<中編小説>『死ねと言いながら、湯気の向こうへ』第二王子×第一王子BL小説
エドガーの私室の奥にある湯殿は、王族のための造りだけあって、妙に静かだった。
白い大理石で囲まれた床は磨かれ、壁には淡い金の装飾が走り、隅に置かれた燭台の火が湯気の向こうでぼんやり滲んでいる。湯はすでに張られていて、広い浴槽の縁からゆるやかに湯気が立ちのぼっていた。熱でほんのり白んだ空気のせいで、空間そのものがどこか現実味を失っている。外ではまだ雨が屋根を叩いているはずなのに、ここだけは別の季節みたいに温かかった。
ただし、空気だけだ。
「俺が先だ」
リュシアンが言った。
「何でだよ。お前が後にしろ。死ね」
「は? お前の部屋だからって全部お前優先だと思うなよ、くたばれ」
「ここは俺の部屋で、俺の湯で、俺の侍従が用意した」
「だから何だ。俺が先に冷えた」
「お前が勝手に雨の中で突っ立ってたんだろうが」
「お前が困る顔を見たかった」
「見せてやっただろ。満足したなら黙って順番待て」
「嫌だね。死ね」
「くたばれ」
暖炉の前で散々揉めたくせに、湯殿へ来てもこれだ。
エドガーは濡れた上衣の襟に指を掛けたまま、薄い蒼の目でじろりと睨んでくる。その目が腹立たしいくらい綺麗だった。湯気が睫毛に薄く絡み、少しだけ和らいだ輪郭のせいで、いつもより余計に冷たい美貌が際立って見える。淡い金の髪はまだ完全に乾いておらず、襟足のあたりが少しだけ深い色になっている。
そのくせ口を開けば最悪だ。
「お前な、少しは遠慮を覚えろ」
「覚えるわけないだろ。相手がお前なのに」
「その返し本当に気に障る」
「光栄だよ。死ね」
「お前が先にくたばれ」
リュシアンも外套を脱ぎ捨てた。濡れた布が床へ重たい音を立てる。黒髪はまだ雨の名残を含んでいて、首筋に何本か張りついたままだ。灰紫の瞳は湯気の向こうでも獣じみた光を失わず、むしろ熱気のせいで余計に挑発的に見えた。
エドガーはその様子を見て、一瞬だけ眉をひそめる。
「まだ冷えてる顔してるな」
「お前のせいだ」
「さっきからそればっかりだな」
「半分くらい事実だろ」
「半分しかないなら残りは自業自得だ」
「うるさい。死ね」
エドガーは深く息をつく。
そのまま壁際の棚から乾いた布を引っ掴んで、またリュシアンの頭へ投げつけた。
「自分で拭け」
「急に突き放すなよ」
「甘やかすとつけあがる」
「へえ、甘やかしてる自覚はあるんだ」
「ない」
「あるだろ」
「死ね」
「くたばれ」
リュシアンは布を肩に引っかけたまま、浴槽の縁へ寄る。湯面から立ちのぼる熱が頬に触れて、冷えきった皮膚がじわりと疼いた。指先を少し近づけるだけで、熱が分かる。かなり熱めだ。いかにもエドガーらしい。適温ですら隙を見せたくない男の湯だ。
「熱いな」
「文句あるか」
「お前、湯にまで性格出てるぞ」
「何だそれは」
「無駄に攻撃的」
「お前の風呂よりましだろ」
「俺の風呂が何だ」
「無駄に長い」
「は?」
「一度入ると出てこない」
「知ってんのかよ」
「……」
「知ってんだな」
「死ね」
「はは。くたばれ」
リュシアンの喉が愉快そうに鳴る。
そうだ。こいつは知っている。昔から、たぶんどうでもいいようなことまで。エドガーが湯に入ると妙に長いこと、熱い茶は嫌いなくせに熱い湯は好きなこと、髪を拭くときに左の襟足だけ少し雑になること。どうでもよくて、どうでもいいはずなのに、知られていると妙に落ち着かなくなることばかり。
エドガーはその視線をごまかすように、自分の袖口を外しながら低く言った。
「本当に先に入る気か」
「そのつもり」
「俺は?」
「知らねえよ。そこで死んでろ」
「お前な」
「何だ」
「今日だけで何回死ねと言ったと思ってる」
「数えるほど暇じゃない」
「俺はある」
「気色悪いな。死ね」
「くたばれ」
それなのに、どちらも動かない。
湯殿には熱気が満ち、燭台の火がかすかに揺れている。濡れた服を脱ぎ散らかしたまま、二人とも浴槽の近くで立ち尽くし、順番ひとつでいつまでも言い争っている。滑稽だ。王城でもっとも整った顔をした第一王子と、もっとも問題児じみた第二王子が、湯気の中で「お前が先だ」「死ね」「くたばれ」を繰り返している。
馬鹿みたいで、でもたまらなく二人らしい。
「……一緒に入ればいいだろ」
言ったのは、リュシアンのほうだった。
エドガーの手が止まる。
薄い蒼の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「何だって?」
「聞こえただろ」
「聞きたくなかった」
「じゃあ死ね」
「お前がくたばれ」
だが声は、さっきより少し低い。
リュシアンは肩をすくめた。
「どうせ順番で揉めるんだろ。面倒くさい」
「面倒の元凶がお前だ」
「知ってる」
「自覚があるのがなお悪い」
「なら早く諦めろよ」
「諦めるの意味が分からん」
「一緒に入れば終わるって言ってんだ」
「お前、簡単に言うな」
「何がだよ」
「……全部だ」
その返事だけ、妙に真面目だった。
リュシアンは一瞬黙る。
