【小説】かりもの
ドアを開けると、遠藤里奈は自分の手を見て恍惚とした表情を浮かべていた。手からは血が流れ白いワンピースに不穏を広げている。僕は、深呼吸をして彼女に駆け寄った。
「見つかっちゃったあ」
彼女は慣れた手つきで止血すると、近くに用意していた包帯を手に取った。
「今日はちょっと深くやり過ぎたみたい」
里奈が自傷したのは、僕が知る限り今月で3回目だ。
確実に増えている。しかし彼女は朝食のスクランブルエッグを作るみたいに、左腕に包帯を巻いていく。
「かして」
包帯を巻くのを手伝おうとすると、彼女は首を横に振った。
「合鍵も考えものね。プライベートもあったもんじゃない」
あっという間に、包帯は巻かれ長袖で見えなくなった。彼女は長年同じようなことを繰り返しているのか、どれくらい切れば、止血しやすいか心得ているようだった。
自傷のプロフェッショナル、なんて言葉が脳に浮かんだが、口にださなかった。そんな哀しいプロフェショナルはいらない。
「どうしてこんなことしたの」
「今日、代官山で美味しそうなお茶買ってきたの。飲む?」
彼女は露骨に話しをそらした。返事をしないうちにお湯を沸かしだす。
「刺すなら、僕を刺して」
腕とナイフを差し出してみせる。
彼女はキッと僕をにらむと、無言で腕にナイフを這わせた。血が押しあがってくる。
「ぞくぞくするでしょう?」
血を見た途端、意識が遠くなっていった。
目が覚めると、里奈はくすくす笑っていた。僕の手には包帯が巻かれている。自分の手なのに、かりものみたいだ。
「太一は、今日も仕事だって言ってなかった?」
彼女はさきほど、僕の体に傷をつけたことなんて少しも気にしていない様子で言った。
「あ、そうだよ! 雨が降ったから仕事延期になってさ。これ買ってきてたんだった」
玄関に置きざりにされた紙袋をみせる。自由が丘にあるスイーツ店パティスリー・パリセヴェイユのロゴの入った紙袋を掲げると、いつもの笑顔を見せた。彼女はここのケーキが大好きなのだ。彼女は笑うと頬にえくぼができる。その絶妙な凹みが愛らしい。ずっとそれを見ていたいのに、彼女は何かというと腕や太ももに溝をつけたがる。
「お茶とケーキ、合うかな」
「きっと、合うわ」
先程まで血を眺めてうっとりしていた彼女は、すっかり消えていた。
僕の買ってきた彩り鮮やかなケーキと緑茶は、案外合うものだった。何よりも僕にとって、彼女がけらけらと笑っているのが、最高のスイーツなんだ。
「私はね」
と突然いうと、彼女はまくし立てるように話しだした。
「来年には会社を辞めてフリーランスでマーケターをやろうと思うのよ。今はウィットな感受性さえあれば、仕事はどこでもできる時代だから」
ウィットな感受性とは何だと思ったけれど、彼女の目がギンギンに開いて興奮している様子だから、とりあえず「フリーランスのマーケターなんて、格好いいな」と言ったら、彼女の瞳がより大きくなった。
「格好いい? そうね。でもそれは、あくまでも動機であって、持久力にはつながらないの。やりたいからやる。それが上手くなれるコツなんじゃないかなって。太一はフォトグラファーでしょう。きっと興味があるから始めたんじゃないの。格好いいからだけじゃ続かない」
「そ、そうだね、格好いいだけじゃ続かない。で、何であんなことしたの」
僕は彼女の包帯の巻かれた腕をつかんだ。華奢過ぎて、このまま切り刻んだらバイオリンを奏でる弓になってしまいそうだ。彼女はえくぼを埋めて、ため息をつく。
「……切ることに意味はないの」
「僕には理解できない」
「自分の中身って見えないじゃない? だからかな」
僕は自分の中身を見たいと思ったことはなかったから、彼女の言っていることが、よく分からなかった。
「自分の中身を見ることって、大事なことなの」
「私にとっては」
「そのうち君は、自分の腕を生ハムみたいに削いでしまいそうでこわいよ」
「削いでも傷だらけで美味しくないし、もっと素敵なたとえはないの?」
彼女はそう言うと、包帯の巻かれた左腕をさすってみせた。僕もその通りだと思った。彼女は腕は傷だらけだし、例えが上手いとは思えなかった。
その後、彼女は饒舌にフリーランスのマーケターについて話し続けた。彼女が手を動かすたびに、コットンの内側にのさばる包帯がうっすら見える気がして、背中のあたりは落ち着かなくなり、あまり頭に入ってこない。
その後、彼女と録画していたお笑い番組を観た。
「笑いのツボって、人それぞれ違うじゃない。それは人とのコミュニケーションの線引きになる気がしているの。だから私は必ずつき合った人とお笑い番組を観る。そうすると相手とどれくらい続くか予想できる」
「僕は合格ラインに達してた?」
「99点かな」
「あとの1点は」
そういうと、彼女は桃色の唇をぽってりと突き出してきた。僕はそれに応えるように、唇を重ねる。柔らかい舌が僕の唇を割る。僕は華奢な彼女をお姫様だっこをしてベッドへ放り投げると、彼女はうれしそうにわらった。
目を覚ますと、横で寝息がきこえた。僕はそっとベッドから出ると、数時間前に彼女が血を見ていた場所に腰をおろした。
本が目についた。彼女の小さなバッグの上に置いてあった単行本。表紙には『フリーランス広報として心得』と書いてある。
彼女がやりたいのは、フリーランスのマーケターといっていたし、彼女は現在ベンチャー企業のマーケティング担当として働いている。それなのに、フリーランスの広報の本を購入しているのが不思議に思えた。
以前、何かの雑誌を見ているときに、ベンチャー企業の広報担当者の女性が、インタビューされていた記事があった。それを見た彼女が、
「広報は大体、顔採用。顔さえよくて、当たり前のことを当たり前にできる人なら、広報担当者になれるの。もちろん、バカにしているわけじゃないのよ。当たり前のことを当たり前にすることって、とても難しいことだから」
といっていた。だからそんな本を購入するなんて意外だった。
パラパラめくっていると、ある言葉に目が止まった。
【ウィットな感受性さえあれば、仕事はどこでもできる時代です】【自分の中身は見えません。だからこそ知ろうとしなければいけないのです】
「なんだよ、これ……」
「太一?」
里奈は起きたのか、けだるそうにいった。愛らしい目が、さらに小さくなる。彼女は僕が読んでいた本に気づくと、興味のなさそうな表情を浮かべて背を向けた。
「その本あまり面白くないから、あとでゴミ箱に出しておいて」
「え?」
「知っていることしか、書いてないの」
「……そっか」
僕は忘れないように、自分のカバンの近くに置いておいた。午後から撮影が入っていたので、彼女とは午前中でわかれた。
