短編小説「空白の一部屋」
「ちょうどアルバイトを募集しているんだけど、興味ある?」
大学三年の夏休み、晴人は都会の小さな不動産屋でアルバイトをしていた。
きっかけは、母とこの店を訪れたこと。
契約を終える頃、店長に声をかけられた。明るい雰囲気が気に入ったらしい。
家から歩いてすぐで、人と話すことも得意だった。働き始めて二年ほど経った今では、初対面の相手とも自然に会話を続けられる。
「なんだか元気になった」
そう言われるたび、晴人は嬉しかった。
少し年上の吉岡果織は、この店の社員。眼鏡の奥の眼差しは、いつも凛としている。仕事中に余計な言葉を交わすこともなく、晴人には隙のない人に見えた。
けれど、契約数はこの店で一番多い。
どうやって契約を取っているのか不思議で、何度も果織の接客を見た。
相手の話に頷き、耳を傾ける。言葉も丁寧だが、特別なことをしているようには思えなかった。
蝉の声が響くある日、一人の男性が店を訪れた。五十代くらいで、転職を機に地元へ戻るという。
晴人が最初に接客を担当した。
「どのようなお部屋をお探しですか?」
「生活に便利な場所で」
「こちらの駅周辺はいかがですか? 買い物にも便利ですし、交通の便もいいですよ」
男性は「そうですね」と答えたが、しっくりきていない様子。
晴人は別の話題を振り、いつものように会話を弾ませようとした。
それでも、男性の表情は晴れない。
「吉岡さん、お願いしてもいいですか?」
晴人は唇を噛み、果織へ引き継いだ。
果織は椅子を引き、男性のほうへ向き直った。
「今住まれている所は、どんな環境なんですか?」
「駅も近いし、便利なんです。何でも揃ってて」
果織は口を挟まず、男性の言葉を待った。やがて男性は、言葉を選びながら話し始める。
都会に出て、懸命に働いてきたこと。仕事は順調で、周囲の期待にも応えてきた。でも、いつの間にか心が疲れていた。
「少し休みたくなって、地元に戻ることにしたんです」
「そうだったのですね。よろしければ、落ち着いて暮らせるこちらはいかがでしょうか?」
果織が勧めたのは、遊歩道のある森林公園の近くの日当たりのいい部屋。
男性はそこを選んだ。
男性が帰ったあと、晴人は思わず尋ねた。
「吉岡さん、どうしてあの人が本当に探している部屋が分かったんですか?」
「……母の影響かも」
「お母さん?」
晴人は首をかしげながら、契約書をファイルにしまった。
***
終業時間になっても、果織はパソコンの前にいた。五連勤の最終日。周りが帰っていく中、画面に向かっている。
「吉岡さん、まだ帰らないんですか?」
「もう少しだけ確認したいことがあって」
いつもと変わらない、落ち着いた声。
けれど、晴人には、どこか力がないように聞こえた。
近くの公園では、夏祭りが開かれていた。
流れる音楽に混じって、会場のアナウンスがかすかに聞こえる。
「屋台で、何か食べたいものあります?」
果織は視線を落とした。
「……焼きそば、かな」
「焼きそば?」
「変かな?」
「いや、なんとなく。もっと違うものを言うのかと思っていました」
思いがけない答えに、晴人の頬がゆるんだ。
二人は休憩室で焼きそばを食べていた。
果織は味わうように、ゆっくり箸を進めている。
その時、外出から帰った店長が顔を出す。
「なんだ、美味しそうなもの食べてるじゃないか」
晴人が振り返ると、店長は期待した顔で尋ねた。
「僕のは?」
「……ありません」
果織が口元を押さえ、小さく肩を揺らした。
***
焼きそばを食べ終えた頃、果織がぽつりと話し始めた。父の転勤で、子どもの頃は何度も引っ越したこと。新しい環境に馴染むのが苦手で、なかなか友達ができなかった。
そんなとき、果織は学校から帰ると、母の絵日記を開いた。間取りや家具の配置、家族の姿、その日の食事まで、暮らしの一つひとつが描かれている。ページをめくるうちに、沈んでいた気持ちが少しずつ明るくなった。
「ここには花を置こうか」
「この部屋は、空けておこう」
一部屋を空けておく。
それが難しいときは、部屋の一角をフリースペースにした。新しい友達と遊べるように。
そんな母の気遣いが、果織には嬉しかった。時間はかかっても、そのおかげで新しい暮らしに馴染んでいけた。
果織が見ていたのは、部屋ではなく、そこで紡がれていく毎日。
「だから私も、工夫すれば、知らない場所でも楽しく暮らせると思ってて」
晴人は、空になった焼きそばの容器を見つめた。
店の前で二人は挨拶を交わす。
「おつかれさま」
いつもと同じ言葉が、晴人には特別な響きに聞こえる。
歩き出した果織が、ふと振り返った。
「これ、良かったら」
晴人は歩み寄り、屋台で買ったヨーヨーを差し出す。
「いいの?」
果織の声が弾んだ。
「うん」
「……懐かしい」
透明な風船の中で、淡い青と赤の模様が水と一緒に揺れていた。
