者が働くことを理解するために、支援者は働くことの現実を検討する補助をしていく役割がある。そのために、支援者自身が現実をよくみて理解することが前提であり、そして、対象者の働くことへのイメージがどの程度具体的になっているか、対象者の動機や目標がどうなっているか、問題点を自分で検討する能力がどれだけあるのかなどを知っていることが必要である。
6働くことと現実検討能力
問題点を自分で検討する力を、“現実検討能力”と呼んでいる。現実検討能力には、状況理解の成分と、自己モニターの成分があるが、両者がそろって働かなければ有効な現実検討は行えない。広汎性発達障害者では、両者がともに障害されている。たくさんの情報の中から必要なものだけを取り出せないために、たとえ知能が高くとも状況理解が障害されるし、同時に複数のことに注目できないという特性に関連して、自己モニターの障害は必ず伴う。このために、支援者は現実の中のどこに注目すべきかという状況理解の支援と、自分の能力や状態はどうなっているのかという自己モニターの支援を行わなくてはならない。
このような支援を行うと、夢のない現実を突きつけていくことになるが、多数派である現実的・論理的なタイプの広範性発達障害者の場合は、そのこと自体が対象者との真の信頼関係を深めていくことにつながっていく。なぜなら、彼ら/彼女ら自身が気持よりも現実を信頼すべきものとして優先するひとびとだからである。だから、具体的に可能な選択肢をひとつひとつ検討する作業をすすめていけばよい。その際に、最悪でもこの方法で生き延びられるという選択肢を最初に検討しておくと、安心感がある。
そうではない場合、境界域から中機能に多いのだが、空想的・非論理的なタイプの場合には、逃げや遊びの余地を残しながら、現実の壁で包囲して誘導していくことになる。「そうなんだ、でも残念だね、これはこういうことになっているんだよ。その範囲では好きなようにやっていいんだけどね」というような話が多くなる。この場合、理解を深めることよりも、現実的な行動を形成することが主眼となり、適宜に行動療法的なテクニックを採用する必要がある。なお、こういう場合に、理屈をくどくど言うと、話がまとまらなくなるから決してしてはならない。具体的・断定的に、時をおかずが鉄則である。
いうまでもないが、支援者自身に現実検討能力がなかったり、厳しい現実を直視する力がなければ、適切な支援をすることができない。これは、主にトレーニングの問題である。厳しい目に逢っている被支援者から学ぶこともできるだろうし、自分で厳しい目に会うのもよいだろう。初心者は迷った時には、悲観的な方に判断することをすすめる。ほとんどの初心者は、特に他人の未来に関しては楽観的になるバイアスを持っているからである。臨床の中で、安逸な馴れ合いに逃げることなく、それらの力を獲得していくこと求められる。(第三章へつづく…)