また腕を傷つけるのではと気が気では無かったが、ずっと一緒にいるわけにもいかない。自宅マンションに戻り、機材をとって現場へむかった。芸人さんが本を出したために取材となり、僕は撮影にかり出されたのだ。取材スタジオの片すみで、インタビューは行われた。そのためセッティングが終わった僕も話を聞くことができた。
さすがに芸人さんの話は面白く、聞き入ってしまう。
「ですから僕は、仲良くなりたい人ができたら、まずは一緒にお笑い番組をみるのがいいと思うんですよ。あ、別に僕の漫才を見てと言っているわけではないですよ。……笑いのツボって人それぞれ違いますから、それは人とのコミュニケーションの線引きになると思うんですよ。それにですね……」
芸人さんの言葉に、耳を疑った。予知夢でも見たのかというほど、芸人さんの言葉は里奈をシンクロしていた。もしかしてこの芸人さんと里奈の間に、以前何かあったのだろうか。
ケータイで芸人の経歴を検索してみた。どうやら彼は神奈川県横浜市の出身で、高校を卒業後に都内のお笑い養成所に入ったそうだ。三十歳でブレイク。少々、遅咲きの芸人だ。
現在は一発屋の星として、地方巡業をメインとして活動しているそうだ。これまで気にしたことはなかったが、派手なスーツ姿の彼はイケメンで掘りの深めの顔。里奈の好みだと感じた。
ちなみに僕は、どちらかというとあっさりした顔をしている。途端に居心地の悪さを感じた。
里奈とはじめて会ったのは、昨年、専門学校時代の友人と開催した写真展だ。百人目のお客さんとして現れたのが、里奈だった。彼女は、くすんだピンク色のトレーナーにロングスカートを合わせた、ラフな装いで現れた。彼女は僕の撮った写真を食い入るように見ていた。
写真の被写体は、元カノだった。
元カノは当時、広報の仕事をしていているOLだった。目が大きくて、今っぽい化粧がよく似合う顔立ちをした女性だった。仕事で彼女をはじめて見たとき、小学校のころ好きだったアイドルが目の前に現れたのかと思った。完全に一目惚れ。ガラにもなく猛プッシュして、半年後に付き合うことになった。元カノは男女問わずよくモテた。そんな彼女が、どうして僕を選んでくれたのかはわからない。だから必死だった。ずっとそばにいたくて、離したくなくて、結婚サイトをよく見るようになっていた。
元カノは顔に似合わず男前な性格で、「私は結婚するなら、専業主夫がいいの」「これからは女性が稼ぐ時代よ」と、パンダみたいな愛らしい顔を揺らしながらいうような子だった。だけどそれは「僕とは結婚はできない。だってあなた、カメラマンを辞めて専業主夫になるなんて無理でしょう?」と最終宣告をされたようなものだ。もともとつき合った相手とは結婚を考えてしまう僕にとって、その言葉は別れ話だった。
その後、元カノが自宅で料理教室を始めると言いだしてから、さらにすれ違うようになった。結局、振られた。それなのに、未練たらしく元カノの写真を展示会にだすなんて、我ながら格好悪い。でもこれも仕方ないのだ。別れて以来、さっぱりプライベートで写真が撮れなくなってしまった。だから宝物みたいな、元カノの写真を使うことにしたのだ。
もちろん写真のモデルが元カノだなんて、一切写真展で触れてはいない。
「それ僕が撮った写真です。よかったら、これをどうぞ」
来場者が九十人になった頃、友人と「何かしたいよな」と話して作ったカードを差し出すと、里奈は小さな目を見開きながら、その白いカードを受け取った。整えられた爪が、元カノを思わせた。
「これ、ラブレター?」
思わぬ言葉に、吹き出してしまう。
「まあ、そんなものです。……無料撮影券です。友人か僕、どちらでもいいので指定していただければ、無料で写真をお撮りします」
「ぜひ、あなたが撮って。でも私、この写真みたいな場所がいい」
元カノの写真を見ながらいった。それは駒沢公園で撮ったものだ。緑を小道具に、かくれんぼをしているように撮った。
元カノの写真のおかげで僕と里奈は出会い、後日、駒沢公園で会うことになった。彼女は終始ごきげんで、僕をリードした。撮影が終わると、今度は彼女が「お礼におごってあげる」といって、レストランバーにいった。彼女は会計時、本当に自分で全額払おうとするから割り勘にしてもらったけれど……。
そのとき里奈は、僕の財布についている薄汚れた鞠のキーホルダーを見て目を見開いていた。グッチの財布には似合わないけれど、小学校の頃からなぜか僕はこのキーホルダーがないと落ち着かないのだ。黒光りした牛革の財布に、薄汚れたキーホルダーが異様にうつったのだろうか。じっと見るから恥ずかしくなって隠してしまった。彼女は気まずそうに、うつむいた。
結局、そのままホテルに行った。僕らはそうやって始まったのだ。だから彼女は過去に、横浜市に住む年上の芸人と仮に何らかの付き合いがあったとしても、僕はまだ知らない。
芸人の撮影が終わりスタジオを出ると、月が顔をだしていた。その足で、駅へと向かう。
里奈の家のドアを開けると、濃厚で祝福を感じる香りがした。
「何のにおい?」
「ビーフシチュー。圧力鍋で作ったから、きっとトロトロよ」
「ビーフシチューと、これは合うかな」
途中で買った、パティスリー・パリセヴェイユの紙袋を差し出した。
「ビーフシチューとケーキなんて、何かのお祝いみたいね」
彼女は鼻歌を歌いながら、ケーキを冷蔵庫にしまう。
「もしかして僕が遊びに行くってLINEしたから、こんな豪勢なのを作ってくれたの」
「いつ来てもいいように、私は毎日ふたり分のご飯を作っている。だから会えないと冷蔵庫がタッパーでいっぱいになるの。でもそれは自分の意思でやっていることだから何の問題もないのよ」
ふと元カノのことを思い出した。彼女も毎日、二人分を作って待っていてくれた。でも僕は仕事で忙しくて、毎日会いに行くことはできず、遊びに行くと冷蔵庫にタッパーがたくさんあるのに、毎回、新しい料理を提供してくれたっけ。
あの食材は、どこに消えていったのだろうか。ゴミ箱とは思いたくない。
「そんなことしなくてもいいよ。僕はいつも来られるわけじゃないから、コンビニ飯でいいから。無理しないで」
「図々しい! 私は好きでやってるんです」
あかんべえをする里奈を後ろから抱きしめた。
「腕はもう、痛くない?」
うなずく里奈。
「良かったよ。準備、手伝うね」
ビーフシチューは少々煮込み不足だったが、やさしい味がした。
おかわりをすると里奈はうれしそうに、よそってくれる。
「大盛りだなあ」