湯気の向こう、エドガーの顔はいつものように不機嫌だった。けれどその不機嫌の奥に、僅かなためらいがある。怒っているのとも違う。嫌がっているのとも少し違う。ただ、こいつなりに一線を意識してしまう顔だ。
そこまできてるくせに、とリュシアンは思う。
今さら何を取り繕う。
「今さらだろ」
あえて軽く言った。
「昨日も今日も散々勝手に触ってきたくせに」
「触ったのはお前もだ」
「だから?」
「だから……」
「死ね?」
「死ね」
「くたばれ」
そのままリュシアンは一歩近づく。
濡れた石の床を踏む音が、やけに小さく響いた。エドガーは逃げない。逃げる気配すらない。ただじっとこちらを見ている。綺麗すぎて腹が立つ顔で、でもほんの少しだけ呼吸が浅い。
その距離まで来て、リュシアンはわざと笑った。
「そんな顔するなよ」
「どんな顔だ」
「今さら怖気づいたみたいな顔」
「してない」
「してる」
「してない」
「してる。死ね」
「お前が先に」
エドガーの手が、今度は自分からリュシアンの肩を掴んだ。
強い。けれど押し返すためではない。引き寄せるための力だ。
指が肩へ食い込み、そのままじわりと距離がなくなる。湯気の熱より近く、雨の冷たさよりずっと深いところへ引きずり込まれるみたいな感覚がした。
「本当に、お前は」
エドガーが言う。
「俺を困らせることしかしないな」
「好きだからな、お前の困った顔」
「最低だ」
「知ってる」
「死ね」
「くたばれ」
それでも手は離れない。
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息をついた。
「……十分温まったら出るぞ」
「命令か」
「条件だ」
「へえ」
「それ以上でも以下でもない」
「嘘つけ」
「うるさい」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
言いながら、その口元がほんのわずかに緩む。
笑ったわけじゃない。笑うには足りない、ただ諦めと甘さが少し混じっただけの表情。それでもリュシアンには十分だった。王城の誰も見たことのない、第一王子のそういう顔を引き出せるのが自分だけだと思うと、胸の奥がひどく満ちる。
リュシアンは浴槽の縁に手をかけた。
「じゃあ入るぞ」
「待て」
「何だよ」
「先に足元を見ろ。濡れてる」
「子供か俺は」
「お前はそういうところで転ぶ」
「転ばねえよ」
「転ぶ」
「死ね」
「くたばれ」
言い合った直後だった。
案の定、湯殿の床でリュシアンの足がほんの少し滑った。
「っ、」
「ほら見ろ!」
「うるせえ!」
倒れるほどではなかった。だが重心が崩れた瞬間、エドガーが即座に腕を引いた。肩口を抱き込むみたいに支えられ、そのまま間近で顔が合う。呼吸が触れる。湯気で湿った睫毛の先まで、はっきり見える距離だ。
「馬鹿」
エドガーが吐き捨てる。
「うるさい」
「本当に馬鹿だな」
「お前が縁起悪いこと言うからだろ」
「責任転嫁するな」
「死ね」
「くたばれ」
だが、そのままどちらも離れなかった。
むしろエドガーのほうが、抱き留めた腕を戻せずにいた。肩に回った手が、まだそこにある。リュシアンも、それを振りほどかない。熱い湯気の中で、雨に冷えていた体温がようやく戻りはじめていて、その戻り方がやけに甘い。
エドガーが低く言う。
「笑うな」
「笑ってない」
「嘘つけ」
「お前が焦った顔したから」
「してない」
「した」
「死ね」
「お前が先に」
その言葉に重ねるみたいに、また短く唇が触れた。
長くはない。ただ、口の悪い言葉を一度止めるためだけみたいな触れ方だった。けれどその一瞬で、雨の冷たさも、さっきまでの喧嘩も、湯殿の白い空気も全部ひとつに溶ける。
離れたあと、エドガーは額を寄せるようにして言った。
「もう喋るな」
「嫌だね」
「うるさい」
「死ね」
「くたばれ」
それでも、今度は本当に二人で浴槽のほうへ歩いた。
石の縁の向こうで湯気が濃く立ちのぼる。白い靄が視界を曖昧にし、輪郭をぼかしていく。燭台の火はにじみ、浴槽の湯面は光を細かく揺らしていた。外の世界から切り離されたみたいな熱のなかへ、二人の姿が少しずつ飲まれていく。
「リュシアン」
「何だ」
「変な真似はするな」
「お前が先にするなよ」
「意味が分からん」
「分かってるくせに」
「死ね」
「くたばれ」
吐き捨てる声だけは最後までいつも通りだった。
死ね。
くたばれ。
鬱陶しい。
気に障る。
顔が腹立つ。
そんな言葉を互いに投げながら、結局二人とも、同じ湯気の向こうへ消えていく。
白い靄が濃くなり、もう輪郭は見えない。
聞こえるのは、湯の揺れる音と、低くぶつかる声だけだった。
「足、踏むな」
「お前が近いんだよ、死ね」
「黙れ、くたばれ」
「熱っ、何だこの湯」
「文句を言うな」
「お前の趣味が悪い」
「お前のほうが悪い」
「死ね」
「お前が先に」
そのあとは、湯気が全部隠した。
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