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<中編小説>『その綺麗な文面ごと、死ね』第二王子×第一王子BL小説


<中編小説>『負けませんわ』第二王子×第一王子BL小説|なつめ

夜会の翌朝は、妙に静かだった。
 昨夜あれほど人を飲み込んでいた王城も、朝になれば一度、白い息をつく。回廊には磨かれた床の匂いが戻り、侍従たちの足音はまた慎重に絨毯へ吸われていく。窓の外はよく晴れていた。雨の名残も、夜の熱も、月の白さも、全部どこかへ押しやられて、ただ薄く澄んだ空だけが広がっている。
 そんな朝に限って、面倒ごとはひどく美しい紙に乗ってやってくる。
「第一王子殿下宛にございます」
 侍従が銀盆の上へ載せた封書を差し出した時、リュシアンはエドガーの執務机の横にある長椅子へ、ほとんどふてくされた猫みたいな顔で腰掛けていた。いる理由は特にない。いや、理由ならある。昨夜の夜会のあと、そのまま別れるのが妙に気に食わず、朝の執務が始まる時間になっても何となくエドガーの部屋に居座っているだけだ。
 エドガーは机の向こうで、朝の光を背に書類を捌いていた。
 淡い金の髪はすでに整えられ、薄い蒼の瞳にはいつもの冷たさが戻っている。群青の礼装ではなく、今は端正な朝の執務服だ。深い青灰の上衣に、白い喉元、無駄のない襟の合わせ。昨夜あれだけ熱と喧騒の真ん中にいたくせに、朝になればもう“第一王子”の顔へ戻っている。そういう男だ。腹立たしいほど。
 けれどリュシアンは知っている。
 完璧な顔の下に、昨夜の続きがまだ少し残っていることを。
 一曲目を誰にもやらなかったことも、人気のないバルコニーで交わした低い声も、喉元をわざと乱したまま戻ったことも、何一つ本当に終わっていないことを。
 だから、朝から同じ部屋にいる。
 気に食わないが、気に食わないだけでは離れられない。
「差出人は」
 エドガーが訊く。
「ラウフェル公爵家より」
 侍従が答える。
 その瞬間、リュシアンの目が細くなった。
 最悪だ。
 エドガーはほんの一瞬だけ動きを止めたが、すぐにいつもの無表情へ戻った。
「置いていけ」
「かしこまりました」
 侍従が去る。
 扉が閉まる。
 部屋に残るのは、紙の擦れる音と、窓の外から聞こえる鳥の声、それから、まだ開封されていない封書の気配だけだった。
 白い上質な紙。
 蝋封にはラウフェル家の紋章。
 封じる赤の色まで、妙に上品で腹が立つ。
「開けるのか」
 リュシアンが言う。
「そういうものだろ」
 エドガーが返す。
「燃やせよ」
「お前がうるさい」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 言いながらも、エドガーは封を切った。
 腹立たしいほど丁寧な手つきだった。
 紙を傷めないように、けれどためらいもなく。
 白い指先が封をほどき、中の便箋を取り出す。
 便箋まで綺麗だった。
 淡く青みがかった紙に、流れるような筆跡。女らしい丸みはあるのに甘くなりすぎず、整っていて、読みやすくて、そしてどこか冷たい。書き手の性格までそのまま写し取ったみたいな字だった。
 リュシアンはそれだけで、舌打ちしたくなった。
「読むのかよ」
「届いたんだから読むだろ」
「捨てろ」
「お前、さっきから一貫して雑だな」
「うるさい。死ね」
「くたばれ」
 エドガーは目を落として、文面を追い始める。
 最初の数行は定型だった。
 昨夜の夜会への謝辞。
 王城のもてなしへの礼。
 一曲目について、自分の振る舞いが軽率であったなら詫びるという一文。
 そこまではまだよかった。
 だが次の段で、リュシアンの機嫌は完全に終わった。
「……何だよ、その顔」
 リュシアンが低く言う。
「何でもない」
「何でもない顔じゃねえだろ」
「お前がいちいち反応しすぎる」
「死ね」
 エドガーが読んでいる文面を、リュシアンは横から奪うみたいに覗き込んだ。
 そこには、こうあった。
昨夜、殿下が一曲目を誰にも与えず、ただ静かに音楽の終わりをお待ちになるお姿を拝見し、
あの空白そのものがひとつの答えであったのだと、ようやく理解いたしました。
それはわたくしにとって甘美な返答ではございませんでしたが、
あれほど美しい拒絶を受け取れたことを、今はむしろ光栄に思っております。
 リュシアンは一瞬、何も言えなかった。
 腹が立ちすぎて、逆に声が出なかった。
 何だそれ。
 何だ、その言い方。
 美しい拒絶。
 光栄。
 甘美な返答ではない。
 綺麗すぎる。
 腹立たしいほど綺麗に、昨夜の断りを拾い上げている。