彼女が用意してくれたフランスパンにつけると、いかつかったパンが染みしみになり徐々に頼りなくなっていく。その変化していく様が、昨夜の里奈と重なった。本当に彼女は、また死にたくならないだろうか。里奈は僕の視線に気づくと、照れたように笑った。
「ねえ里奈は、どんな人とつき合ってきたの」
「元彼? いないよ。あなたがはじめて。小学校の頃は好きな人いたけど……」
「小学校なんて昔の話じゃなくてさ……。って噓でしょう? はじめてじゃないよね」
だって処女じゃなかったじゃないか。
「本当。……昔から顔が不細工だっていじめられてじゃない?」
「はじめて聞いたし、君は不細工じゃない」
彼女は素っ頓狂な声をあげて、僕に抱きついてきた。
「ありがとう、そう言ってくれたのは、太一だけ。みんな私のスタイルしか褒めてくれないの」
たしかに彼女は華奢なのに胸が大きくて手足が長かった。
「芸能人とつき合ったりは?」
「何の話?」
「いえ、なんでもないよ」
我ながら何を言っているんだと思った。彼女は誰ともつき合ったことはない、と言っていたじゃないか。それを信じるべきだ。処女でも出血しない人はいる。と思いながらも、あのホリの深い芸人に抱かれている里奈が脳裏のあちらこちらに映し出されるのだった。
「エッチしよう」
「シチューは」
「あとで」
僕はそういうと彼女を抱き寄せて、耳に舌を入れた。彼女が体をくねらす。興奮した僕はいつになる乱暴に服を脱がせた。彼女のショーツが濡れていた。
「こういうの、好きなんだ」
耳元で囁くと顔を赤らめた。彼女の小ぶりな顔立ちは男の征服欲を刺激するのかもしれない。ショーツを横にずらし、いきり立った衝動を突き刺した。
彼女は小さく叫び、自分の手を噛んだ。手を払って、口に指を入れた。彼女の舌が指先を刺激する。ねっとりと。
「ねえ」
里奈が苦しそうに何か言っているので、指を出し、唾液を乳首で拭いた。その都度、彼女は悶えるから、腰の振りを強くしてやる。
「くび、締めて」
「なに」
「太一に殺されたい」
僕の手を首に添わせ、激しく腰を突き上げてくる。
「はやくう、締めて」
僕は手に力を込めた。柔らかい感触。彼女の表情が歪んだ。
「私ね、来年フリーランスになるって言ったじゃない? バリバリ稼いで、太一を養うよ。そうしたら好きな写真を好きなだけ撮っていられる」
枕元の里奈は天井を見上げながらそういった。僕は先程、彼女の首を絞めたときの柔らかい感触が、まだ手に残っていた。もっと締めたい。もっと強く締めたら彼女は、どうなるのだろう。もっと妖艶な表情を浮かべ、苦しみ、僕の腕を強くつかむのだろうか。
「これからの時代は、女性が男性を養ってもいいと思うのよ」
「え?」
その言葉に僕は現実に引き戻される。
「これからは専業主夫が主流になってもいいと思うの」
「それって、僕に働いて欲しくないってこと?」
僕は恐る恐るきいた。
「べつにカメラを辞めて欲しいって言っているわけじゃないの。ただこれからはもっと女性が活躍できる社会にならなきゃって」
「そうだね、その通りだ」
これ以上、女性の社会進出の話をしても仕方がないと思い布団からでた。
「太一は、こういう話きらい?」
「どうして急にそんな話になるのかなって」
「幸せだなって思ったから」
そう言った彼女の瞳は、えらく不安げだった。
翌日、目を醒めると、もう彼女はいなかった。どうやらよく寝ていたから、起こさずにそのまま仕事に行ったらしい。テーブルには、小さくて角張った字で「朝ごはん、冷蔵庫にあるから見てね」とメモがあった。
冷蔵庫には、野菜がたくさん入った大きなオムレツが入っていた。これは僕の大好物だ。マヨネーズとしょうゆを付けて食べていると、ふと元カノの記憶がよぎった。彼女もこのオムレツをよく作ってくれた。フライパンぎっしりに作り置きして、仕事に行っていたっけ。と思った瞬間、違和感をおぼえた。僕はケータイを取り出していた。
「ああ、久しぶりだな」
写真展を一緒にやった専門学校の同級生は、電話先でタバコを吸っているようだった。きっと家の裏手にあるベンチに座りながら、煙を空に放出しているのだろう。彼はヘビースモーカーなのだ。
「去年の展覧会のとき、僕の写真について何か訊かれなかったか」
「は? なに、言ってんの。そりゃあ、いろいろ訊いてくるやついたさ。だってお前、後半忙しくて、ろくに顔を出さなかったじゃないか」
急な仕事が入り、展示会後半は彼に任せきりだったのを未だに根に持っているようだ。
「そのとき、写真にうつってる女性が、俺の元カノだって言ったことあったか」
「……ああ! 百人目の子だろう。あれからまた観に来てくれたんだよ。でもお前がいなかったから、俺が接客して。そのとき『彼女、生き生きしていますね。モデルさん?』なんて訊くから、モデルではないけど、ベンチャー企業の広報やっている女性らしいですよ、って言っただけだよ。つき合っていたことは話してないぞ。守秘義務、守秘義務」
と笑った。悪寒がした。電話を切る。
元カノはちょくちょくWebサイトのインタビューに応じていることがあったので、それで名前を知ることは可能なはずだ。
僕は里奈のパソコンの電源を入れ、ネットを立ち上げた。ブックマークからインスタを開ける。
「どういうことだよ……」
里奈のインスタのDMには、元カノ、和月舞とのやりとりが記されていた。しかも里奈は、舞が主催する料理教室にも通っているようだ。舞のインスタに飛ぶと、つき合っていた頃と変わらない、華のある笑顔があった。
僕は震える手でパソコンを閉じた。これ以上調べてはいけない深淵に足を突っ込んでしまいそうな気がしたのだ。
自宅に戻ると母が珍しく日中だというのに家にいた。母は病院をいくつか経営している皮膚科医だ。
「手とうがいをしてね。元気の源は、手洗いうがいよ」
いつものように、歌うようにいう母。物心ついた頃から、母はいつも歌っていた。それなら歌手になればいいのにと思うけれど、医者である自分に誇りを持っているそうだ。
「明日から出張だから」
「あらお母さん、寂しくて泣いちゃうわ。お土産よろしくねえ」
「はい、はい」
「ちなみに私、今度の祝日『エイジングセミナー』に出るのよ。何着ていこうか、悩んでしまうわ」
相変わらず芝居じみている母。ミュージカル女優のつもりなのだろうか。
「この前の、ピンクのスーツは」
「黄色も捨てがたくてね。あとでファッションショーするから、選んでちょうだい」
「無理、父さんにやってもらって」
ぶつぶつ何か言っていたが、そのまま自室に入った。扉を閉めた途端、静寂。自分が相当疲れているのを知った。ベッドに横になると、意識が抜けていった。
LINEの通知音で目を覚ました。元カノの舞からだった。
——太一、げんき?
