短編小説「蕾がひらく時」
家の庭に、ビオラが咲いていた。
母が育てていたその花を、スマホで撮影する。
母とはずっと二人暮らし。施設に入ったのは、三ヶ月前の冬のことだった。介護体制も整っていて、居室は清潔で陽当たりもいい。
部屋に入ると母は窓際に座り、どこか遠くを眺めている。看護師に挨拶をして真人は近づいた。
「体調はどう?」と顔を覗く。
真人は椅子に腰掛け、「庭のビオラ、咲いてるよ」とスマホの画面を見せた。
母はゆっくりと視線を落とし、
「綺麗ね。お花屋さん、ありがとう」
まるで初対面のように、真人を見た。
息が止まりそうになり、視界がにじむ。
何も気づかないふりをして、顔をそらした。
母の言葉に、看護師は態度に出すことなく、いつも通りの口調で「あら、お花良かったですね」と真人に小さく頷いた。
母は、嬉しそうに画面に見入っていた。
最近見ていなかったほど、穏やかな表情だった。
真人は、椅子から直ぐには動けなかった。
けれど、何かが崩れる前に廊下に出た。
白い床がどこまでも続くように感じる。そのまま外に出ると、日が沈んでいた。
***
冷たい空気が頬に触れる。
街の音が、遠くでぼんやりと響いている。
歩き続けると、街外れの古いビルの前にいた。
動かないエレベーターを横目に、階段を登る。
一段ずつ上がるたびに、足音だけが響く。
どこへ向かうでもなく上へ。
屋上に出ると、強い風が下から舞い上がる。
ふらつく体を支えるように、手すりを握った。
澄んだ空に星が煌めき、しばらく眺めていた。
夜空と下に広がる街並みに、吸い込まれそうになる。
そのとき、何故か温かい食べ物の香りが漂ってきて、急に空腹を感じた。
真人は、何かに引き戻されるように階段を降りると、小さな灯りが見えた。
***
重い扉を開けると、静かな店内。
白いブラウスに黒いロングスカートの女性が立っていた。
「いらっしゃいませ。当店はお客様のご希望の料理をお作りいたします」
髪を束ねた首筋が、ほの暗い中に浮かんでいる。
「料金は、召し上がった後にお伝えしますが、よろしいでしょうか」
少し迷ったが、席に座る。
「せっかくですので、思い出の料理はいかがですか」
「思い出……」
その言葉が、記憶を巻き戻す。
母の仕事帰りの足音を待っていた、幼い頃。
玄関の鍵の音がすると、ほっとした。
エプロンをつけると声が弾む。
体が弱いのに、いつも気丈に振舞う。
「……卵サンドと、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものを」
「かしこまりました」
しばらくして、料理が運ばれてきた。
卵サンドを一口食べると、少し甘くて柔らかい。
母はよく、「真人は、たくさん食べるからね」と笑いながら言った。
六枚切りの食パンの耳を切り落とし、ゆで卵を細かく刻み、マヨネーズで和えたものを挟む。
ボリュームがある卵サンド。
パンの耳はカリッと揚げて、砂糖をふる。
ジュワッと甘みが広がり、食べ出すと止まらない。
二人でドーナツと呼んでいた。
「……うまい」
小さく息を吐いた。
***
食べ終えて、しばらく座っていた。
真人が幼い頃、どんぐりを両手いっぱい拾って帰ると、一緒に数えた。
暗くなるまで公園にいた帰り道、手をつないで歩いて帰った。
あの頃、母との時間は変わらず続くと思っていた。
ゆっくりと立ち上がり、女性に会計を頼む。
「お店を出て、屋上への階段を登るなら十万円。
階段を降りて帰るなら、千円になります」
その唇が、かすかに弧を描いた。
思わず聞き返す。
「十万円?」
女性は深い瞳を真っ直ぐ向けて「はい」と言った。
「ありがとう。あの頃の味だった」
財布を開き、千円札を一枚トレーに置いた。
女性は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。扉から、階段を降りるのをお見送りさせていただきます」
真人が階段を降りる足音だけが響く。
荒れていた海がさざ波になるように、心に静けさが広がる。
振り返ると、店はもうどこにも無かった。
ただの古いビルの一角があるだけ。
それでも、口の中に温もりが残っていた。
母が花の名前を教えてくれたのは、いつだったろう。
庭のマーガレットの蕾を思い出す。
花が咲いたら、写真を見せに行こう。
そっと、一歩を踏み出した。
