見出し画像

短編小説「赤い小物と卵焼き」


オフィスのフロアには、
見積書を直すキーボードの音と、
資料をめくる乾燥した紙の音が、
重なっている。

その隙間で、マホは密かに年上の先輩、
ナリタさんを視線で追っていた。
修正済みの書類を渡すとき、
彼は必ず「ここ、助かったよ」と、一言添えてくれる。

その指先には、いつも「赤」があった。
名刺入れだったり、キーホルダーだったり、
日によって少しずつ違うけれど、
グレーがかかったオフィスの中で、
不思議とそれだけが、視界に残った。

赤を見るたびに、なぜか胸が少しだけ高鳴った。
目が合った、と思う瞬間が増えて、
そのたびに、心の奥が静かに明るくなる。

買い物に行くと、赤いものが目につくようになった。
タオルハンカチ、マグカップ……。
理由ははっきりしないまま、
気づけば身の回りが赤に染まっていく。
その日は迷って、落ち着いた赤い色の水筒を買った。

その水筒をデスクに置くようになって、
視線がふと重なることが、前より増えた。
ある日、通路ですれ違いざまに、
ナリタさんが足を止め、ぽつりと聞いた。

「オガワさん、赤、好きなの?」

不意を突かれ、
「うん!」と答える声が、
自分でも驚くほど上ずってしまう。

ナリタさんは、柔らかな、
どこか懐かしむ目をして笑って言った。
「うちのおばあちゃんも、赤が好きでさ。
よく小物をプレゼントしてくれたんだ。
なんだか似てるなと思って」

……おばあちゃん?


言葉が、喉の奥でつかえた。
その瞬間、今まで色鮮やかに見えていた景色が、
音を立てずにほどけていく。

目が合っていたと思っていたのは、
私の持ち物の「赤」が、
彼の記憶に触れていただけだった。
指先がひんやりして、
赤い水筒を隠すように手のひらを握りしめた。


***


帰り道、風がやけに冷たく感じた。
真っ暗な部屋に帰り、
明かりもつけず立ち尽くす。
「はぁ……」
重いため息とともに、
膝から崩れるように座り込んだ。

どのくらい経っただろう。
お腹が鳴って、思わず、
笑ってしまった。
我に返ると、部屋はひどく散らかっている。

一人暮らしして、しばらく経つ。
貯金は増えず、
食事はコンビニや外食がほとんど。
部屋は、新しい服やコスメで溢れている。
毎日は、ただ、こなすだけのものだった。

暗闇の中で、赤い水筒をぼんやりと見つめた。
いつの間にか、
自分の足元が遠くなっていた。
このままで、いいのかな。

ゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫を開ける。
中には、ミネラルウォーターと、
数個の卵だけ。

フライパンを火にかける。
油がはねる乾いた音が、静かな部屋に広がる。
卵を巻こうとして、指先に、力が入らない。
黒い焦げ目がつき、
細い煙が立ち上がる……。
換気扇を回した。

結局、その晩は、
焦げた卵のかけらと、カップラーメンになった。
麺をすすりながら、
ふと、お母さんが
お弁当に入れてくれた卵焼きを思い出す。
あの味、どうやって作ったっけ。

久しぶりに、母に電話をかけた。
「あら、どうしたの?」という陽気な声に、
ナリタさんのことは伏せたまま、
近況と、卵焼きの作り方を聞いた。

「料理するなんて、珍しいわね」
と笑いながら、母は言った。
「具を入れたり、入れなかったり。
調味料はその日の気分よ。塩を少しと、
お砂糖ね。あとは、まあ、適当なの」

いつも同じ味だと思っていた母の卵焼きは、
その日ごとに、少しずつ、違っていた。

次の日、仕事の帰りに
スーパーへ寄り、卵と調味料を買った。

少し甘めにして、火を弱めた。
今度は焦げなかった。
失敗を重ねながら、
黄色の塊は、少しずつ形になっていく。

それからしばらくして、
お弁当を作り、会社に持っていくようになった。
卵焼きが焼けるようになるにつれ、
台所に立つ時間が、
苦ではなくなってきた。

ある日、席に戻る途中で、
ナリタさんに声をかけられた。
「最近、お弁当なんだね」

マホは一瞬だけ、足を止める。
「その卵焼き、すごく美味しそう」

閉じたはずのお弁当箱が、
不意に温かくなった気がした。

「……よかったら、今度作ってきますね」

そう言った自分の声は、
あの日よりも、
ずっと低くて、落ち着いていた。

赤い小物に頼らなくても、
自然に目が合っていた。



いいなと思ったら応援しよう!