——ふつう。どうした
——思い出したから、どうしてるかなって。
——どうして思い出すの
我ながら変な質問だと思いながら返信した。少しすると、舞からの返信。
——うちの料理教室の生徒さんに、彼氏からめっちゃ愛されている子がいて、何か思い出しちゃったんだ
とっさに里奈とことだと思った。背中に冷気があがった。どういうつもりで、舞に近づいているんだ。舞は気づいていないようだが、いずれ気づくかもしれない。僕はLINEでは埒があかないので、舞に電話を入れた。
舞は驚いた様子だが、あいかわらずごきげんな声で受け入れてくれた。
「その子、どんなこと言ってた」
「どうなことって……彼はやさしくて、自分の顔を褒めてくれて、エッチがいいんだって」
昨夜の光景が思い浮かび、顔が熱くなる。
「料理教室でそんな話もするの」
「仲良くなって、この前のみに行ったのよ」
「そ、そうなんだ。それは良かった」
棒読みだが、舞は気にしていないようだった。
「生徒さんと仲良くするのも悪くないかなって。……でね、彼女。一番良かったエッチはどんなエッチだったかって訊くのよ。だから太一と最後にやったとき……ほら、別れ話が出てたとき。私の首を絞めたでしょう? あれがすごく印象に残ってて、その話をしたら彼女もやってもらったんですって。さっきLINEがきて、すごく気持ち良かったって」
全身の血が下がっていく気がした。僕は恐る恐る、その女性の名前をたずねた。ただ名前を聞くだけなのに耳の奥が熱くなるのを感じた。舞は怪訝そうに
「遠藤里奈さんって子よ。明日も飲みに行くの」
と答えた。
口の中が渇いて、思うように言葉がでない。携帯を持つ指先が震えていた。
「どうしたの」
「なんでもないよ、ちょっと疲れたから切る」
切ろうとすると、受話器の向こうから舞の鋭い声。
「もしかして、あなたの彼女さん?」
返事に困っていると、舞の深いため息がした。
「すごい偶然。なんだあ私バカみたい。太一からいま電話くれたから、期待しちゃった。バッカみたい」
「ごめん」
「でも、これで太一の性癖がバレちゃったね」
舞の声は、明らかに強がっているように思えた。
「性癖じゃないよ。舞のときは……本当に好きだったから、離したくなかったから、そのまま壊したくなった。遊びとかそういうんじゃなくて、本気だったから」
「今の子は、ちがうの?」
とっさに答えられない自分がいた。
「まだ私の出番もあるのかな。……私、待ってていいのかな」
返事に屈していると、舞は深いため息。
「おやすみ、声聴けてうれしかったよ」
といって彼女の声は消えた。
「じゃあなんであのとき、振ったんだよ……」
切れた電話に向かってつぶやいた。
僕は頭を振り立ち上がり、熱いシャワーを浴びた。明日は出張だ。朝も早い。風呂から出ると、素早く機材の用意をして布団に入った。タイマーをかけようとケータイを見ると、里奈と舞からLINEが届いていた。一瞬考えたが、舞のLINEを開く。
——さっきはごめん。太一を困らせちゃうよね。でも太一と別れて、ずっと後悔してた。それだけはわかって。あと彼女さんには私が元カノだと言わないほうがいいよね、きっと。私があなたと繋がってるのバレたら、まずいだろうから
——任せるよ
と返信した。もう何も考えたくなかった。
駐車場に出ると、隣家からくちなしの花の香りがした。だけどいつものように僕の頬を緩ましてはくれなかった。
アクセルを踏む。車は静かに駐車場を出て路地を抜けていく。
「え?」
電柱の陰で何か動いた気がした。バックミラーには、白いワンピース姿の髪の長い女性の姿が見えた。
「里奈?」
とっさに急ブレーキを踏んだ。
「てめえ、死にてえのか!」
後続車から窓から顔を出して、怒鳴りつけてくる。僕は後続車に目をくれずに電柱を凝視した。選挙用ポスターが貼られているだけだった。しかも似てもにつかない、七三分けの男性だ。後続車のクラクション音。
「す、すみません!」
あわててアクセルを踏んだ。手がぐっしょりと汗で濡れて、ステアリングが滑る。このまま静岡まで運転できるだろうか。ズボンで手を拭き、さらにアクセルを踏み込んだ。
静岡までの道中は、LINEの通知音が引っ切りなしになっていた。まるで音楽を奏でるみたいに、軽快に執拗に。仕事の連絡かもしれないので確認したいが、運転中なのでできない。ちょくちょくサービスエリアでLINEを見る。ため息が漏れる。
全て里奈からだ。彼女は仕事中でもLINEをしてくる。社内的には大丈夫なのだろうかと、いつも不思議になる。
以前は「いまは忙しいから、あとでね」なんて返信をしていたけれど、そんな気にもなれなかった。昨夜のLINEも未読のままだ。僕はふたたび、山々を窓越しに見送りながら走った。
静岡県内のスポットをいくつかまわり撮影が終わったのは、夜8時をまわっていた。明日は別のエリアをまわる。車内で携帯を確認すると、里奈からまたLINEが届いていた。画像つきだ。気になって開く。
手首から血が垂れ、花柄のワンピースが血に染まっていた。
——どうして連絡くれないの
LINEを遡る。そのLINEの数は182件にものぼった。
——もしかして事故にあったの
——女がいるの
——私のこときらいになったの
——さみしいよ
——声をきかせて
——会社いけない、ずっと待ってるから。
——どうして連絡がこない、いえにいるよ。
——野菜がたくさん入った卵焼き作ったよ。
——あまりに連絡こないから、卵焼き五個になっちゃったよ
「なんだよ、これ!」
ふたたび、メッセージが入る。
——やっと読んでくれた。
音声メッセージとともに、動画が流れてきた。ナイフで腕を切り、血が溢れている。先程の傷よりも深いのか、血の流れが尋常じゃなかった。里奈から電話が掛かってきたが出ずに、舞に連絡した。舞はちょうど教室が終わった時間だったようで、生徒さんを見送りながら電話にでてくれた。
「どうしたの。これから里奈さんと会う準備をしないと」
「里奈の家、わかる?」
舞と話しているのに、里奈から電話が入る。そのままケータイから彼女の白くて赤い腕が出てきそうだ。ぬたっとした血液を滴らせながら。
「ええ、まあ。名簿があるから」
「今すぐいって。鍵はスペアキーが郵便受けの上に貼ってある」
「どういうこと、落ち着いて説明して」
舞は少し傷ついているようだった。
「ごめん。さっき舞から百件以上LINEが入ってて。それが原因でまた手首を切ったみたいだ」
「またって……それなら救急車呼ばないと」
「そうしたら病院に入れられて僕に会えないから、それだけはしないでって約束してるんだ」