 しかもただ悔しがるのではない。受け取って、理解して、そのうえでまだ余白を残している。
 最悪だ。
「気持ち悪いな」
 リュシアンが言う。
「文面まで完璧ぶりやがって」
「お前の語彙がひどい」
 エドガーが返す。
「ひどいのはあの女だろ」
「そうかもな」
「認めるのかよ」
「嘘ではない」
「死ね」
 だが手紙はまだ続いていた。
それでも、殿下のご判断がどのような情から生まれたものであれ、
わたくしは昨夜の光景を忘れません。
誰とも踊らぬという選択は、時に、誰か一人を選ぶことよりも雄弁であると存じます。
どうかご自愛くださいませ。
またお目にかかる日まで。
 読み終えた瞬間、リュシアンは本気で便箋を握り潰しかけた。
 誰とも踊らぬという選択は、時に、誰か一人を選ぶことよりも雄弁である。
 そこまで書くか。
 そこまで分かっていて、なお綺麗に礼状へするのか。
 怖い女だ。
 本当に、怖いくらい賢い。
 そして何より、腹立たしい。
「返事は?」
 リュシアンが言う。
「出さない」
 エドガーが即答する。
「本当か?」
「当たり前だろ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「お前、こういうの律儀に返しそうで腹立つんだよ」
「誰だと思ってる」
「第一王子」
「そうだ」
「そこがむかつく」
「知るか。死ね」
「お前が先にくたばれ」
 だが、その言葉の応酬の下で、リュシアンの内側は静かに煮え切っていた。
 返事を出す出さないの話ではない。
 そんなことじゃない。
 ベルティーナは、この手紙ひとつで、昨夜の空白まで自分の物語にしている。
 断られた事実さえ、“美しい拒絶”として抱え込んでいる。
 そこが、気持ち悪いほど上手い。
 正面から取れないなら、言葉で形を残す。
 隣に立てないなら、記憶のなかへきれいに居場所を作る。
 それが、死ぬほど気に食わない。
「もう一回見せろ」
 リュシアンが言った。
「嫌だ」
「見せろ」
「何でだ」
「腹が立つからだ」
「意味が分からん」
「こっちだって分かりたくねえよ、死ね」
 エドガーが少しだけ眉を寄せる。
 その顔が、余計に気に障った。
「お前」
 リュシアンが低く言う。
「何だ」
「その手紙、そんな顔で読むな」
「どんな顔だ」
「知らねえよ。静かな顔すんな」
「朝から難癖が雑だな」
「雑でいい。死ね」
「くたばれ」
 エドガーはそう言って便箋を机へ置いた。
 それだけだった。
 ただ、机へ戻しただけ。
 なのにその動作が妙に丁寧で、妙に静かで、リュシアンにはそれすら我慢できなかった。
 気づいた時には、もう立ち上がっていた。
 長椅子を蹴るみたいに離れ、机の前まで歩き、エドガーの腕を掴む。エドガーが息を呑むより早く、そのまま体勢ごと引いた。
「おい、リュシアン」
「うるさい」
「何してる」
「黙れ」
「離せ」
「嫌だね」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 机の脇に置かれていた低い長椅子へ、エドガーの背を押しつける。
 乱暴だった。
 書類が何枚かずれる。
 便箋が机の端から落ちかける。
 椅子の脚が床を擦って低く鳴る。
 けれど、そのどれよりも乱れたのは呼吸だった。
 エドガーが長椅子へ半ば押し倒される。
 群青ではない朝の執務服が皺になり、淡い金の髪が額へ少し落ちる。薄い蒼の瞳が本気でこちらを睨み上げる。怒っている。呆れている。そして、その奥にほんの少しだけ、読めない色が混じっている。
「何のつもりだ」
 エドガーが言う。
「知らねえよ」
「知らんでやるな」
「うるさい」
「リュシアン」
「うるさいって言ってんだろ、死ね」
 その声は、もう笑っていなかった。
 リュシアンはエドガーの肩口を押さえたまま、荒い息を吐く。
 喉の奥が熱い。
 腹の底が痛い。
 何がこんなに気に食わないのか、言葉にするのが癪なくせに、言葉にしないと今にも何か壊しそうだった。
「手紙ひとつで」
 リュシアンが言う。
「何だ」
「分かったみたいな顔されんの、死ぬほど腹立つ」
「……」
「美しい拒絶、だと」
「……」
「誰とも踊らない方が雄弁だ?」
「……」
「知ったようなこと書きやがって」
「……」
「お前の何を知ってるんだよ、あいつが」
 その問いは、ほとんど自分に向いていた。
 何を知ってる。
 どこまで見た。
 どれだけ分かったつもりだ。
 そして何より、自分だけのはずの“分かってしまう感覚”を、あの女も少し持っているみたいに見えるのが、たまらなく嫌だった。
 エドガーは、押し倒されたままじっとリュシアンを見ていた。
 逃げない。
 押し返さない。
 ただ、まっすぐ見る。