「バッカじゃないの……」
電話は切れた。再び里奈からの電話があった。今度はビデオ通話だ。出ると彼女は恍惚とした表情を浮かべ、目を潤ませていた。
「やっと出た。チケット取ってるの」
「え?」
「今なら静岡まで行けそうだよ」
「そ……それは、辞めたほうがいいんじゃないかな。僕も……仕事が終わったら帰るし。すれ違ったら、大変でしょう?」
本当は今夜は静岡のホテルで泊まり、明日も撮影があるから今日は帰れない。カフェの撮影は時間も決まっているのでそんなにはかからないとは思うが、東京に戻るは夕方以降になるだろう。しかし今の彼女にそんなことを言ったら、何をしでかすかわからない。今はいつもの愛らしい彼女に戻ってくれるのを待つしかない。
「会いたかったのにな」
どうやら、彼女は納得してくれたようだった。
「傷、大丈夫?」
彼女はこくんと頷いた。僕と付き合って、何度、腕の包帯が新しくなっただろう。付き合いたてのころは、彼女がリストカットしたらすぐに駆けつけていた。一緒に心療内科に行って相談しようとも訴えた。でも彼女は断った。自分は正常で、たいした問題ではないから気にしないでといって取り合ってはくれなかった。そのときに無理矢理でも連れて行っていたら、彼女の腕も体もここまで赤く染まらなかったのだろうか。
電話を切り、ホテルまで移動するあいだ、ずっとそんなことを考えていた。別の車で移動していた編集部の人たちが僕の車を見つけると、30分後に打ち合わせだといった。結局、打ち合わせのあと食事をして、そのまま飲み会に突入。開放されたのは22時をまわっていた。
ホテルの自室に戻り、ベッドに倒れ込む。酒を飲んでも飲んでも酔えなかった。赤ワインの毒々しい色が僕をより冷静にさせたのかもしれない。
トン。
ドアの向こうで音がした。こんな時間に誰だろう。ベッドから出ると、重い足をドアに向けた。
「誰ですか?」
トントントントントントン。ドアを打つ、速度が速くなっていく。
途端にケータイが鳴った。ビデオ通話。里奈が、薄暗い場所で笑っている。冷気が這い上がってくる。ドンドンドンドン。ドアを叩く音が強くなる。先ほどの電話から今まで2時間ほどしか経っていない。2時間でチケットを取って、ホテルまでやってこれるなんて化け物だ。
「やめてくれ!」
さらにドアを叩く音が強くなる。再びケータイが鳴り、ビデオ通話。里奈だ。里奈は薄暗い画面の前で、丸いキーホルダーを握りながら円を描いて笑っている。何か言っているようだ。
ドンドンドンドン。ドアがさらに激しく叩かれる。
「やめてくれ!」
ベッドに飛び込み、頭から布団を被る。耳を塞ぎ、頬が眉毛にくっつくぐらいきつく目を閉じた。出てはならない、あれは里奈ではない。違うものだ。出てはならない。僕の中の何者かが叫んでいた。
気づくと、目の前に女性の顔があった。思わず叫び、夢中で布団を引き上げた。
「大丈夫ですか、お客様」
ホテルの従業員だった。背後には、女性編集者の安藤さんと男性ライターの一堂くんがいた。
「田中さんの部屋から叫び声が聞こえて……従業員さんを呼んだんです。ちょっと飲み過ぎちゃいましたかね? 田中さん」
心配そうに安藤さんが水のペットボトルを差し出してくれる。僕は思いきり、口の中に流し込んだ。酔いなんてとっくに覚めていたけれど、水が体中に染み渡っていく。
「里奈は? 里奈はどこですか」
「そんな女性、どこにもいませんよ」
安藤さんはいった。となりにいた一堂くんは、僕が女性を連れ込んだと勘違いしたのか一瞬小さく笑ったのが見えた。その表情を見た途端、絶望的な気持ちになった。里奈なんて、ここに来てなかったのだと。
じゃああの音は、幻聴だったのか。それとも里奈の熱を帯びた感情が大地をつたい、建物を這い上がり、廊下を舐めながらやってきたのだろうか。
「もう、大丈夫ですから……」
そういうと、3人は顔を見合わせて出ていってくれた。3人が出ていったあと、僕はドアロックを確認してすぐに舞に連絡を入れた。彼女は1コールで出ると、かなりキレた様子で「よくも彼女が自殺未遂したときに仕事なんてできるわね」と声を荒げた。前はその都度、戻っていたんだ。と喉まででかかったが飲み込んだ。
「彼女、今そっちにいるよな」
「私が家に行ったことで、驚いていたわ」
その言葉を聞いて、全身の力が抜けた。彼女はここにはきていなかった。もしかしたら、違うなにかになってきていたのかもしれないけれど、生身の彼女は東京にいた。その事実だけに、安堵していいのかさらに興奮すべきなのかわからなかった。
「彼女ね、どうしてきたのかすごく訊きたがってた『連絡したら様子がおかしかったから気になってきた』って言っておいたから。鍵は大抵の人はそこに置くからって言ったら納得してわよ」
彼女はそういうところがある。人の言葉をそのまま受けとるのだ。そのぶんピュアで、傷つきやすい。
「ごはん作って、一緒にいたら眠くなったのか寝たから戻ってきた。なんか、すごい惚れられてるんだね」
「ごめん」
すっかり酔いが覚めていたと思っていたが、安心したためか急に酒がまわってきた。舞のやさしい声が懐かしくて落ち着く。ふかふかのブランケットに包まれているような心地よさ。それは里奈では感じたことのない感覚だ。彼女はいつまた自分を傷つけるかわからないから、無意識に伝える言葉を選んでしまう。
「謝らないで。ただ……なんていうのかな。彼女、ちょっと普通じゃないよね。……この前飲んだときにそう感じたの。飲んでいるときに彼女『私、思うんですよ。人生はティラミスみたいに、苦かったり甘かったりする』って。それは以前、教室の説明会のときに私が言った言葉。そのとき、変わった子だなと思ったんだよね」
そういえば里奈の部屋でも同様のことがあった。彼女が言った言葉が、丸々、本に書いてあった。その旨を伝えると、舞はなぜか黙ってしまった。
「そういえば舞が以前言っていた、専業主夫のことも言ってたなあ。これからの時代は、専業主夫の時代だって」
「あ、それも……説明会のときに話したかも」
「え?」
ホテルの前の道を、爆音のバイクが走り去った。
「こんなこというと、気を悪くするかもしれないけど……彼女はもしかしたら、人の言葉を自分の言葉のようにとらえてしまう能力が高い人なのかも。それは勉強のときには、とても役立つ能力。でもあまりいきすぎると、『いいところだけ盗っていく』と敬遠される。多分、人に嫌われてしまうわ」
「そういえばいじめられてたって言ってたな。あ、でもそれは顔が原因だって言ってた……」
「彼女の顔は、いじめられるほど特徴があるとは思えないわ」
はっきりとした口調でいった。たしかに一般的な目線で話すと、彼女の顔は、とくに特徴のある顔ではない。目鼻だちは小ぶりだが、口は大きい。少々アンバランスと思う人もいるかもしれないが、いじめられるほどおかしなバランスではない。
「空っぽな人っているじゃない?」
迷いを帯びた口調で、舞が言った。
「なにが」
「頭のなかではなくて、心の中っていうのかな。そういうのが何もなくて。だから人の言葉で埋めてしまうの。それで自分を傷つけてしまうのかもしれない。空っぽなのを埋めていかないと……彼女はいつまでも、同じことを繰り返す気がしたの」
「それを埋めるのは、僕じゃダメだってことなのかな」
舞は答えなかった。そのかわり長い沈黙のあと「いつこっちに戻るの」と事務的にいった。
「明日、午後にはもどるよ。今度、埋め合わせさせてくれ。連絡する」
「やさしいね、太一は」
そう彼女はいって電話が切れた。
本当にやさしいのだろうか。僕はケータイのメモ機能に「明日の午後にはいくよ。腕にこれ以上、傷をつけないで」と打ち、それをコピペしてLINEを送った。
思った通り既読がついた途端、里奈からの着信が鳴った。こうなることが分かっていたから、メモに記載してからコピペしたのだ。そうしないと文字を打つつもりが、電話に出てしまうと思ったから。
ホテルは空調が強くて、目が覚めると鼻の奥が乾燥していた。寝不足の目をこすり、朝食ブッフェをかきこむ。外に出ると、ホテルの外に日の丸の旗が掲げてあった。今日は祝日だ。
母に電話を入れると、なぜか父が出た。
「母さん、朝から化粧で忙しいんだ。どうした、なにかあったか」
「今日、セミナーだって張り切っていたからさ。頑張ってと思って」
父さんは母に聞こえる声で「太一が頑張ってだとよ」と叫ぶと、ディズニー映画に出てくる、やたらと歌の上手い魔女みたいな調子で「ありがとう! 絶好調よ」と大きな声で応えるから、父さんの通訳は必要なかった。両親の明るさに、笑みがこぼれる。
さて、仕事をがんばりますか! 僕は、立ち上がった。
仕事が長引き、終わったのは午後をまわっていた。おそるおそる、LINEを確認する。里奈のLINEが届いていた。だが10通ほどだ。昨日の百通超えからすると、えらい少ない。もしかしてまた腕を切ったのだろうか。
——今日はなにを食べたい?
——やっぱり野菜のオムレツこの前食べられなかったから、それにするね。
——あれから三十分、たって冷めちゃったから、ふたつめを作ったよ。
——みっつ
——よっつめ
——卵、足りないから買い足しにいくね。すれ違ったらごめん。早めに戻るからゆるして。
——いつつめ
——むっつめ
——ななつめ
——ここのつ
のところまで読んで、携帯を助手席に放り投げた。
東京に着くと、日が暮れていた。自宅に車を置き、彼女の家に急ぐ。スーツ姿の男女がすれ違い笑っていた。その姿と自分との違いが、無性に腹立たしく感じた。ドアを開けると、しあわせそうな甘い香りがした。たまごのにおいだ。テーブルには卵焼きが一つのっていた。
「あれ、たくさん作ったんじゃないの」
「食べた」
「え……そう、なんだ」
卵焼きをそんなに大量食べられる人なんているのだろうか。僕は近くにあった箸を持って、卵焼きを食べようとすると、里奈からの「待った」がかかった。
「手とうがいは? 元気の源は、手洗いうがいよ」
その言葉。いまだかつでない、寒気がした。
「どうしてそれを」
おそる、おそるいった。彼女は目を大きくさせて
「だって当たり前のことじゃない」
「歌いながら、いうのが?」
「こういう言葉はね、楽しく相手に伝えることが大事なの。それが相手に歌として耳から届けることで植え付けられるのよ。ある意味、洗脳……」
「それも母さんの言葉だ!」
思わず声が荒ぐ。
「里奈、説明してくれ。なぜ、そのことを知っているんだ。母さんといつ話した」
「あなたのお母さんなんて知らないわ」
そういいながら彼女が、さっとチラシを隠したのを見逃さなかった。彼女のバッグからチラシを奪い取る。
そこには僕の母親が微笑み「エイジングセミナー。錆びない大人になる」と大きな字で書かれていた。
「いったの」
「ああ、これ。面白そうだったから行ったのよ。エイジングケアはね、十年後の自分のためにやるホイップクリームなのよ」
「そういう意味不明な言葉、母さんなら言いそうだ」
頭を抱えながらいった。なにもいわず彼女は卵料理を用意しだす。あくまでも何も知らなかった様子を崩さない。
「どうして噓つくの。本当は僕の母さんだって知ってて近づいたんでしょう」
だまって卵料理をテレビの前のテーブルにおき、お米をよそう。
誇らしげに振り返る彼女は、泣きそうな顔で笑っていた。
「本当は知ってたんでしょう。どうして親に近づいたの。そういうの怖いよ」
怖い、という言葉に動きが止まった。
「そっか、怖いか。ごめんね。私はただ、あなたのことが知りたかっただけなの」
「どうして母さんのことがわかった」
彼女は恥ずかしそうに頬をあからめて、その場に座った。
「ほら……はじめてうちに泊まってくれた日、あったでしょう。あの日、カバンの中に財布が見えたから、免許証を見たら住所が書いてあったからおぼえたの」
「おぼえた?」
「そう、私は何でも一度見たものは忘れない特技があるの。その住所を頼りに、あなたの家を見つけた。それからはあなたと会わない日は毎日、様子を見にいったのよ。お父さんの庄一さんは、渋谷の会社に勤める役員。とても家族が大好きなので、毎日寄り道もせずに帰るんだけど、いつもジャンプの発売日の日だけ、マンガを買って帰るの。それって太一さんのためでもあるんじゃない? 太一さんもマンガ好きだから。太一さんのお母さんは、ミュージカルに行くのが趣味。歌が好きでよく家で歌っているわ。皮膚科医なのでとてもフランクで魅力的な人。とても従業員からも信頼があっ……」
「もういいよ」
彼女は不思議そうに僕を見てる。
「そういうことは、ふつうはやらないんじゃないかな。僕が時期を見て紹介すれば済むことだから。順番があると思うよ」
「え、じゃあ。いつにする? そうね……」
とスケジュール帳を広げだす。僕はそれを無言で制した。
「じゃあなんで、舞にまで近づいたの。舞は関係ないんだよ」
舞という言葉をきいた途端、彼女の表情が曇った。
「そっか、やっぱりあなたたち繋がってたんだ……だからきのう、舞さんはうちに来てくれた」
そういうとテーブルにあったフォークを持って、自分の腕に筋を入れだした。