 それが余計に、リュシアンを追い詰める。
「お前」
 エドガーが低く言う。
「嫉妬しすぎだ」
「死ね」
「図星か」
「くたばれ」
「違うなら違うと言え」
「違わねえよ!」
 そこでとうとう、リュシアンは言ってしまった。
 部屋の空気が止まる。
 窓の外の鳥の声が、やけに遠くなる。
 リュシアンはエドガーの上へ覆いかぶさるみたいな姿勢のまま、喉を焼きながら吐き捨てた。
「お前は俺のものだろうが」
 言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。
 何を言っている。
 何を。
 何を、そんな顔で。
 最悪だ。
 気持ち悪い。
 重い。
 浅ましい。
 独り占めしたいなんて顔をして言うな。
 それを口にした時点で、全部終わるかもしれないのに。
 だから続けるしかなかった。
 勢いのまま、誤魔化すように、噛みつくみたいに。
「他の女に綺麗な文面で勝手に理解されたくねえ」
「……」
「誰とも踊らないのが雄弁? 上等だよ。なら一番分かってんのは俺だろ」
「……」
「お前の機嫌が悪い時も、黙る時も、喉元の癖も、そういうの全部」
「……」
「俺の前でだけそういう顔して、他には何も寄越すな」
「……」
「お前は俺のものだ」
 最後の一言は、最初より低く、少しかすれていた。
 命令のつもりでも、勝ち誇りでもない。
 ほとんど懇願に近い響きが混じってしまっていて、それが何より最悪だった。
 エドガーは、しばらく何も言わなかった。
 薄い蒼の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
 怒っているようにも見える。
 呆れているようにも見える。
 それでも、決定的には拒まない。
 やがて、ゆっくり口を開く。
「……気持ち悪いな」
「知ってるよ」
 リュシアンが即座に返す。
「ほんと死ね」
「お前が先にくたばれ」
 その返しのあと、エドガーの手が動いた。
 肩を押し返すのかと思った。
 殴られるのかとも思った。
 けれど違った。
 エドガーは長椅子へ押し倒されたまま、リュシアンの襟元を掴んで引き寄せた。
「何だよ」
 リュシアンが言う。
「お前がうるさい」
 エドガーが返す。
「黙らせる」
「やってみろよ」
「言われなくても」
 次の瞬間、唇が重なった。
 激しくではない。
 だが浅くもない。
 怒っている時のキスだった。
 腹が立って、どうしようもなくて、それでも離す気がさらさらない時のキス。
 噛みつくほどではなく、優しすぎもしない。息を奪うように長くはないのに、離れたあとに何も言えなくなるには十分な熱を持っている。
 リュシアンの喉が鳴る。
 押し倒していたはずなのに、気づけば引き寄せられているのは自分のほうだった。
 くそったれ。
 こういう返し方をされると、本当に弱い。
 唇が離れる。
 それでも距離は近い。
「……今の、何だよ」
 リュシアンが言う。
「返事だ」
 エドガーが答える。
「意味分かんねえ」
「分かれ」
「死ね」
「お前が先に」
 そう言いながら、エドガーはまだ襟元を掴んでいた。
 薄い蒼の瞳が、ほんの少しだけ細まる。
「もの、だと?」
「……」
「誰がそんな気持ち悪いものになる」
「……死ね」
「くたばれ」
「じゃあ否定しろよ」
「してる」
「してねえだろ」
「うるさい」
「お前な」
 リュシアンが言い返そうとしたその前に、エドガーは低く続けた。
「だが」
「……」
「俺の前でだけ勝手に壊れるのはやめろ」
「は?」
「人前であんな顔するな」
「どんな」
「今にも全部ぶち壊しそうな顔だ」
「……」
「そんな顔をするなら」
 そこでエドガーは、少しだけ言い淀む。
 珍しいことだった。
「俺の見えないところでは、するな」
 それは、所有の言葉ではなかった。
 けれど、別の形の独占だった。
 リュシアンは一瞬だけ黙る。
 それから喉の奥で笑った。
「それ、ほぼ同じだろ」
「違う」
「違わねえよ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 そのまま、リュシアンはエドガーの喉元へ顔を埋めるみたいに近づいた。
 朝の執務服の襟元。
 そこには昨夜の礼装みたいな銀糸もない。
 ただ白い布と、白い喉と、少しだけ速い鼓動があるだけだ。
 その鼓動が、自分の言葉に反応しているみたいで、頭がおかしくなりそうだった。
「……お前」
 リュシアンが言う。
「何だ」
「否定しきれない顔すんなよ」
「気のせいだ」
「嘘つけ」
「死ね」
「くたばれ」
 それでも、押し倒されたままのエドガーはもう押し返さなかった。