フォークが動くと白い線が入っていく。僕が手から奪い取ろうとすると、にこやかに微笑み「大丈夫だから、落ち着くのこうしていると血は出さないから、こうさせていて」というから、それ以上、何も言えなかった。
「あの展示会の写真が元カノさんだとしって、調べたらすぐわかったの、舞さんだって。ほら元カノさんのことがわかれば、どんな人が好みかある程度推測できるしょう。だから知っておいたほうがいいと思ったの、ただそれだけよ。さあ、アイスがあるの。食べない?」
首を横に振ってみせる。
「甘いものを食べると、人はやさしくなってすべてが丸くおさまるの」
「それは母さんがよく言ってる言葉」
だんだんとフォークを握る手に力がこもっていく。その都度、フォークの先を滑らせる皮膚に赤いラインが刻まれていく。それは砂場にラインを引くように、鮮明になっていく。
「そうね、自分の意見とは違ったとしても、本質を考えないと人間関係はうまくいかないものね」
「その言葉は里奈がいらないといった広報本にあった」
里奈はより一層強くフォークを持った。僕は泣きたくなってきた。一体、これは何の戦いなのだろうか。
「君はどうしていつも、かりものの言葉を話すの」
「かりもの……」
舞の言葉を借りている自分を棚に上げて、話し続けた。話さずにいられなかった。このままでは家族が、あのフォークに突き刺される、そんな気がした。
「もしかして……きみの中身はいつも空っぽなんじゃないの。だから自殺をしようとする。でもそれじゃあ、いつまで経っても自殺なんて終わらない」
「私は空っぽじゃない」
「じゃあ、なんで自分の言葉で話さないの。かりものみたいに人の言葉ばかり話して。どうして僕と話さずに、まわりの人を調べるの。どうして僕と向き合わずに、他の人を巻き込むの」
「それは……」
「僕を信じていないからだ。僕じゃ君を支えられないって、僕じゃたえられないって。君が知ってるからだ」
彼女は何度も首を振った。その首を絞めたあの日は、遠い昔のような気がするほど、途方もなく首を振った。
だが僕にとっては、そんなものパフォーマンスでしかなかった。またどこかの本に出てきた呪文を唱えているくらいにしか思えやしない。
「僕じゃきっと、君の空洞は埋められやしないみたいだ」
彼女は何も言わなかった。僕は立ち上がり、そのまま玄関を後にした。彼女は最後まで何もいわず、ただフォークを腕に刺していた。
その夜は、凪の海に漂うように深い眠りについた。里奈も、舞のことも、夢の世界では忘れられた。目をさますと、ベランダの外ですずめなないていた。今日はひさしぶりの休日だ。一階に行くと、母が用意してくれていた朝食を食べながら、テレビをつける。
いつもよりもだいぶ遅く起きたため、始めて見るお昼のニュース番組だった。流れてくるニュースをBGMに、新聞を読みながらパンをかじっていた。そのときだった。
見知らぬ携帯電話から連絡が入った。出ると女性の声がした。
「もしもし、あなた誰ですか」
「誰って、あなたから連絡してきたんですよ」
通常なら切っていたが、声が切羽詰まっているような切実さがあって、切ることはできなかった。その女性はああ、ごめんなさいと謝ると
「遠藤かなえです、里奈の妹です」
といった。
「ど、どうも田中太一です」
「里奈が先程、病院に運ばれました。大家さんがすごい悲鳴をきいて、通報してくれたんです」
「悲鳴?」
彼女は手を切るときに、悲鳴など出したりはしない。ただ恍惚の表情を浮かべて、血を眺めているだけだ。
「フォークで目を突いたんです」
「え?」
最後の姿が脳裏に蘇ってきた。あの時点で腕は刺していた。そのままあがっていき、やがて目を突いたというのか。
それならば目を突いた原因は、自分にあるようなものだ。
「一度に刺さらなくて何度も刺していたそうです。ためらい傷なのか、腕にもたくさん刺し傷がありました。大家さんいわく、よく出入りしている男性がいたというので、携帯の履歴から太一さんではないかと連絡しました。姉と直近まで一緒にいたのは、あなたですか」
彼女はしっかりとした口調でいった。その口調は少し、元気なときの里奈に似ていた。
「そうかもしれません。でも僕はその日、彼女とは別れました」
「できれば理由を聞かせてください」
出会ったときから、ふたりの物語を順に話してきかせた。
里奈がいかにキュートに笑い、すり寄るように甘えてきたか。彼女の作る料理はすべてちょっとどこか足りないところはあるけれど、それが美味しくて愛おしかったこと。映画を観ると、すぐのその世界に入って抜け出せなかったり、僕がいなくなると全力でさみしがって探し出すこと。
「刺すなら、僕を刺して」
といったら本当に刺して、血がふわっと湧き出たときに、彼女と一体になれた気がしたこと。でも彼女は本当の自分は全然見せてくれなくて、いつも違う人の言葉をかりて話していたこと。それが今まで過ごしてきた時間をすべて否定されたような気がしたとこと。
人を好きになるとすべてを知りたくなって、探偵のように周囲の人を調べまくってしまうこと。すべて語ってみた。
途中、妹は「ごめんなさい、ごめんなさい」といい泣いた。その泣き声をきいて、里奈は何をしたのだろうと、何も悪いことなんて一つもしていないんじゃないかと思えてきた。
ただ一人の自分みたいな男に惚れてしまったから、おかしくなってしまっただけで、誰を殺したわけでもなくて。何も悪くないのに、なんで目を潰す必要があったのか、わからなかった。
「もしかして小学生のころ、山川塾に通ってました?」
山川塾とは、以前住んでいた家の最寄り駅近くにあった塾で、小学生の頃に通っていた。だが中学生になると進学塾に通うことになりやめたのだが。そのことを告げると、妹さんは高い声をあげた。
「やっぱり通っていたんですね。きっとあなたは、姉の初恋の人だと思います。よくたいちくん、たいちくんと言っていましたから」
山川塾、たいちくん……。
そのフレーズの記憶に、鞠のキーホルダーが色づいてあらわれた。僕はテーブルに置いてあった財布につけた鞠のキーフォルダーを握りしめた。
「もしかして鞠の……」
「そうです! それは家族旅行にいったときに、お年玉でこっそり買ったやつ。まだ大事に持っててくれたんですね。きっと姉もうれしかったと思います」
号泣する妹。僕は言葉がでなかった。たしかあの塾で一緒だった少女は、すごい学校でいじめられていると言っていた。だから塾にいる時間が一番楽しいと。
里奈は何も噓なんてついていなかった。自分の言葉をしっかりと僕に伝えてくれていたんだ。