 ただ、リュシアンの肩を片手で掴み、もう片方の手で机の上の礼状を見やった。
 その視線の意味を、リュシアンはすぐに理解する。
「燃やすか?」
 リュシアンが聞く。
「子供か」
「じゃあ破る」
「やめろ」
「何で」
「証拠が残る」
「理屈が妙に冷静で腹立つ」
「お前が熱すぎる」
「死ね」
「お前が先に」
 その返しのあと、エドガーは深く息を吐いた。
「返事は出さない」
「……」
「手紙も保管しない」
「……」
「これでいいか」
「全然よくねえ」
「何でだ」
「一度でも読んだのが気に食わない」
「無茶を言うな」
「知るか」
「死ね」
「くたばれ」
 リュシアンはまだエドガーの上にいた。
 押し倒した形のまま。
 けれどもう、怒りだけではなかった。
 礼状ひとつでここまで駄目になる自分も。
 押し倒した勢いで“俺のものだ”などと口走る自分も。
 それを真正面から受け止めて、否定しきらずにキスで返してくるこの男も。
 全部まとめてどうしようもなくて、どうしようもなく愛しい。
 それが腹立たしい。
「なあ、エドガー」
「何だ」
「お前、ほんと俺を狂わせるな」
「お前が勝手に狂ってる」
「は?」
「元からだろ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 その言葉のあと、今度はリュシアンのほうからもう一度口づけた。
 さっきより少し深い。
 けれど、まだ朝だ。
 窓の外は明るい。
 執務室の扉の向こうにはいつ侍従が来てもおかしくない。
 その危うさが、余計に熱を持つ。
 エドガーの指が肩へ食い込み、リュシアンの膝が長椅子の座面へ少し沈む。書類の端がずれ、机の上のインク壺がかすかに鳴る。そんな些細な音まで、妙に生々しく耳についた。
 唇が離れたあと、エドガーが低く言う。
「起きろ」
「嫌だね」
「執務だ」
「知るか」
「お前のせいで進まん」
「じゃあ今日は休め」
「無理だ」
「死ね」
「くたばれ」
 それでもすぐには離れなかった。
 リュシアンは長椅子へ片手をついたまま、もう片方の手で机の上の礼状を指先だけで引き寄せる。
「本当に返事出さねえ?」
「出さない」
「約束しろ」
「子供か」
「うるさい」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 エドガーは少しだけ眉を寄せた。
 それから、ひどく不機嫌な顔のまま言う。
「約束する」
「……」
「これで満足か」
「少し」
「最悪だな」
「知ってる」
 その返事のあと、リュシアンはようやく礼状を机へ戻した。
 燃やしたい。
 破りたい。
 ずたずたにしたい。
 けれど、今はしない。
 エドガーが約束したからだ。
 それが自分でも驚くほど効いてしまうのが、本当に腹立たしい。
「じゃあ起きる」
 リュシアンが言う。
「最初からそうしろ」
「でも最後にもう一個」
「何だ」
「お前は俺のものな」
「死ね」
「否定しろよ」
「くたばれ」
「否定してねえじゃん」
「うるさい」
 そして今度こそ、エドガーは本気でリュシアンの肩を押し返した。
 長椅子から引き剥がすみたいに。
 だがその頬には、ほんの少しだけ色が差していた。
 薄い蒼の瞳は相変わらず冷たいのに、その奥だけが妙に熱い。
 リュシアンはそれを見て、ようやく少しだけ気が済んだ顔で笑う。
「何笑ってる」
 エドガーが言う。
「お前の顔がむかつく」
「お前ほどじゃない」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
 そう言い合いながら、朝の執務室にはまた、どうしようもなく二人の熱が残るのだった。
 机の上にはベルティーナの礼状。
 綺麗すぎる文面。
 まだ燃やされていない白い紙。
 けれど、その横で第一王子は第二王子に押し倒されたまま、約束だけは口にした。
 それで十分かと問われれば、全然足りない。
 足りないが、今はそれでいい。
 リュシアンは扉へ向かうふりをして、最後にもう一度だけ振り返った。
「なあ」
「何だ」
「ほんとに返事出すなよ」
「しつこい」
「死ね」
「お前が先に」
 そのやり取りのあと、リュシアンはようやく部屋を出た。
 残されたエドガーは、しばらく動かない。
 それからゆっくり礼状へ視線を落とし、ほんの一瞬だけ目を細める。
 次の瞬間には、便箋を丁寧に折り直し、封書ごと机の端へ追いやった。
 保管しない。
 返事は出さない。
 約束は約束だ。
 その代わり、喉元にはまだ、押し倒された時についた熱だけが残っていた。


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