「姉はショックのためか、意識が戻りません。前みたいに戻れるか分かりません。でも太一さん。これだけは約束してください」
その言葉は強かった。
「姉の前にもうい二度と現れないでください。もし万一、彼女がまた現れても、もう相手にしないでください。知らない人と思ってください。あなたが姉を壊したんです。だからどうか、もう関わらないでください。お願いします」
「お見舞い……」
「こないでください!」
間髪入れず言われ、うなずくしかできなかった。
「この電話を切ったら、あなたの連絡先を削除します。以前の姉なら記憶力がいいので、連絡できるかもしれません。でも今の姉はちがうから……短い間でしたが、姉を好きでいてくれてありがとうございました」
電話は切れた。僕は嗚咽が止まらず、震えるように泣いた。
数日後、舞と飲みに行った。そのとき、彼女によりをもどさないかと言われた。とてもじゃないけれど、今はそんな気にはなれなかった。彼女は僕の頬をたたいて「いくじなし!」といった。
もう何がなんだかわからなくて、僕はその夜、カメラを持って、夜の街を撮った。人通りの少ない街は静かなくせに残酷で、自分の気持ちを浮かび上がらせていく。僕だって自分の言葉を話さずに、舞の言葉をかりて里奈をののしったくせに。挙げ句に彼女は目を突くことになったくせに。
途中のコンビニで酒をあおり、酒とカメラを交互に夜道を徘徊して、家につくと、玄関に母親が仁王立ちをしていた。母は僕の顔を見ても、うがいの呪文はかけずに、無言で手紙を手渡した。
差出人名はないが、小さく手角張った字。あきらかに里奈のものだった。
——太一へ
太一がいっちゃった。いつかこういう日がくるとは思ってたけど本当にくるなんてばかみたい。心のどこかでこんな日がこないことを信じていた私がいたんだって今さら気づきました。
あなたは覚えていないと思うけどはじめてあったのは小学1年生のことでした。あなたは友だちと公園で遊んでいて。私はひとりぼっちでジャングルジムにすわってた。だんだんと眠くなって落ちそうになったところを太一が助けてくれました。その優しい手で。それ依頼太一は私の王子様でした。だけど小学校は別だったからはやく学校を抜け出して会いにいかなくちゃいけなくて大変だったのは知っていますか。毎日のように太一の学校の通いました。後ろから一緒に帰れたときのよろこびを今でも覚えています。黒いランドセルの揺れにあわせて私のランドセルも揺らしながら歩くのだけどうまくシンクロできずに苦しむこともありました。だんだんと訓練を重ねることであなたの呼吸がわかってきて同じ揺れができるようになりました。といってもあなたは数メートル前を友だちと歩いているから私のことなんて見向きもしなかったけどね。同じリズムで歩いているとなんだか付き合ってるような気持ちになれて子どもなのに大人になった気分がしました。だからもっと近づきたくてあなたのランドセルの音と同じ音が鳴るように筆箱も買いかえました。あれはきっと布製ではなかったはず!
太一は高学年になると私とあなたの小学校の間にある小さな塾に通い始めました。私は親に頼みその塾に通わせてもらうことにしたんです。塾に通うために新しい服をたくさん買ってもらいました。姫っぽい格好が好きかなと思ってフリル系を選んだのだけど似合ってたかなあ。でも中学は別の塾にいってしまったので会えなくなって私の実家も引っ越すことになって最後に一言でも話せたらと思ったのに勇気がなくて話かけられなかった。
だから写真展で再会できたときは本当にうれしかった。どうしても仲良くなりたくて……百人企画のことをスタッフの人からきいたので、ちょうど百人目になるように行くのは苦労しました。でもその願いが叶ってすごくうれしかったよ。
私は太一のいうとおりもしかしたら自分の言葉を持っていないのかもしれない。自分の意見をいっても通じないしバカにされるならノドまで出かかったものをグッと飲み込んだほうがしあわせになれる気がするからずっとそうしてきた。人と同じにならないと生きていけないから人の波長みたいなものに私の解像度をあわせるようにしたらいつの間にか誰かの気持ちにシンクロするのが普通になってきて。でも誰かにならないと土足で浸入されちゃう気がしてこわくてこわくて仕方なくて。
ああもう書いていて意味がわからなくなってきました。とにかく私はかりものの言葉で話す女じゃないと否定したいけれどきっとあなたがいうならそうなのかもしれません。でもあなたのことが好きという気持ちはかりものじゃなく私の中から浮き出してきたものです。どうしようもなく溢れてきて今でも苦しくて仕方ないのです。その言葉まで噓だとはいいたくない。でもかりものから発せられた言葉はすべて噓だというなら私は消えるしかありません。ああもういくら私が空っぽでも好きな気持ちはほんとうでしかなくて。だけど私の目は何でも記憶してしまうから冷蔵庫にある卵を見るだけでベッドを見るだけであなたとの記憶が蘇ってしまう。その記憶はその他の記憶と混合してすべて自分が体験したような気持ちになってしまってよくわからないことを言ってしまって嫌われてしまうから。もうこの目は必要ないわけで。目さえなければあなたを探さずに済むしかりものにならなくていい。だからこれは最後の手紙です。ずっとあなたに出したかったラブレターがこんなかたちになるなんて考えてもみなかったけれどずっとあなただけを見てきました。この手紙を出したら私は目をとりはずします。どうやってとりはずせるかやってみないとわからないけれどなんでも記録してしまうこの目はつらすぎる。本当は目も送りたかったけどどうやって片目でポストまで行けばいいか考えつかなかったからこんな方法でごめんなさい。
愛してます。 やっといえた!
里奈より——
数年後。
じりじりした太陽を避けるように、ひさしの下を歩く。こう暑くちゃ、せっかくのオフも台無しだ。先程買った、フラペチーノも単なるジュースになるのは時間の問題だろう。
2週間ぶりのオフに代官山にやってきたのだが、やっぱり家でゆっくりしていたほうが良かったかもしれない。
そのときだった。
前から見覚えのある女性が歩いてきた。隣には洒落た格好の男性が、ベビーカーを押していた。白いワンピース姿のその女性は、幸せそうに笑いながら僕の横を通り越していった。僕は急いで首にぶらさげていたカメラを持ち、彼女の後ろ姿を追った。
だが彼女は、僕なんか世界にいないみたいにあの笑顔を別の男に向け、こちらを振り返らない。その腕には包帯も傷もなかった。
ただ右手には、パティスリー・パリセヴェイユの紙袋が揺れていた。
